愛の美名の下、繰り返される同性愛否定。

青梗菜と書いて「ちんげんさい」と読みます。けっして「ほうれん草」ではないです。覚えておきなさい少年。


本当はりょうたんさんにトラバもらってなにか書かなきゃ思ってましたが、もう大して書く事もないし、取りやめしようと思ったらみやきちさんに
2007-03-24
のトラバ貰ったので、皆に読んでもらいたかった
2007-03-19 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
2007-03-21 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
を紹介しつつ、ちょっと感想を書きたらします。うまく書けるかな(ドキドキ)。


まずおさらい。「愛に性別は関係ない」の言葉は、自分中心の見方でしたね。というかストレート視点ですね。(あえてヘテロ視点とは言わない。無標の立場だからこそこの言葉を言えるから。)

  • モノセクシュアルがモノセクシュアルであることを忘却した性愛認識。
  • 同性愛の所以を、「愛」と云う共通項だけを持って同列に置き、そうすることで同性愛の特性自体への評価をうやむやにした。
  • 愛認識を固定化させる。

くらいの点が挙がるかしらな。


モノセクシュアルは、男女どちらかという点を重要視します。(バイセクシュアルなどの方にも男性性や女性性を欲望する人は勿論居るでしょうが。*1
なのに、愛に性別は関係ないといえば、まるでヘテロセクシュアルホモセクシュアル)が異性(同性)かどうかをまったく考慮せずに愛を指向するということにもなりえますよね。でも事実はそうではない。そう言っちゃうと、愛の意味を事実多数派が奪取してしまい(少数派の実体を押し隠しちゃい)、愛に対する自由な解釈が阻害されます。愛の解釈は人の数だけあってよい。
同性だけを愛する愛もあれば、異性だけを愛する愛もある。そして勿論、性別に関係しない他の軸を愛する愛も、当然ある。(髭専デブ専ある特定の個人だけを愛する愛など…)
色んな愛がある。その事実を、愛に性別は関係ないと言って、それぞれの愛の特徴を無いものとするのはいやですよね。そりゃあ、確かに愛自体は性別云々だけで語られませんから、「愛」全般には「性別は関係ない」とも言えますが、それはまず前提として「性別に関与した愛もある」(他の軸に関与した愛もある)という事実を踏まえた上で言わなきゃ意味不明です。一個の共通点を持ってして、「〜〜という点で共通してるのだから、すべては同じものだ」とするのは乱暴ですよね。


そして、この3点が、問題なのは、
愛はすべて同じだとすることで、それぞれの特徴を尊重する前に特徴を見る事さえせず、特徴自体を隠蔽する。そうすることで、モノセクシュアルがモノセクシュアルでなくなり、異性愛異性愛ではなくなります。これは非常にマイノリティにとって危険です。


たとえば、女性差別がある中で、女性と云うカテゴリがなくなればどうか?(じぇんだーれす!!)
女も男も同じ人間なのだから皆同じ! はい、聞こえはいいです。
しかし、現在確かに女性差別があるのに、「女性」という存在がなくなれば、女性の痛みを主張できなくなります。
女性と男性の賃金格差がある中、「女性」が居なくなれば、ダンセイという集団とジョセイという集団の格差を放置したまま、なぜ特定層との賃金格差があるのかの吟味が出来なくなる。
これと似たように、現在モノセクシュアルがほとんどを占めるこの環境下でモノとバイなどの記号を捨て去れば、今よりもさらにバイセクシュアルの人達、バイセクシュアリティは目に見えないものになります。そうすることで、無批判にモノセクシュアリティの規範は生産され、そこからはみ出たものを、弱者として名づけることさえ出来ず排除する向きが強まるでしょう。
もっとわかりやすい例が同性愛。
異性愛中心主義の中、同性愛を愛の美名の下異性愛同様「愛する」だけの指向としてしまった際、同性愛の「同性を愛する」という独特の特徴を隠蔽します。事実、倖田來未の言葉の中に、同性愛のリアリティが一個でも存在したでしょうか?同性愛の同性愛らしさと云うものがまったく見えませんよね。これが隠蔽。
そうされれば、同性愛の「同性を愛する」ということへの認めは行われず、「愛」の部分だけを容認することになるでしょう。それは、同性愛指向自体は認めないことですね。愛の美名で「私(ストレート)と同じだから許してあげよう」という向きになってしまう。

以下りょうたさんのエントリでの言葉。

確かに「同性愛は異常だ」とは彼らは言っていない。しかし、「正常だ」とは決して言わない。「性別は関係ない」と言って、あくまで性的指向の重要さを軽く扱おうとする。どこまでいっても「同性だけを愛する人間の存在」を認めることを避けようとしているようにしか思えない。


で、さらに問題なのは、同性愛バッシングの実体さえも隠蔽してしまうと言うあまりにも悲惨な実態があります。

何から「逃げている」か分かってんだろうか?

