「作家が自分の位置性を自覚すべき」という倫理問題は成立するか。

とっとと「ホモフォビア」概念に対する私の立場を明示するエントリを書きたいのだけど、それよりなによりコメントいただいておいて返してもないのにどうかと思うが、思いついたので書く。では、今日考えたことをまとめ、それを私の指標に成るように努力したい。
先に結論を申しますと、作家にも倫理問題は成立する。が、したとしてもその倫理を求めることには疑義がある。
という主張をします。

たとえばある研究者が著書を出版し世に出す、という行為があるが。この場合において、著者である研究者は、自分のポジショナリティやそこにある権力性を自覚すべきという倫理問題が出てくるだろう。
自分が研究者である、というそれなりに権力性があるだろうと認められる人が、ポジショナリティになんの自覚もなしに研究対象を研究し、さらに出版して社会に影響を及ぼすと言うのは、当然批判されるべきだろう。


そういえば以前イダさんが、女性フェミニストの論客たちに男性性・異性愛性の自覚もなしにフェミニズムを語り、マイノリティをダシに使うロジックを用いたことに批判されていたっけ。


私たちのポジショナリティ(位置性)とその権力性というのは、私たちの意識の中にある、というよりは、わたしとあなた、という関係性の中で様々なライン(労働階級・性愛・男女・出自等々)にそって存在せざるを得ないものだと私は感じるわけだ。
つまり私たちのポジショナリティは、常に吟味反省をしなければ、いつのまにかその権力性を行使してしまい、そのポジショナリティに対応したマイノリティに抑圧的に働くと言うことだ。
そして、研究者はその反省をすることを常に要請されてるはず。
研究者とて、社会的地位(出版物を出し更にアカデミックな現場自体である程度の権力性を持つ)というポジショナリティの権力性というものを持つわけだが、その者が何かの研究対象(部落出身の者、女性等々)を研究する際、書き手である自分が自分自身の反省を持たなければ、おそらく直ちに自分の権力性を持って研究対象を搾取してしまうだろう*1

わかりやすい例だと思うのだが、同性愛者の遺伝子研究などをする学者も当然これに含まれる。
学者は同性愛者を生物学的視点で研究するわけだが、同性愛者を色々リサーチして研究をし、その研究内容を社会に還元する(発表する)という作業は、明らかに研究対象に抑圧的にならざるを得ない。
なぜなら、研究内容とその発表は、必ず何らかの形でゲイリベレーションなどに影響を及ぼすだろうし、そもそも研究対象をリサーチする作業だって、マイノリティである研究対象を(言い方は悪いが)ある意味“使う”ことになるわけだから。(それはマイノリティとか関係なく無差別に抽出した対象を研究することより、搾取の危険性がある、と考えるのは自然ではないだろうか?)
そういった研究をする際、自分の研究内容を異性愛者の立場から追求し公表することになるかもしれないわけだが、そこに自分の異性愛中心主義的価値感が入り込んではいまいか?その研究の発表の仕方により、同性愛者を抑圧してはいまいかという反省は重要だ。そこには、もしかしたら異性愛者と云う権力性のある位置からの搾取があったかもしれない。そしてそこから更なる差別的イデオロギーと研究とが結託して(しまい)、抑圧に加担してしまうかもしれない。そこで研究者が何にも責任はないと言って門外漢を装うことは、けして許されることではないだろう。実際ニュースになるよな研究発表と云うのには、研究者からのなるべく中立的な立場性を強調し、研究内容自体をイデオロギー論争に容易に巻き込まれないような配慮だってあったと思う。研究は研究。学問は学問。それが学者や研究者の真摯な姿勢だ。
そういった自己のポジショナリティとその権力性を自覚し、その影響があった場合吟味反省をしていかなければならない、と云うのは、正に研究者の倫理問題として成立すると思う。


ここで、一応書き加えておくと。だから同性愛者を研究するのはやめるべきだ!ということを主張してるわけでは、まったくないのだ。
というか、もっと広い意味で研究者というもの自体、研究をする限り研究対象に抑圧的にならざるを得ないものだろうと思う。それはどんな対象(マイノリティでなくても!)を研究していようとそうだろうし、言ってしまえば「貴賎はない」わけだ。(なんだそりゃ) 
それに、研究をしていなくても私たちは誰しもが、マイノリティにだけ困難を強いてしまうよな権力性を持っているのだ。更にいうなら、私たちは他者を意味づけることや名づけることで、日常的に暴力を振るっている。研究者とてその例外ではなく、だからこそ、<研究をしてる自分>でさえマジョリティの権力性への配慮や、そもそもの「名づけてしまうことの暴力」への配慮等を怠ってはいけないのだ。*2
けれど、研究者と云うのは、自分の研究領域への追求と云うのが仕事だし、それを社会に還元していくことが、ひいてはアカデミアにおける社会的責務になっているだろうと思う。それを「しない選択」を強いるならば、それは学問への否定だろうし、そうしてしまうことで我々は常に思考停止状態で暮らす羽目になるわけだ。それはあまりに滑稽ではないか。


