腐女子マンガ大系の前半感想。

ユリイカ2007年6月臨時増刊号 総特集=腐女子マンガ大系

ユリイカ2007年6月臨時増刊号 総特集=腐女子マンガ大系

なかなか全体的に面白かった。まだ読めてない部分もあるのだが、ちょっと既読となった前半部分の内容に触れてみる。

まず、三浦しをん×金田淳子の対談がウマイ!これから多くの論者が「腐女子」のメタなり、なんなりを語る上で、まず、やおい・BLと言えど、その内容の方向性・表現は多種多様であり、それゆえ簡単に腐女子も含めやおい・BLを一筋縄に解釈できない、ことを述べたのはよかった。
腐女子、と言えど、やおい・BLと言えど、それは一言で括りがたいほどに多義性を持っていて、その姿は一枚岩ではない。このことの指摘は、後の論考を読む私たちの、安易な腐女子理解(したつもり)を防ぐ予防線になったのではないか。「やおいの語られ方」という小題で、外側から見ても内側から見たとしても、やおい・BLはなかなか言葉に言い表しがたい、という苦痛を提示することは、当事者以外の者としても、読むべき項ではなかったろうか。腐女子がどういうものか、という難しいテーマの中で、語ることの難しさに触れるのは、まず必要だろう。
それに、全体的に言って、やおい・BLがとても表現の幅が広く、その可能性はまだまだ開かれたものである、と云う印象を与えてくれる対談だったと思う。後半の後半はただの萌え話だったけれど、それでも腐の中の、ジェンダークィア的問題点にもさりげなく触れてあるのが好ましい。
ここで重要なテーマなのだが、溝口の指摘するBLの中の「俺はホモじゃない」というホモフォビアについての考察と並行して論じられた、キャラクタの“ミソジニーの発言”についての部分。これはゲイにもなりがたいクィア(と言っても私は自分の事変態と呼んでるが)として重要なテーマなので、また別稿で述べることにしよう。


第二に、上野千鶴子の「腐女子は誰か? サブカルジェンダー分析のための覚え書き」。
腐女子というのが「少女性」を表す語彙だとした上で「女子」が指し示すそれが、やおいの空間・文化が性別隔離文化であることを示唆する。しかし、この内容はなんだか距離を感じる。それは私自身が、だ。溝口の論は後ほど触れるが、彼女はやおいの言説空間をレズビアン的と言っていて、少し上野と似た内容を話してるかのように思えるのに、上野の場合、上野千鶴子と云うフェミニストの搾取、とまで言わないものの、自分の論理のための腐女子利用を行ってるのではないかという印象を持った。確かに腐女子文化は、ホモソーシャルというか、女子文化であり、それゆえに性別隔離文化であろう。それは女による女のための文化であり、上野から見れば「女達ががんばってるぅ!」というものかもしれない。
「オタク論」が「男性論」であったことの限界をわきまえた上で、オタクを語る上で「女についてはわたしは知らない」というべき、なのもわかる。
けれど、私は厳密には腐女子ではなく腐男子に相当するが、やおいBLが、女子文化でしかなく(性別隔離文化?)、その表現は女性ジェンダー間だけに成立し消費される他ない文化、のように語られるのは少し避けたい意思もある。
BLやおいは実際ゲイコミュニティでも消費されてるし、また雑誌に男性が「もっと性器を露に!」という感想を投稿する事もあった。BLやおいという文化は、確かに女子文化であり、フェミ的実践にもレズビアニズム的実践にも有効であろうとも、その表現はもはや女性ジェンダーの間だけで取り巻く文化ではなくなっていってると思う。(たとえば東京漫画社の出版するニューウェーブな作品像は、もはや女性というジェンダーの中だけで反復される欲望ではなく、他のあらゆる欲望とまぜこぜに反応しあえる可能性を孕んでると思う。)そのなかで、安直に腐女子の生み出す文化=やおい・BL文化だとした上で、女子文化として特化した文化だと読み込むことは、それこそ「やおい論」をいつまでも「女性論」として論じている事の限界をわきまえないことではないか、などと少し心配する。これはもしかしたら明後日な心配かもしれないが、いずれはやおい論も腐男子というキーワードを含むことで女性ジェンダーだけで語りつくせない文化として成長する可能性もあるのではないだろうか?・・・コレは無駄な指摘かもしれないが。

