普通を勝ち取るのはとにかく大変らしい。

フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

フラワー・オブ・ライフ (4) (ウィングス・コミックス)

真島と花園のシーン。

「お前どーせ今までクラスのみんなの事馬鹿にしてただろ 自分は他の奴等とは違う特別な人間だって思ってたんだろ?」

「それってお前の大ッ嫌いなフツーだぜ!?もともとお前はフツーなんだよ この世のどこにでもうんざりするほどいるキレやすい馬鹿なフツーのクソガキなんだよ!!」

「フツーの何がいけないんだ 俺は普通がいい!!普通の高校生で普通に恋愛して普通に失恋して普通に恥かいて普通に普通の人間にはなりたくないと思いたい!!」

うゎあお!カタカナ多い!さすが高校生(偏見)。まるで私みたい。

普通になりたくないと思う事を普通に位置づけちゃうのね。そしてそれを『普通』の自分という境界内で保持したいのね。でもそれって矛盾だわ。なのにあえて矛盾を描き抜き出してみたのね、よしながふみ。三国の言うように、言葉に出来るなら漫画描いてないよ!てなもんですわよね。


ていうか、普通だと自認する人も苦労してるのね。私はよしながふみは結構アジな人だと思ってて、大衆向けになるような工夫を凝らしてると思う。正しいとされる価値感とその価値感の順応と遂行の難しさ(リアル)をまざまざと描き、「正しいエンドマーク」で感動させて読者に何らかの主義を洗脳させようとする試みから離れる。そのことで、読者はそこにあるキャラクタの情動に素直に共感できる。
私は引用した内容を「普通の再評価」だと感じたのだけれど。もしその読みが当たりなら*1よしながふみは、世間の多数派である(はずの)普通の人達に一石投じた(或いはエールを送った?)のだと思う。
しかし言うまでもなくすべての側面においては普通の人などいない。普通な人と云うのは、普通というそこに備えられた座標に自分を置く事に成功できる〔できてしまう〕機会に恵まれてる、と相対的に評価されるだろう人を指す。けれど、そもそも確かであるのは「普通」と在らしめる位置性そのものであって、普通と呼ばれる「わたし」ではないのだ。「わたし」という自我は普通や変態を通過したりする行為の主体であって、普通と常に同位置にいない。普通=わたしではないのだ。普通という座標を紙の上に書いた上で、自分たちの個性がどこに当てはまるかの実験が、「私は普通である」という証明を可能にする。

うーん。私は「変態の再評価を図るべきなんだよねー」ってばっかり考えていたけど・・・、そうだった。すっかり忘れていたけど、この世の中には「普通じゃない奴は排除しちゃえ☆」という向きの他にも「普通コンプレックス」というものがあったんだっけ!読むまで忘れてた私もすごく図太い馬鹿やろうだが。現在の私には薄い発想だなぁ。
しかし、今更「普通でいいじゃないか」なんてまるでカビの生えた古臭い青春ドラマだわ。いつまで私らは普通とされる自分を肯定したり、あるいは普通ではないとされる自分を肯定していかなければならないんだろう。面倒くさいにも程がある。

・・・つ−かそういうのってさー。変態と罵られて成熟してきた人格にしてみれば、「普通でいいじゃないか」はとても腹の立つメッセージだ。一方では「普通」に立てなかった自分だから今まで辛苦を舐めてきたのに、されどそれとは別に、一方では「普通」であることにコンプレックスを抱き苦しんで、しかも勝手に「普通」でいられることの幸せを噛み締めあえるように普通を再評価する。これじゃ、「普通」から脱落した人達からしたら、また「普通」の呪縛が強固なものになるという話だし、「へいへい、要するにあんたらは贅沢病なんでしょ」とでも言いたくなる。(あ、私だけ?

嗚呼、普通でいられることのなんと恵まれたことか!・・なぁんて、もうおふざけにもならないセリフだわ。

て言うか今更どうして「普通の再評価」なんだ?「普通」はもうよくないか?この時代ではそれほど「普通コンプレックス」を維持するシステム、土台は濃くないような気がする。だって、何が普通であるのかの明確な根拠が、規範と規範を内包する共同体と共に薄れていってると思うから。


じゃあ替わって、奥浩哉の「変なのは個性だ」というフレーズはどうなんだろう。>漫画「変ーHEN」
障害は個性だ!変は個性だ!これも相対化なのかしらん?なんだか胡散臭いのだけど。少なくとも奥は。
変なのはある意味個性じゃない。レッテルだ。烙印だ。それを個性として読み替えることで再評価を行う。けれど、それを多数派に言われたらすごく居心地が悪く感じる。・・・ただそれだけのことなのかしら?けれど、本当に「変」なのは個性なのだろうか?でも、個性になるのなら変は変じゃなくなるじゃないか。変と云うのは、いつだって普通からはみ出たものなのだから、障害を個性と言えようとも、セクマイを個性と言えようとも、偏差値の違いも個性と言えようとも、変は変なのではないか。変であり続けるだけのものではないか。
私は、変だけは、変だけは!、個性じゃないと思う。(けれど、具体的に変態と呼ばれるカテゴリーは<たとえばセクマイ?>は常に変であり続けるとは言えない。そうではなく、「変」という位置性は「変」でしかありえないということ。)
変、或いは有体に言って変態は、いつだって、普通に抗う装置だと思う。普通を支える逆説的装置だと思う。ならば、変態だけは個性になってはいけない、それが要請されることのはず。しかし、「普通コンプレックス」があるような世俗的(<普通?)環境下では「変でもいいじゃないか」と「普通でもいじゃないか」が、あたかも(サラリーマンや同性愛者など具体的にカテゴライズされた)『存在』の再評価のように捉えられ、同列の再評価と認識される。というか、普遍的テーマとして俗情で解釈し続けられる事柄だと認識される。(←たとえば、人を嫌ってはいけない。変だからと言って愛さないのは、隣人を愛せないことだぞ!ならば同性愛者も貧乏人も愛そう。という脅し。)
けれど、たとえば同性愛者の再評価と、変態の再評価は同一ではない。同性愛者が普通となる日も来るかもしれない。けれど、そこにはまた新たに変態になるべきスケープゴートを用意するだけだ。つまり、変態は変態のままで、その椅子は微動だにしない。同性愛者が普通に成り上がってもそれは揺らがないのだ。つまり、定義上変態は変態でしかありえない。実は「変態の再評価」など本来的には言語の定義上ありえない、ということだ。
そう、同性愛=変態ではない、ともいえるのだ。(まあ実際、現在は変態視されてるけど)

