とどのつまり、戦略論の話は難しいという話。

さらにコメント返そうと思ったらアホみたいに長文になったので、これもエントリーに立てます。一度コメント欄に書いた文章です。↓


先に頂いたコメント紹介。

のだださん、こんにちは。
僕はまだ色んな宿題をやっていないんですが。
今回のエントリでは、「性別」と「性自認」が少し曖昧に同一視されているような印象を受けました。

今の社会では、さまざまな法的社会的制度が、「性別」を基準にしている(この「性別」はセックスとジェンダーが曖昧に一緒にされた概念だと思います)。これがそもそもの問題だと思います。
性自認」の概念の一つの機能は、特にTGの分野で、「性別(セックス+ジェンダー)」の強制に待ったをかけることだと思うんです。「本人がそうだと思う性がまず尊重されねばならない」という。(TG、GIDの権利保障については詳しくないので、ほぼ想像ですが)
身体的性と性自認が一致していない人(GID)は当人の「性自認」が法的社会的制度でも尊重されねばならない。
性自認」がない人には、「性別(セックス+ジェンダー)」役割が強制されてはならない。
だから、のだださんがほんとうに言いたいところは、「性別なんてどうでもいい」じゃないかと思います。あるいは、制度的な「性別なんてどうでもいい」が実現し、性自認の自由が保障されたあとでの、「性自認なんてどうでもいい」じゃないかと。

性自認」「性的指向」で僕がかなり執拗に慎重になるのは、
それらが中立なカテゴリなどではなく、「強制的性別(セックス+ジェンダー)」や「異性愛中心主義」から自由でない現状があるからです。のだださんが最初に言っている「戦略」レベルの話ですか、やはり。
「愛する性別による差別」が厳然とある現状で「愛に性別は関係ない」というのが危険であるように、制度上の「性別」が明らかにGIDの生活を阻害している現実があるのに、「男でも女でもない」と軽々に言ってはいけない。制度的現実的には「男にも女にもなれないし、『男でも女でもない』ものになることも許されない」とも言えるからです。

結局、性別の制度的差異を解消するか緩めて行くこと。
そして、「ない」という選択も含めて、性自認という概念をよく考えて行くこと。「性自認」はジェンダーロールと不可分ですから、社会的ジェンダー概念が変われば何らかの影響を被るだろうから。
僕にはそのぐらいしか思いつかないのですが。


私もりょうたさんのように、沢山宿題があるのに手を未だつけられてません。そんな拙い私ですが、レスさせてもらいます。


最初に言うと、私が「性自認なんてどうでもいい」と言いたい理由は、性別カテゴリの抹消を欲望してるからではないんです。私はジェンダーレスは希望しません。性別カテゴリもちゃんとある中で、性別二元制に当てはまらない人も忘れないで欲しい。で、性別二元制から外れる人も社会の中で認知・保障されるためには、性別二元制による「制度の改革」が必要なんです。
で、性別二元制から外れる人が悩まされるような制度を改革することと、性別二元制に当てはまる全ての人が対等に扱われるように望む事は、決して対立しないと思う。
MTFFTMがネイティブな女男と対等に扱われたら、男でも女でもない人が抑圧されるか?では、逆は?
直ちにそうなる、とは言えないはず。

私は、同時に両方の保障をするのは可能だと思っている。



で、先に申したように性自認て結構ワケワカメなんですよ、私にとって。性自認がない人とTGってどう違うの?とか思うほど混乱させられます。そういう混乱が起こるものだと、おそらくりょうたさんもご存知だと思う。
で、
>「性自認」の概念の一つの機能は、特にTGの分野で、「性別(セックス+ジェンダー)」の強制に待ったをかけることだと思うんです