腐女子文化を女子文化として見るのは、当然いい。むしろとても正解だ。だが、やおいBLが必ずしも腐女子文化でしかない、と言ってしまうのはいかがなものか。腐女子がこうしてしっかりとした形で語られ始めている今だからこそ疑問視しておきたいのだ。

日本の腐女子文化の特徴は、それがメディアのメタ消費であること、その点で完全に現実非関与であるところにある。いくつかの男性同性愛団体が、BLものは自分たちの男性同性愛者の現実を少しも反映していない*1、と抗議したというが、腐女子文化はそれを歯牙にもかけなかった。なぜなら彼女たちは男性同性愛者に何の興味もなく、また日本のBLものは性別隔離が産んだ女性の性幻想の特異な領域であり、そういうものとして世界にほこるべき文化的達成である、と私は思う。

というが、ここらへんに上野の胡散臭さを覚える。おまえは本当に腐女子を理解し、支持して行きたいと思ってるのか。*2 それにはどういうフェミ的戦略があるのか。
歯牙にもかけないとはどういうことか。その物言いは、ゲイと腐女子の関係を悪戯に悪化させる言動にはなりはしまいか。腐女子とて、ゲイへの後ろめたさを感じてると表明してるものも少なくないと思うが(それを私はあまり良しとしないが)。
彼女は腐女子文化の特性を、女性としてほこれるものとして特権化させようとしてるように見える。それは別に悪くはないかもしれないが・・・、なんとなく不安。
というか、腐女子というものは、やおい的な文化の発達と連動したものだろうと思うのだが、ならば、最初のゲイブームの期間のゲイと異性愛女性の対話(?)にも着目すべきかもしれない。だとするなるらば、異性愛女性とゲイの対話(論争?)はあったのだから、「歯牙にもかけない」とまで言うのは少し大げさではないか。
私が腐女子文化を他の文化と差別化して見る事がいけないと思うのは(それがナルシシズムかどうかはさておき)、文化と言うものの関連性連続性というものがあるからだ。腐女子文化を必ずしも他と分断できる明白な根拠ないはずだ。と思ってる。
歯牙にも、興味なし、と云う部分は、同雑誌に寄稿してる石田仁の論を見るのもいいかもしれない。
後ほど少しは触れて見よう。


次。
香山リカの「腐女子の自我は煙と消えた」
あまり好みの論旨ではなかった。腐女子の精神を分析したと言うことらしい。あれ?私、精神分析とは相性イイかも?とか思ってたのに少しつまらなかったぞ・・・。

 それにしても、おたく的自我と女性的な関係性の物語への志向性をあわせ持った腐女子なる人達が増えてきたのは、いったいなぜなのだろう。[・・・]
女性がそれまで<私>と誰か、という関係性の中で自分をとらえがちだったのは、やはり「愛される」「求められる」に象徴されるような他者からの評価を受ける形でしか、自己肯定感を得られない人が多かったからだと思う。いわゆる“愛されてなんぼ”ということだ。
[・・・]
 それに比べれば、<私>なんて消えちゃっても平気、美しい男性達のめくるめく恋愛をたっぷり鑑賞させてもらえればよい、という腐女子たちは、他者との関係の中でしか自己を確認できない"という関係性の病から解放されている、とも言える。

自己肯定感というキーワードから腐女子の性愛的人間性を分析してるのかな。でも、他にも問題性があるかもしれないことを示唆してるものの、やっぱりこういう腐女子の見方って、部外者の私にもどうも収まりが悪いの・・・。なぜ?
先の三浦金田の対談にもあったが、

