17歳が母を殺すんです。

  • 現代社会は親殺し子殺しが頻発しており、「昔」と違ってきている。異常性の点が浮上した。というテレビ番組の内容。
  • 「一番近しい人だから殺したくなるんだよね。」「・・・確かに。遠い人を殺す動機は特に持ってないかも。」という会話内容。


精神的な異常者。マイノリティ化された属性が行うものとして「殺人」を見捉えられる。
殺したいと思うであろう対象がどこにいるのか。動機という普遍的なものとして「殺人」を見捉えられる。


殺人は誰にでもできる。ゲイではなくても男同士でセックスできる。女同士とてそうだ。しかし、それでも行為に傾向はあるのではないか?殺人を同時にこの二つの論理で語ることがきでるだろうか。
問題は、そう語ることで何が何を得るのか。
何も得ないのなら、語るのをやめようか?それは許されない。社会は既に殺人を無条件に許容していない。では、私たちはどの殺人を許して、どの殺人を許さないのか。どの殺人はどのようなものとして扱うべきか。
殺人は防がなければならない。では、そのための論理として、マイノリティ化されたものを危険視しようか?それとも、普遍的な行為として予防策を張ろうか?
ゲイという「事実」は、この二つの論理によって袋小路の中にあるだろうか?(ソドミーホモセクシュアル?)エイズと言う「事実」も、この二つの論理によって袋小路の中にあるだろうか?(リスクグループ?セーファーセックス?)
そういう理論が社会に何を与えるのか。
行為は社会から生まれたものだろうか。

いや、そもそも個別に捉えるべき問題なのだから、殺人をこのような視点だけで見るべきではないんだろうな。
どうやら、ここではもっとつっこんだ議論が必要なようなので、私はいち早く退散する。