ということなんですが、私は性自認という概念のせいで性別に関する考えが余計に混乱させられました。
元々性自認とはそういう複雑なものであった。そのことを踏まえるなら、性自認を尊重する、と云うこと自体が非常に「性の揺らぎ」に影響を与えることになると思う。私は性自認に対してよく理解していません。が、性自認という概念自体、性別二元制という出発点から提出されたことは確実だと思う。りょうたさんが仰るように、私も性自認概念が、「与えられた性別と、自分の思う性別とは必ずしも合致しない」という言説を可能にさせたと思います。では、性自認と云うものはズレそのものを指摘する概念なのか、それとも反対の性にトランジションする可能性を指摘する概念なのか。
ジェンダーアイデンティティを和訳しますと性自認ですが、そもそも性別という項に同一性を見出すということは、性別二元制を由来としますから性別二元制を強化させます。では、ひとりのTSの性自認を尊重するということは、性別二元制の強化と親和性が(どうしても)ありますよね。当たり前ですね。「性別」(というアイデンティファイする項)がないと「性自認」なんて言葉も生まれない。
で、ここで問題なのですが、性自認というものを尊重する態度がいつも(強く)期待させられるとどうなるか?という疑問があります(この場合の期待は「〜されなければならない」という類の期待)。
性自認がある、というのは象徴するものがある、ということですね。
たとえば異性愛者は社会の中で他から優先して「想定された存在」です。ですが、私は想定されない類の人間です。しかも「同性愛」や「(狭義の)TG」ほど象徴するものが確立されてませんから、(広い定義の)ストレートと対抗する術と云うものがあまりない・・・。そう、アイデンティティの政治ができない。
そうしたとき、アイデンティティがある人は、私より「目立つ」事ができる。

そうしたとき、性別と云う概念自体、(そしてさらには性別を強化する可能性もある性自認という概念自体)を常に強化されるアクションが全体に共有されると困るのです。どうしても、「性自認なんてどうでもいい」的な発言も同時に(!)欲しい。だってそうすることで、(性自認を尊重する勢力と共に、)性別に関する規範の力を緩くさせられるかもしれないしさ。
性自認が尊重されなくてもヘイキな社会。それは結局は性別に関する規範緩くなっている状態ではないか?それなら、私の意見は尊重する向きと対立しない。

ですが、性自認を尊重する良識をちゃんと教育されてない社会の中で、私のような立場性を尊重するあまり「性自認なんてどうでもいい」という言説だけ(!)をピックアップすると、次は逆にTSなどを抑圧しかねない。
ではどうするべきか。
アイデンティティーが等価である事を認識させる必要がある。つまり、TSなどの立場を尊重するべくTSに優しい社会作りをする必要が出る。必要な制度を新たに設け、抑圧的な制度を変えなければならない。
しかしそれは優先させられるべき課題ではありません。
性別二元制という根っこを考えながら、今実際に居る社会の住人(ストレートやクィア)が平等に生活できるような社会設計をする必要が常にある。
そして、特定層の保障が他の層に抑圧的になるべきではない。なぜって特定層だけが優先するべき理由が必ずしもあるとは限らないから。
逆に、私のような立場性を優先的に保障して他の層の保障を等閑にする根拠など、おそらくない。

わたしは今回やっぱりりょうたさんと対立していないなぁと思ったのですが、同性愛差別がある中「性別に関係ない」とするのが危険である事を認識しつつも、
>性別の制度的差異を解消するか緩めて行くこと。
そして、「ない」という選択も含めて、性自認という概念をよく考えて行くこと。

・・・と仰ってる。これには深く同感でして、私の「どちらも必要な言説であったのだ」とする見解と近しいはずです。だって、どちらの保障も損なわれてはいけない、と同意見を主張してるわけですから。

私は、マイノリティに対する保証を必要だと思ってるし、そこにあるマイノリティの共同性(アイデンティティ)を無視する言説を重視させるつもりはありません。それは差別をよしとしないから。

たとえばGID特例法。性同一性障害当事者の法律が設けられるのはあってよい。けれど、特例法では性別二元制を強化する層だけを対象としました。そういう保障は結局、性別二元制からはみ出る人をノーマライズするし、保障されるべき層を、対象外とされた層と特例法対象者とを序列化したことになる。けれど、どちらが優先的に保障されるべきと云う根拠は多分ない。現在対象となった人が保障されるのは大変素晴らしい事だけれど、それとは別に、その保障をすることで「後回し」にされた層の事も考える必要があるよね。と、そういうことを書いただけなのです。ですからエントリーで申したとおり、結局私たちの意見は必ずしも「対立したり分離」するとは限らなかったのだと思う。そのやり方が難しいというだけで。
そう、おそらく、仮に対立するとしたら「戦略論」の中身ですよ。「それじゃあ俺らの保障はどうなるんでぇ」「そのやり方じゃあんた等が優先されて特権的に立場になるぜ」とか、そういう具体的で突っ込んだ内容の議論は、今のところりょうたさんやブクマの方とは一切してないはずです。

というわけで、結論。
私の意見は(多分)りょうたさんと対立はしていない。と思うのですが、どうでしょう。