「同性愛という性的指向を持つ人間が隣に存在する」ことからのらりくらりと目を逸らし続け、こちらが同性愛者だと分かると好奇の目で眺め人格まで否定し生活基盤まで切り崩してきかねないこの異性愛社会に疑問も持たない人間から、に決まっている。

http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20070319

byりょうたさん。

なのにこの曲「BUT」の歌詞は、異性愛者の暴力性からは都合よく目をそらして*3、同性愛者の側だけを「逃げてばかりね?」「目をふさいでる」と煽るだけ。「誰のせいで苦労しとると思っとるんじゃいこのクソヘテロ*4があっ!!」と、イヤな気分になりました。

http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20070324

byみやきちさん。


同性愛自体への評価、是非を問わないのに、「愛は一緒だから」と問題を「愛」の問題にしてしまうことで、社会問題の要素を廃してしまうのです。
それ自体は素敵な手法です。リベラルな空気を生み出すことが出来れば、俗情としての偏見嫌悪感は緩やかに薄らいでいくかもしれません。
しかしこの手法は、あくまで社会的問題要素をクリアした問題に対してだけ有効です。
同性愛問題をリベラルな空気だけに頼れば、なぜ同性愛の立場が苦しいか、という一番問題にしなくてはならない社会的要素を見ないことになります。気持ちだけリベラルになっても、社会の中の不公平・不利益な状況を改善しなければ、問題の本質はいつまでたっても解決されません。
私見ですが、倖田來未はここで同性愛と云う愛を肯定しつつも、愛と云う共通の価値を武器にして、反同性愛的空気に異を唱えればよかったかと思います。今回の場合、共通の部分を強調するだけに注視されてます。それでは不十分。同性愛と云う指向自体を否定する空気があるのに、愛の共通項だけ認めてあげると言うのは、結局同性愛否定を容認してるに過ぎない。だってあくまで愛しか容認してませんから。「男(女)が男(女)を」という事実は気持ち悪い変なことで褒められない。…そういう空気を放置して、でも愛があるから、同性愛者の愛の部分だけは認めてあげよう、じゃあ片手落ちですよね。同性愛否定しながら、自分のステータスを上げるだけ。



そうした中、頑張れとか背中を押すとかいうのは、さらに非常に残酷です。財布やカバンなど必要な物を持たずに、愛と云うパスポートだけで海外渡航しろと言ってるようなもの。いたた。
みやきちさんはこう言います。

地雷原を前に佇む人に向かって、安全な場所から呑気に「一歩を踏み出して欲しい」(gooインタビューより)と応援されても困るってもんです。その地雷を設置してるのが自分たちヘテロ*5だって認識はないのかしら、倖田さん。こちらではなんと「背中を押してあげる」とまでおっしゃっておいでですよ。押すな。

愛だけじゃ、同性愛者の権利や平等、同性愛者の自由で生きやすい社会は生まれません。
愛がなくても生きてけます。愛じゃなくて、同性愛否定をまず何とかして。そういう主張が出てくるのは当然です。


・・・・ううん、話は簡単。


ある部屋に居ます。その部屋に自分と他者がいます。他者の一人は泥んこで佇んでいます。自分は泥の着いた足で、泥んこの子よりも自由に部屋を歩き回ります。
泥んこの子には色んな人の泥がつけられていてかわいそうです。
その子に「かわいそうだね、元気出して。汚くても大丈夫だよお。」と云う前に、
その泥んこの子に自分の足の泥がついてないか気にしろよ。
と云うだけの話。

*1:髭があれば男女どちらでもよいというバイセクシュアルの人もいれば、男性性女性性どちらも指向するくらい好き!て人も居るはず。