結局、抑圧せざるを得ないのが人間だとも言えるのかもしれない。それは言い過ぎにしても、研究者が研究を怠ることはありえないし、それをすることでの様々な責任というものを負うべきなのだが、研究者は研究者であるからこそその研究を実際に執り行っている「わたし」のポジショナリティと権力性に自覚的でなければならないのだ。そうしなければ、公平な研究内容と云うものはおそらく追求できないだろうし、反省しないのであれば研究は単なる政争の具にでも成り下がってしまうのだろう。

というか、フェミやクィアの場合、そのようなポジショナリティの差異と権力性に配慮し、吟味反省の作業を怠らないことが重要必須の倫理問題だと思うのだけれど。そこを怠るならフェミはフェミたりえないのだろうし、クィアな実践など単なる被害者意識のための吐け口にはならないか。
そもそも、そういった吟味反省がない研究と云うのは、どこか重要な視点が取りこぼされてると思える。


では、そこでなのだが・・・。
このように研究者が研究をする際に、自分のポジショナリティと権力性に、「自覚的であれ」というのは、その分野の倫理問題として要請されるだろうが、では作家などはどうなるだろう?と私は思ったのだ。


私はBL購読者であるが、BLにホモフォビックな記述がある事は否めない。そして、その著書の中でなんの苦労もなく「ゲイとか関係ないよね、愛があるから大丈夫」と言えるのは、ありていに言って著者が社会的に強者であるゆえの感性が反映してる場合もあるだろうと思う。(勿論このような↑愛の表現を否定する意図はないですが)
社会的な自分、というのは自明すぎることで、自我と云うのも結局は社会と云う文脈から自由ではないのだ。そもそもシンギュラーな自分と云うのは、なんの関係性もなく勝手に独自に樹立してるものだとは言えないはずではないか。「個」が個であるためには他が必要であるのなら、そう解釈できる。
そう考えてあえて「(たとえば)研究者的わたし」と「研究者的ではない私」などの境界線を曖昧に見なした場合、「社会的なわたし」という文脈においてBL作家の中にも共通して当然ポジショナリティと権力性の問題系が見出せると思うのだが、この場合私は一体どのようにBLを“見つめ”ればよいだろう?


私はBLがゲイの一部に嫌われるのも致し方ないとは思う。それも単なる「趣味の問題」ではなく、「社会的影響」を危惧した上での嫌いだ。
だがしかし、私はここで容易にBLバッシングを表立ってすることは、なるべくなら避けたい気持ちがある。それは、放置と言う選択ではないのだが、BLというカテゴリを否定批判することの選択肢が、果たして“有効”(!)であろうかと思うのだ。


ここで明示したいのが、“学問的研究”と文化媒体を通している“作品”との違いだ。
後者は明らかにアーティスティックだと思うのだが、ここが案外ミソの部分だと思う。


私はキャムプという笑いが「ある」のを知っている。(詳しくはないが)
そこでは、たとえ一見してホモフォビックな笑いが使用されてるようで、その実はリブ的特性を持っているのではないか。それを「同性愛を(一部的に)バッシングしてる!」という理由で評価するものから退けてしまうと言うのには納得がいかない。では、一体どのような表現だったら「よい」と評価できるのか。その評価のありようははたして常に普遍的に良識であり続けられるのだろうか。


これと同様に、BLにも「一見ホモフォビックだけどかく乱をしてる」描写というのは、実は多くに見られる。意図せずかしてか、規範性へのかく乱と云う作業を事実上こなしてるBL表現がある。
これを仮に「同性愛に非好意的であるからダメ」という理由で否定しようものなら*3、そのロジックは直ちにリべレーションの中のアクションの可能性を狭めるのではないか?と思う。
ここが私にとっての「研究」と「作品」との大きな違いなのだと思う。簡単に倫理性を求めることが難しい領域、と言ってしまえば、確かにそうなのだ。


しかしBL(そしてBL作家)の影響で緩やかなゲイ肯定が広がろうと逆の効果があろうと、考えなければならないのはそういった難しい領域に対してどのようなアクションが有効なのかと言う議論に思う。


たとえばクィアコミュニティをあげて出版社に抗議文を送ろうか?(する団体はないと思うけど
もっと基本で作者にお手紙だして反省を促せようか?
しかし、ここで私が問いたいのは、それは本当に効果的なアクションか?ということ。

私の愚見だが、おそらくはそういう類のアクションをすれば、ゲイと腐(作家含む!)の隔絶が起こるのがせいぜいで、互いの理解が深まると言うことは期待できないのではないか。と思う。
「あ、こわーい。同性愛者さんに怒られないように口先だけでも謝っておこう!」
とか、
「ほら、私たちはホンモノ(?)の同性愛者に迷惑な存在だから地下に潜んでなぁなぁで楽しもうよ」
とかいうことになるのでは?と思うわけだ。
アングラ化したい人はすればいいが、私の本懐はもちろんそんな結果にはない。それでは結局問題は問題のままタンスの隅にでも追いやられておしまいだろう。


では、どうしようか?


