許しと懺悔に、天を仰ぎましょ。

許したければ許せばいいけれど、私は許されることを拒む。いや、許されると言うことから回避するのではなく、「許す/許さない」という次元に私を据え置くことを拒み、回避する。
たとえば、私を認め許してあげようとする奴等(て誰だっけ?)を、「あなたは私の赤い部分を許すと言うけれど、でも私には黄緑の部分まであるんだよ。それでも本当にあなたは私を許せる?」と挑戦状を叩き付けたい。
あるいは、許すという次元で私を捉えることで、私を自分にとってコントロールすべき奴隷にしてしまうことに対し「私はアナタを神だとは思ってないし、私はアナタの信仰する宗教に属してなんていない。アナタは勝手に誰かを許した気になってるだけよ。」と鼻で笑ってやる。


許されることを拒む私を許せない?じゃあ、殺せばいい。殺せるのならそうすればいい。「そうすればいい」と私は堂々と言える。なぜならば、私を「許」そうとする奴等(て誰だっけ?)は私の居る土俵に上ってすらいないことになっているんだもの。――本当は許す事なんて出来ないくせに!
殺されても構わない、というのではなくて、許そうとする奴等(て一体誰なんだ?)は既に私を私としてみるのではなく、私を神の僕として見ているからなのよ。
いい?神は私たちの心の中で私たちを律するけれど、私たちと神は既に同じ土俵にはいないのよ。だからこそ神は、私を許し許さないことが出来るのよ。
ならば、奴等(一体何者だ?)は私を許す対象とすることにより、私とは違う主になってしまうのさ。神と僕は違う場所に生きてるのでしょう?だから私は「そう、私を許さないのか。ならばお前は天国で存在する神であって、私は地上に生きる僕かあるいは地獄に堕ちた悪魔ね。で?その天国にいるお前にどうやってここまで手を伸ばして殺しにこれるの?」と言ってやるんだ。天の上からナイフを振り回しても届かないけど?
そんななんの脅威もない存在に成り下がってしまっている奴等(は何処にいた?)を私は気に止めたくはない。
本当に怖いのは、隣に居るあの人だ。
私はあの人に許されたい。けれど私はあの人に神になってほしくはない。だから永遠に私はあの人から許されることはない。だってあの人は私を許す対象とはしていないし、そして私も許されたいのに実際には許されるように企むことが出来ないのだもの。
だってそうでしょ?私を許すものは天国に行ってしまうもの。けれど私は、あの人に、私と共にこの地上で生きるあの人にこそ、許されたいのだもの。
けれど、それをどうやって望むと言うの?完璧に相入れない欲望は何処に行くの?
私は怖い。許されたいと思ってしまうあの人が怖い。
あの人が私を許せないのなら、やはり私は神に縋る他ないのか?せいぜい神で満足しておけと?でも、私は神の許しには安堵のため息はこぼせないのだけど。

それならばいっそ、神が堕ちてくればいい。私は私を殺せる位置に居る誰かに許されたい。
もはや殺されたいのか許されたいのか安らぎたいのかわかりゃしない。