三浦 同性から、「あの子は絶対ダメよね、モテないし、オタクだもん」って馬鹿にされてしまったら、非常につらいですもんね。
金田 そういった意味では、中島梓さんが書かれている八〇年代の様子であって、当時ディスコミュニケーションの問題を抱えていた人などが少なからずいたとは思うので、全部が間違いとは言い切れないところはあるんですけれども。
三浦 そうですね。
金田 でも、やっぱりいまはBLを読む人の動機も、実際の作品も本当に多様になっているので、読者は全員こういう理由でう読んでいるというのは難しい。

異性愛者間の性愛ゲームの中で「腐女子であること」はステータス的にどうなのか。確かこのことも少し触れている論もあったかしら?*3けれど、腐女子である、と云うことが、それほど自己肯定のプロセスが他と特異であるのかどうか、私にはわからない。
動機の複雑さにも増して、腐女子のありかたも少しずつ変わってるかもしれないことも視野に入れたい。

ところで、ゲイが場所をわきまえずゲイゲイしい内容を語るのを、「ホゲる」と云うが、腐女子もまたかつての「恥じらい」を持たぬ人も少なからずいると思う。私は性愛ゲームの中にはいないので、自由気ままに散々ホゲってるけど、これからの(というか、これまでの腐女子自体よく知らないけども)腐女子の恥じらいはどこにいくだろう。


次。
金巻ともこはダメ。「腐女子業界の今と私とイスカリオテのユダ

氏はなにか勘違いをしてるのかもしれないが、腐女子への裏切り、だなんていうものが、“誰”に対してあるというのか。それは腐女子全体への暴力でありえるのか。もしありえないのであれば、それは単にどこかの誰かさんである腐女子に対しての裏切りでしかないように思う。それってどこまで対応すべき問題なのかは難しい。
そもそも分析や批評というものは、表象に対して暴力的にならざるを得ないし、その暴力性を出来る限り少なくすることが、論者に求められる倫理的課題だと思うのだが、そこらへんの自覚に乏しい。ゆえに、自己弁論があさっての方向に言ってるように思えるし、単に勝ち組腐女子の名をかざして腐女子を好き放題言いたくることへの言い訳を論じてるだけに思う。(それなら三浦×金田のように「語りづらさ」を論じた方がよっぽど益がある。)
私自身は、腐女子当事者であろうとなかろうと腐女子やおいについて語ることを止める明確な根拠はないと思ってるし、彼女が開き直って腐女子について語ることには賛同するが、論者にとって最も必要なものは、その「語り方」にある。語りの中の暴力のもたらす効果。それを鑑み、どれだけ腐女子当事者ならびに腐女子文化とやおい・BL文化への暴力を抑えられるか。そういった具体的な対策が必要なのだと思う。
独り言なら他所でやって。

氏については他著リビドーガールズも引用して、また近いうちに批判すると思う。


次。石田仁。「ゲイに共感する女性たち」
最初の小題「『リアルゲイに興味なし』」の

ネット上では大人げない振る舞いをする人びとを指して「厨房」と呼ぶが、対して現実の中学生を「リアル厨房」と呼ぶように、ネット上では本物の中学生の方を、スタンダードならざるものとして有徴化する。
 だから「リアルゲイ」という言葉を聞いた時は衝撃的だった。ゲイたちが、「リアル」という有徴化の語句をまとって「スタンダードならざるゲイ」として指し示されるようになったためである。

