死にたい日に死ねないからね。

後悔しないように生きようとは言われても、後悔もしないで後悔のない人生など歩めるはずもなく。私がすごい!と思うような人でさえ、きっとそうなんだろう。私に声かけてくれるような、絶対この人私みたい若輩者より頭きれるだろう、みたいなひとでさえ、やっぱり悩むことは多そうだ。
なんだろうなぁ。私は今の自分を嫌ってるんだろうか。好きなんだろうか。でも、どうしようもない部分があって。
私は自分の事、恋愛感情もないしゲイにアイデンティファイできないし多動が治らないし堪えしょうがないし他人を心から必要とできないし必要とされるのが怖いしなんだかもう、どうにもこうにも二進も三進もいかないね。
そんな自分だけど、たまらなく大事だとも思う。それはきっと、自分には〜〜のような部分もあるけれど〜〜の良さが代わりにあるから、とかいう理由ではなくって。単純に“自分だから”大切なんだろうなぁ。自分でさえあればそれだけで大事。
時にこういう独り上手な自分にあきれるし、そういう自分だからこそ上に書いたような性格なんじゃないかとも思う。
それってどうだ。自分を肯定することで自分の豊かさや、テンプレ的な幸せを手にできないで居る。テンプレ的というか、オーソドックスな幸せなんてなくても十二分に生きられるけれど、ちょっと、ない要素が多すぎに感じられる。そういうのが、自分でも少し苦痛なのかもしれない。苦痛なことを認めてしまうと、多数派の価値感に負けちゃうようでなかなか認められないけれど、でも、それは別に誰かと戦ってるわけじゃないんだから、認めてあげたほうが良いのかも。
不器用、で済むならいいけど、たとえば恋愛感情がない、とか、意味のない強迫観念のある異常行動をしてしまうだとか(最近は人前では抑えられるようになったけど)、そういうのは不器用と評価されるんじゃなくって、人から欠陥人間として評価されるんだろうなぁと思うとやたら悔しい。・・・勿論そこで、どっちの方が幸せか自慢、したって始まらない。そんなところで相対的に見る必要はない。


そんな自分は、やっぱりく多少は面倒なときもあって。
恋愛感情があると認められないことで恋愛しまくってる世間と折り合いが難しいし、多動なせいで自分を見せるのが恥ずかしいし。そういうのが、人との距離を作ってしまう。そういうのを欠陥と言われると腹が立つ。けれど現実問題ってものがある。やっぱり世間と同じような部分があったほうが手間要らずだ。けれどそういう自分を選択できるかって言うとそうでもない。
じゃあ自分は欠陥だから世間の隅に生きようか。・・・いやいや、そんな必要どこにもないだろう。私は私の領域で好きに生きていいと思う。
自分には確かに、不都合な自分、がある。でも、それを含め自分なんだ。
じゃあ肯定すべきか?いや、別にそんな張り切らんでもいいだろう。張り切ったほうが心地よいならそうすればいいし、そこまでする理由もなきゃしないでいい。
結局、変わらずあるのは、それが自分なんだ、という事実。それを否定する誰かがいても、自分を大切だとしか思えない自分がいる。自分を全肯定しちゃえるような性格のせいで、自分の欠陥部分が出来上がってたとしても、もはやそれを問題視しても意味がない。諦めるわけじゃない。見切りをつけるわけでもない。後悔してもしようがない事は、結局後悔することではなくそれが自分なんだと認めることでしかない。その行為は、つまりは自分の後悔しちゃうような部分を認めるってことだ。それを是正したり努力することではなく、後悔をそのままに受け入れ、それを自分の中で自分らしさとして認めること。


・・・勿論後悔する部分を変えられるなら変えてもいい。変えられて、変えたほうが自分らしく生きられるなら、それがその人の自分らしさだったのだろう。私の場合は変えられないし、変えることを選択しないと云うだけ。・・・でも、どう努力したって、誰にでも変えられないけれど後悔しちゃう、という部分てある。


それを認めるとき、でも他のみんなは自分みたいな欠陥人間じゃないんだよね負けてるよね、とか思う必要は実はなくて。だって、自分は自分だし。みんなだって一人一人欠陥と言われるような部分もある。それを人間らしさだと思ってしまえば、あとは、現実問題をどうやって納得いくようにクリアするか、と云うだけの個人的な話になる。


恋愛感情がない事を後悔してる。他動を抑えられない自分を後悔してる。そのことで人付き合いが円滑に進まない。
けれど。後悔してるけれど、それでも巧く人と付き合って生きたい。その現実問題をどうクリアしていくか。そういう問題提起は、後悔を後悔のまま受け入れなくちゃ提起できもしない事柄だと思う。
ただ、そういうクリアしたい問題がある時、それをクリアできるかどうかは別に置いて、もしかクリア可能だとしてもそれを実行する前に死ぬかもしれない。
うん、可能であっても死ぬかもしれない。
そしたら何もかも、どうもこうもなく、オジャンだ。
でもそこで思うのは、ならせめて、現実問題のクリアが可能か不可能かは置いといて、そういう自分がある事は認めてしまおう、と思う。それを認めもできなければ、可能か不可能かなんて意味のない考察だ。「後悔してる自分の部分を、さあ、どうしようか?」そう思うには、まずは、そういう自分を認めなくちゃ始まらない。
自分を見つめる先に、どういう人生があるのか。自分の要素を絶望と取るのか希望と取るのか。(それはクリアできるか確かめてみないとわからない。)
それをするためには、まず自分の姿を受け止める認めるということが不可欠だ。
いつ死ぬかはわからない。けれど、せめて、スタートラインに立ってから死にたいじゃないか。スタートラインに立ってから死んだんなら、クリアできなかった、と云うだけの話だ。けれど、立つ前に死んじゃったら、自分を認めることすらできず、ただ闇雲に生きたと云うだけ。
それじゃちょっと心残りなので、今自分は歩き出してる最中でした志半ばだったけどその最中でした、て形で死にたいじゃないのよ、せめて。
もっと言うなら、私は幸せに死ねなくてもいい。幸せになれなくてもいい。幸せじゃなかった。そう思う自分であっても・・・、仮に、幸せになる事が出来ないのが自分の自分らしさだったとしても。それでもいい。私はその自分を自分のままに認めたい。自分だけでも自分を肯定し、支えてあげたいと思うんだ。そうすることで、やっと自分を生きる事が出来ると思うの。


実際死ぬ日は選べるけれど、もしかしたら選べないかもしれない。じゃあいつ何時死んでも「後悔のないように」、自分を生きるというスタートラインに立つことだけはしておきたいものだ。そうじゃなきゃ、後悔すらできやしない。