私はBLを読みレビューする一人のクィアとして、一体どのように働きかけるのが戦略的で有効か、という問いを立ててみたい。


結論から言って、BLや百合なども社会の文化の一つなのだから、それを扱うBL・百合作家にもこうした倫理問題と関わっている。だから研究と同様の反省吟味を迫られても論理的に構わないはずだと思う。
けれど、大切なのはその仕方だ。
BLや百合の中にホモフォビックな表現があるとして「だからBL・百合はダメなんだ!」とか言ってしまうのはどうなのだろうと思う。
社会への影響を認めつつ、そしてその反省吟味を「逃避」の形で放り投げさせないためにはどうすべきか。


私はとりあえずの結論として、BLや百合を、単なる社会の中の文化としてみよう、と云ってみる。百合やBLに対して同性愛に迷惑な存在だと語られる節があるけれど、そのような特権的問題として見る明確な根拠はないように思う。だって、BL・百合ジャンルではなくってもホモフォビックな表現はあるし。なぜBL・百合だけを特権的に問題視するのか。


では、具体的にどうしろと云うのか。それは、結局は単なる“文化のうちの一つ”として見れたらもう半分済んでると思う。
というのも、百合・BLをターゲットに批判するのは生産的ではないからだ。私はBLと百合がなぜホモフォビックなのかと言えば、それは社会全体の反映だと思うのだ!そう、世相の反映だ。BLや百合は、単なる社会の中のホモフォビアの鏡でしかない。私が取るスタンスは、いわば社会原因説だ!
とするならば、私はBL・百合に批判点がある場合には、社会の中の文化を名指しして批判することこそが重要だと思う。つまり、BLや百合を通して、社会を批判する!という作業こそがミソなのだと私は主張する。

この作品のキャラ「夏姫」と「冬華」はこんな寝言を言っていますが、実際には女同士のレイプだってあるんですよ世の中には(こういった本まで出ているくらいです)。「傷つけない」どころか、膣の中が爪で切り裂かれて流血沙汰になったりもしちゃうんですよ。さらに、レズビアンカップルのDVだって当然あります。たとえばこのページによると、同性カップル間のDVの割合は、異性愛者女性がDV被害に遭う割合とほとんど同じだそうです。それでも同性愛者だと周囲にセクシュアリティを知られてしまうことを恐れてレイプ/DV被害を通報できなかったり、あるいは通報したところで異性間のレイプ/DV被害者ほどの援助や支援はしてもらえなかったりする(法整備が行き届いていない上、警察や司法当局などの無理解もあるから)という、深刻な問題があるんです。のんきに「女の性はお互いを傷つけずにすむ」なんて気持ち悪い美化を吹聴するのは、たくさんの女性が実際に苦しんでいる問題を無視あるいは不可視化する行為であって、ありていに言ってすっげー迷惑です。

http://blnd.sakura.ne.jp/comic/comic048.html

これは単純に百合を批判してるのか、はたまた社会を批判してるのか、明確に区別は出来ない(実はそこが魅力的だとも思うのですけれど)。
私はid:miyakichiさんの百合系レビューに可能性を見出している。みやきちさんは、百合表現の中で何が問題点か明確にし、百合作品を批評(!)することで、社会の中のまなざしを批判することに成功しているのではないか。更にいうと、みやきちさんの姿勢は「だから百合はダメなんだ」と言って、レズビアンの問題系を百合の中に押し込んで矮小化させてはいないのだと思う。百合の中の問題を社会と言う開けた空間に持ち出している。
そう、重要だと思ったのは、「女性の問題を不可視化してはいけないのだ」という主張を、百合を通して行った点だ。詳しく問題点を挙げて、このような不可視化は許せないのだと主張する。みやきちさんは百合に焦点を当ててるのではなく、そういった社会的な“まなざし”を問題化したと言えまいか。