という指摘は秀逸。重要だ。
この雑誌でも「リアルゲイ」という物言いは他の論にさえあった。腐のメンタリティにおいて、というか腐の言説空間において、「ゲイ」というものが、あたかも標識にされ、そして、リアルなゲイとリアルではないフィクションのゲイとして分け隔てる振る舞いが行われてある。つまり、「ゲイ」というものは、本質的に「〜〜というものなのだ!」という括りつけ・決め付けがなされてあるのだ。ゲイと云う人格を作り出し(そんなものあるのか?)、ゲイと云うアイデンティティを他のアイデンティティと差別化して特別視する。それについて私は、それはゲイの本質化だと思っていて、あまりゲイアイデンティティにとって有益ではないと思ってる。
というのも、私自身「ゲイ」にアイデンティファイできないわけだが*4、ゲイというものの内実は、個々によって大きく差異があるだろうと思っていて、セクシュアリティという“幻想”に自我を同一視できない苦痛はそういった「ゲイとは本質的こういうものなのだ!」という言説によっても生まれることだと思っているからだ。
ゲイというものを、あくまでリアルなものとフィクションとで峻別すると言うのなら、その「リアル」とはいったい何を指し示すと言うのか。ゲイと云う「本質」などありえたというのか?主婦というアイデンティティが、あたかも個人の人格の本質的部分として語られることがないように、同じくゲイとて「ゲイ」というアイデンティティがあたかも人格の本質的部分だと決め付けるのは、私個人としてはありえない。ゲイを名乗る人にも、ヘテロを名乗る人にも、明確に「自分はいつも必ず〜〜だ」などと言える人ばかりではないと思う。ゲイの本質化は私の志向性に背く動向なので、少し警戒しておきたい。

さて、続けよう。氏は歴史的に腐とゲイの系譜を触れてくれてるように思う。

 しかしこうした無関心の姿勢は、最近のことであるようにも思える。私の感覚や、様々な方々からの教示によれば、三〇代以上の腐女子・腐兄にとって、九〇年代初頭頃の「ゲイ・ブーム」期前後において、フェミニズムセクシュアリティ論と、あるいは「(リアル)ゲイ」や「性転換」などと、やおい/BLが抜き指しがたい関係にあったのは自明、むしろ無関心さを前面に押し出せる現代こそが奇異として目に映るためである。

そもそもゲイがメディアに大々的に載ることには、1980年代のエイズの登場があったかと思う。「府中青年の家事件」は91年だが、氏が紹介するように92年に大塚隆史編「別冊宝島 ゲイへの贈り物」が出版され、「別冊宝島ゲイ三部作」が90年代に世に出る。このようにじょじょにゲイという存在が可視化されるようになるが、おこげとかいう語彙があるように、異性愛女性とゲイとの関係は腐女子というありかた以外にもありましたよね。この関係の中で、腐のメンタリティの生成とまったく関係がなかった、とまでは言えないように思う。
氏は「ゲイ・ブーム」は一般的に言って『クレア』九一年二月号の「特集ゲイ・ルネッサンス’91」が火付け役だと言う。

で、ゲイブームの中で異性愛*5女性がなぜ「男同士の恋愛や、ゲイという存在に惹かれるのか」という謎解きが頻繁に行われたと言う。

 ところでこの、「男と男の恋愛になぜ惹かれるか」と「ゲイという存在になぜ惹かれるのか」は、現在の腐女子コードからすれば、同じ問いではない。しかし当時、前者と後者は可換的な謎解きとして成立していたことが重要である。

腐女子」が実はゲイにも関心を示していた、という風にいいたい訳ではないが、しかし過去の歴史が関連性のないものだとして切り捨てられることは、やおい・BLという欲望、そして腐女子という欲望を見つめる上でいったいなにを切り捨てることになるのか。なぜ惹かれるのか、というのは、今の腐女子にとってもそれなりに語るに足るテーマではないだろうか。

とはいえ、腐女子というものが現在も進化・変容しており、異性愛(とは限らないのかもしれないが)の女性がやおい・BLを欲望するその形すら、ゲイブームの時期であっても一様ではなかったことから見るに、やはり紋切り型に語れないのがやおい・BL、腐女子であるのか。

 2で見たように、男の生理と女の心を持つ、<新しい男性>であり<身を委ねられる女性>であったゲイは、女性にとって全能的存在であったし、互酬的関係も強調されていた。しかし、かかる批判や「やおい論争」とともに、その蜜月関係は九四年頃に解消する。

更に翌年には性転換手術検討の報道がなされ、性転換者性同一性障害者の登場とともに<女性>としてのゲイへの「共感」の語りは失われていったのだと言う。
しかしその共感は果たして幻想でしかなかったのか?と氏は問う。

