中心にいる人いない人。


私はこのように倖田來未ちんの(エイベックスの?)鈍感さがいただけないなぁと思うのは、「同性愛者が苦しいのは少なからず自分の影響があっての事」という自覚が欠如してること。これは非常に痛い。逆を言うと、これがないから、同性愛否定には異を唱えず、愛と云う無難な方向だけで終始していたのでしょう。


私は、中心にいる人は、中心の周縁に置かれた人の不利益に目を向ける必要があるとおもう。
同性愛者が社会の中で生きにくいのは、なにも同性愛者が同性愛者だからじゃない。同性愛者と云う看板と異性愛者と云う看板を作り、一方だけの権利を重要視し、対立するものを異端として排除する社会排除の構図があるから困っている。そして、その社会構図の図式を補強する人々の(マジョリティの)排他性があるから困っている。

同性愛の問題は、同性愛者の側の問題ではなく、当然社会の中の問題の一つです。
そう、初めから同性愛の問題は社会の産物だった。
この事実に目を向けないことが、今回は「愛に性別は関係ない」と云う言葉でしたね。


こんな中で、強者であり、そして社会の中心として扱われている集団から何らかの善意を振りまかれても、同性愛者と異性愛者の不均衡な力関係は温存され、更なる腐敗を呼ぶだけ。
大事なのは、どうして一方が不利益を被り、現に不均衡な力関係が横たわっているのかの検証です。
そうすることで、両者はただの差異を持つ人々でしかなく、それぞれが単なる個人である事を再認識できます。
中心にいる人は、中心である事で利益を得ます。中心にいない人は、中心にいないから不利益を被ります。男社会とかを連想されたらわかりやすいかな。
まず問題にしましょう、この構図を。
それに気づけたらば、なぜ自分が社会の中心を占拠してしまっているのか、そこに疑問が向かうはず。なぜ中心人物だけが必要な権利や、自由に生きやすい人生を歩める力を持っているのか。その不均衡に気づいたなら、愛とかではなく、不当な社会構図に「ヘイボーイ!なんかおかしくな〜い?!」と言えばそれで充分。
そうしないで、自分達の立場性に反省をしなければ、(自分の中心性を問題化しなければ)社会の不均衡な力関係を作ってしまう構図は保たれたまま。社会の中に居る人だけリベラルになってもなんも解決しません。中心とその周縁との間に横たわる事実(不均衡な力関係)に着目し、不平等抑圧の構図を暴き「何か変だ!」と訴えないと始まらない。
自己の中心性を吟味反省しなければ、自分の善意は、この不均衡な力関係を生成する社会の構図に取り込まれることになり、かなしいかな、リベラルであったはずの善意が抑圧として機能しちゃうのです(キャ!)。

何の自己反省もなしに、中心に居る人が周縁に居る人に善意を振りまけるとは、限らない。*1



・・・・ううん、話は簡単。

ある森の中の真ん中にある湧き水の噴水位置を陣取ったまま、「君、喉が乾いてて可愛そうだね。でも、大丈夫、貴方は私と同じ水を飲んでもいい人さ!水を飲んでも許してあげる!」と言っただけじゃお話になりません。真ん中にある水を独り占めしている事になんの気兼ねもせず、自分の陣取ってるその重い腰を上げようとしない。それに困っているだけ。
まず湧き水を陣取ってるその腰を上げろ!
それだけの話。


なんて書いてたら、りょうたさんが私よりわかりやすい素敵エントリを書いてくれてました。
http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20070324#1174752165

*1:しかし善意は善意。その善意さえも蔑めば、次はリベラルな空気を邪悪とする意識が芽生えるかも。かもねぎ!