百合の表現に問題がある場合、「百合はこのように問題性を再生産している!」と百合を叩くのではなく、「百合表現の中にあるように、このような不可視化の問題が社会に横たわっているのですよ!」という指摘が必要だと思う。そのほうが生産的に思えるからだ。
先ほど申しましたように、百合とて社会を反映した文化の一つだと思う。ならば、社会へのアクションなくして百合の変革はありえないのではないか、と私は主張する。―――だからと言って、社会をまず変えろ!と言えるかどうかは定かじゃないのが痛いです。「まず」と言うけれど、その「まず」の準拠は何を根拠にしてるかは、常に不明瞭だからだ。*4


これらの違いはご理解いただけるでしょうか?百合だけ(ここ重要)を批判対称にしてしまうと、かえって“問題と社会”との関連性を断ち切ってしまうデメリットが浮上するのではないか?と危惧するのは杞憂だろうか?(杞憂の場合、ばしばし百合の「再生産」問題を語るべきだとは思う。)*5
けして問題は百合の中にあったのではなく、社会の中にあったのではないか。という視点を忘れずにいたい。


大体にして、「問題性を再生産している!」という主張は、それをしたらおしまいなのではなく、「だからどうすべきなのだ」という問いが出てくるはずなのだ。必要なのは批判否定ではなく、批評なのだ。しかもBLや百合に対抗するのではなく、BLや百合を通しての、“まなざし”への対抗が重要なのだ。私はそう感じる。



けれど、その主張は結構弱い。だって、やっぱりそれはそれでも、私の中の怒りを抑えることは、なにか違うような気がするからだ。
気がしたからどうと云うことはないのだけれど、第一に、自分の中の叫びを一切排除して、そのようなまなざしへの対抗はありえただろうか?私が怒っているのは、確かにBLにではなく、社会にだ。

そして、先に申したとおりBLと言う文化も社会のひとつなのだ。そう、百合問題やBL問題を社会の問題と捉えるなら、社会全体のまなざし自体に焦点を当てて問いかけるような作業が生産的で有効的(!)と思うけれど。・・・けれど、だ。
なぜ研究者は研究者として明確に吟味反省を迫られて、なぜBL百合作家だけが「社会全体の問題だから、著者にだけ文句を言っても仕方がない」と放免されるのか。そういう疑問符が、結論を出した私の中にさえ浮上する。私はBL作家に怒りを抱いているのだ。
生産的にするために、戦略的な行動をとろう。けれど、作家にも反省吟味の責務はあるのではないか。そう思ってしまうと、もはや振り出しに戻る。
だが、やはり私の主張は、ありていに言ってこうだ。
「どうせBL・百合作家1人に何言っても暖簾に腕押し!ならばBL・百合を通して、社会のまなざしこそを指摘し、批評しよう!」
だ。
だって、作品は研究とは違って「正しさ」が明白なものではないし。文化的表現の幅を狭めるわけには行かないという根拠を持つならば、作家は作家としてさておくにしても、その作家の生み出した作品を批評するのが有効的なのだと思うもの・・・。
アーティスティックなものに、研究内容と同じような吟味反省は、正直言って求められない・・・と思う。だから、作品への批評にとどめる。それが生産的な戦略だと、今の時点では結論付けました。
私の場合BL批評。それが私の戦略なのだけれど、でもやはりBL・百合というジャンル自体にも作家に向けても何らかの(吟味反省を促すような)アクションがあって欲しい気もする・・・。

ああ、なんてことだ。結局どっちつかずの主張に終わっちゃった。けれど、そうした私の葛藤一つ一つが真実だもの。私は私の思うように動く。それに異を唱えてくれる人が居るのであれば、その人とは道を分けて違うやり方でアクションを起こしていければ・・・それこそ生産的だと思う。
では、ダメダメなのだだはここで退散する。

*1:それがたとえば「部落出身者」ではなく「部落と共同体」という“テーマ”が研究対象であっても、部落的問題に触れる以上マイノリティのセンシティブな箇所に触れないとも限らない。

*2:ここで重要なのは、研究者に有責性があるのではなく、むしろ(言い方を悪くすれば)「人と社会」の中にある業が問題なのだ。そして、研究者も研究者になったからと言ってその業を背負わずに済む道理はないのだ。むしろ、研究者と言う権力を握った上で、その業を無批判に(!)振り回すことが危険なのだ。

*3:誰もしてないかもだけど

*4:「社会を変革せよ」or「意識を変革せよ」の対立図式からわかるように、どちらか一方だけやっていればいい、という根拠はないし、どちらが先かと云うのも明確には決められない。結局は、その「どちらの歩みも排さずに、相互的に作用しよう」というスタンスが求められるのだと思う・・・。しかし、それもケースバイケースではないか、とも思うのだ。

*5:しかし、私は門外漢がBLバッシングを無責任に行って、同性愛否定がまるで「BL」の中にだけある事として矮小化させる連中が居るように思えるのだが・・・、どうか?