やおい/BLの<自律性>は何を得、何を失ったのだろうか。今後も考察を進める必要があるだろう。

結局は、欲望と言うものが、なんの系譜も持たずにいきなりある時期に空中に現れた、というのは無理があって、しかし、その欲望というものは、欲望であるがゆえに限定的な枠にのみ集約されるとは限らないということか。なんにせよ、確かに考察を続ける意義はありそうだ。
ただ、注意も必要かも。だって、腐女子という存在は、“今”語られているものだから。たとえ歴史があろうと、腐女子というものを理解するのに必ずしもその歴史を見る必要があるのかどうか。ちょっと私には言い難い。現在の腐女子がどういうものか、というのは、結局一口では言い表されない以上、腐女子と今までの「ゲイや男同士の恋愛に惹かれる」女性とを、どこまで連続性のある者として見るのか。欲望についての連続性を見る、と云うのは、非常に危険な読みを許してしまうのか。それは「腐女子」にとってどのような意味をもたらすのか。


次は溝口彰子。「妄想力のポテンシャル レズビアンフェミニスト・ジャンルとしてのヤオイ
これはなかなかか私的に面白かった。しかしこれは、腐女子文化に、というよりかは、腐女子を絡めたジェンダー論やクィア批評に寄与する骨子となるのではないだろうか。
氏は自身のフェミニズム・レズビアニズムのアクティビズムな実践として、腐女子の交流のもとヤオイを受容するんだ、と言う。
やおい・BLを消費する女性たちが、そのコミュニティでの関わりあい方(ファン同士の感想のやり取り)や、作品と読者の関係性、更に女性購読者が(作家である)女性の経済的自立をもたらす経済的関係などを見て、その言説空間がレズビアン的だと言う。


あと、氏の、「俺はホモじゃない」はホモフォビア。という言説は、その“言い回し”を変えることによりホモフォビックな表現から離れることを示唆するのはよかった。ここらへんは私としても一言言っておきたいことがあったので。ま、それは後日。


ところで、溝口のアクロバティック(でもないのかな?)な論文やその他の論文をぱら〜と見ていて思ったことがあったのだが、なんだっけかなぁ。うーん。
たぶんね、こういうこと。
やおい・BLを消費することがある視点においてレズビアン的だといえるのならば、では腐男子に近い私としては他の指摘もしておきたい。
「しかしそれと共にやおい・BLは『女による女のための女子文化』から『欲望共同体としての文化』になりうるのではないか」という私からの指摘。
やおい・BLという媒介を通じて更なる妄想の共同性が出来上がり(私の造語で言えば「腐女子能」)、やおい的な妄想が欲望として多義的で可変的な絆を生むのではないか。
やおいが関係性の軸で様々に妄想(たとえば鉛筆と消しゴムの攻め受け論争)されることから見ても、女性ではない*6私としては、やおい・BLというものが、もはや女性→女性のベクトルのみに限定されず、“読みの快楽”を通じて新たな文化体系を生むものになるのではないかと思う。
それは腐男子について論じられている吉本たいまつ氏の論考で考えていけたらと思う。ああ、課題が一杯だ。

それではこんなところで、ひとまずお暇します。

*1:詳しく知らないのだが、誰か教えてー。てーか別に「現実を反映しないこと」自体はどうでもいいと思うのだがー。byのだだ

*2:「日本では純文学に匹敵するもっとも良質の表現が少年愛ものの少女マンガの世界から生まれた事を評価する」と云うが、二四年組とやおいBLをどこらへんまで同一視しているのだろうか。ちょっと混乱を招く表現ではなかったか?

*3:と云うか全体的にそういうことを触れる項はそれなりにあったのかな?全部読んではないないけど。

*4:それを単なるホモフォビアの内面化だとは思われたくない

*5:←もしかしたら異性愛女性だけではなかったかもだけど

*6:男性のつもりもねーケドさ