変態コンプレックスと普通コンプレックス。
この次元に於いては、変と評価されることも、普通と評価されることも、等しく与えられることであり、いつも不条理な真理(←欺瞞だけど)なのだ*2。その不条理な真理の中で大衆は、自己肯定の為に「変と普通の再評価」試みる。変なのと普通なのは、「いじめられやすい対象だ」とか「つまらない人生を送る」というまなざしに晒される。そしてそれを何とか肯定したがる・・・。
いや、実際はもっと奥深い問題なのに、私たち大衆はそんなイメージでしか「普通」「変態」をまなざすことが出来ていないのではないか。(問題視するべきは、「同性愛」「SM」という変態や「しがないサラリーマン」という普通が苦しんでいる、という事実だけではなく、それらがなぜ変態・普通と呼ばれ、なぜそれぞれに権力の序列が出来てしまうか?という構造そのものだ。)
けれど、普通だけは個性にはならないし、変だけは個性にならない。なぜなら、普通と変だけは、中身の品を変え手を変えて、維持される共犯者だからだ。変という位置性は(たとえ中身が変容しようとも)いつまでも維持されるだろうし、普通だってそうだ。
普通と変態をうまくイメージできない。けれど、変と普通というのは、結局相対化の対象ではなく、ただただこの社会の中で用意された装置であり続ける。普遍的に変態な『存在』はいない。普通も同様だ。けれど、いつの時代にも「あの人って変よね」「あの人ってまったくの普通よね」という指摘は繰り返され、その都度「普通・変態」の『ポスト』は維持し続けられる。それは、普通と変態の位置をいつも固持しようとする私たちの試みとともにあるんだ。

「変でもいいじゃないか」「普通でもいいじゃないか」そう言ってゆく事で、変態や普通という位置性は消えるわけではない。むしろ、そのメッセージは普通と変態の緊張関係(俺は普通だよな?お前は普通だよな?俺は普通でいいのか?お前は普通でいろ)を強化するだろう。
「変でもいいじゃないか」というメッセージは→同性愛は「いい変態だ*3」→SMは「悪い変態だ*4」という選別をすることになるだけではないだろうか?
要するに、「変でもいいじゃないか」と言いながら、その実、更なる変態とまなざされる対象を探し当て名指しし糾弾する・・・というだけで、「次回からは同性愛は善い者だけど、次回からは〜〜が悪者にするからね☆」という子供の粗悪な遊びごとにしかならないのではないか?
では、普通はどうだろう?
「普通でいいじゃないか」というメッセージは、何を生み出すんだろうか?安全地帯を作るための普通が自分の苦しみの根源になる時、私たちは「普通の再評価」の対象を誰に充てることとするのか?
うん?変態の場合は単にスケープゴートがAからBに移行しただけだが、普通の場合はどうなるのだろう?誰か、「普通の人」、私に教えてください。

要するに「普通でいいじゃないか」と言うことは、普通である自分を諦める、と云うことなのだろうか。で、かわって変態は「これからは僕も『普通』になれるぞ!でも次の変態はお前だ!」というお鉢を回す行為になりそうな気がする。けれど、「普通の人」はもうこれ以上はどこにも上がる事は出来ない(つまり、変態は希望の可能性があるが、普通は諦念しかない。)。そう、普通から脱却すること以外には、どうしようもない。変態になるか、偉人になるかしかない。けれど、「天才と変人は紙一重」ではなかったか?
結局、何を普通・変態とまなざす価値感が<私たちと私たちの社会>にあるのかを学ばなければ、このようなループからは逃れられないような気がしてしまうのだが・・・。

自分を普通と位置づけることで、どんな既得権益を「当たり前」にしてしまうのか。自分を変態と位置づけることで、どんな個性を蔑称化してしまうのか。
どうせ「普通でもいいじゃないか」「変でもいいじゃないか」と言い切るのなら、「自分が自分であることになんの異存もない」と言える度胸を持ちたいものだ。私が肯定したいのは変・普通のポストなどではなく、自分自身(或いは親しい他者?)と云う存在なのだから。
ていうか、「〜〜でもいいじゃないか」という自己肯定はそれ(「異存なし!」)が根底にあるはずなのだが。

で、
結局私はどうしたいのだ。
普通と変態の価値感による排他的構造に回収されることを恐れるだけなのか。それだけなのかもしれない。
なんだか、変態コンプレックスも普通コンプレックスも単なる贅沢病のように思えてくる。けれど実際は、そんな生易しいものではないのだから困り者だ。

*1:本と私という関係上、「当たり」の読みはないのだが。

*2:けれど、実際には明らかに変態コンプレックスを持つ人のほうが不利益を被っている。等しいコンプレックスとは、とてもじゃないが言いづらいものがある。

*3:そして、いつの日か普通になりあがるだろう

*4:そして、変態と扱われるべきだと言われ、変態であることの蓋然性を高められるだろう