「おそれ」という“私の意見”を見つめ返す。

昨日の続き。

メールでrocorocoさんは司法と医療を分けるべきだと論じてもらいました。その中で、私は安易に「自・他害行為の危険を防ぐ医療(つまり「おそれ」を防ぐ医療!)を受けることが出来るなんてナイスだね!」と言ったのですが、そこで

いえ、それは、人権的な見地から言えば、強権的で、抑圧の危険性の高い医療ということになります。

と突っ込まれました・・・。tehe!

「おそれ」には物理的な測定法がありません。従って、いつの時点で「おそれ」がなくなったかどうかを判断するのは、それを判断する者の主観に大きく左右されることになるのです。

どんな医療措置であろうとも、どんなに患者の利益を説こうとも、要件が「自傷・他害」の「おそれ」もとに行われる治療であれば、それは本人以外の主観的判断に頼らざるを得ないため、行われるのは「強制治療」に他なりません。強制治療があくまで「本人のための」治療目的での医学的判断であると言う専門家も存在しますが、いったい何を基準に第三者が「本人の利益」を説けるのか、その判断はもっと慎重に行わなければならないはずです。

(黒字部分引用者による)
これに対する私の返事。

私は自・他害行為の危険を防ぐ医療を受けることは基本的人権だと述べましたが、要するにあれは医療を“自発的”に受けようとする権利があるのは当然で、それは障碍の有無がどうのこうのではない、という意味で言いました。
[・・・]
ここで私は「自発的に」、というのが重要だと思っていたのですが、そもそも「危険」「おそれ」という言葉で医療を受ける基本的人権を説くのがおかしいのかな、と思いました。「おそれ」を本人が自己判断して、医療を受けに行くようなのはいいだろう、と。けれど、おそれ、なんて判断を誰がするのか。

おそれの判断基準で医療を受けるかどうかを捉えるならば、おそれがあることを根拠に「あの人は自傷他害のおそれがあるから医療を受けさせなきゃいけないね!」ていう話になって来るかもしれないのですね。

つまりね、医療というものは当人がいて初めて成り立つのに、その当人の存在や意思が不在のまま「医療」が行われるなら、それは強権的で抑圧的になるということ。
私も詳しくはないけれど、「おそれ」で医療を説くことにより当人の存在が忘れられ、医療が司法などに絡め取られていく危険性がある・・・というのはありうると思う。


ところで、ちょいと前に偶然テレビつけてたら小児性愛に関するニュースがあったのね。で、途中からだったけどにょろっと見てたのね。にょろっと。したらね、テレビのコメンテーターさんが「こういう人は何か法案作って治療してあげたほうがいいと思う。そのほうが、本人のためにもなる。」と仰った人がいましてね。まあ某弁護士なんですが。
こういうのにも上記の問題と似た危険が香ってるよなぁと思った。


こういう善意って「おそれ」の問題と似てます。そりゃあ、お節介や善意がぜんぶ悪いとは言わない。それに「おそれ」についてだって、たとえばDV防止法に関して言えば、被害者の意思を尊重するならば「おそれ」への対策はあってもよいんじゃないかと思ってる。当人不在が不味いと言うことだと思うのが私の認識。他者が割り込んできて、「当人のため」と言って、本当に当人の利益になってるかというと・・・難しい問題は色々あるみたい。


忘れがちだな、と思うのは、問題に対して「〜〜(する)べき」という価値判断を下してる本人が、ちゃんと当人のことを視野に入れられてるかということ。そして、その価値判断は、あくまで自分が出した答えであって、それが必ずしも相手の代弁になってるかどうかは、慎重に見なければいけない事柄だと言うこと。
「何がよくないもので、なにが悪いものなのか」
こういう判断は、実はとても個人的なものだと思う。
もちろん私達は世間の価値感や、親しい人や有識者などの価値感に影響を受けながら「何がいけないのか」「何がよりいいのか」の判断をする。
けれど、ここで間違ってはいけない。
その判断は、あくまで自分自身が行った判断だ。
「〜〜をしてあげたほうが○○のためだよ」とか「〜〜しない(なったりしない)ほうが自分のためだよ」というのは、あくまで自分が下した判断じゃないか。それ以外の選択肢を提示したり、あえて何も言わないでおくということも出来たのだからさ?


自分が思った事を口にするなら、「相手のためだ」という言葉の危険性にもっと配慮すべきだ。
たとえば、
小児性愛者を治療の名の下に排除したがったのは 誰だったのか。
同性愛者にならないほうがいいと思ったのは 誰だったのか。
障害を持たないほうがよいと思ったのは 誰だったのか。
それは、果たして誰の欲望だったのか。自分の価値判断という介入についての内省は必要だと思う。
当人不在のまま「相手のためだ」などというのは、自分が思った“私の意見”自体を隠蔽することではないか。
某弁護士の人を見て思うのだが、「世間のためだ*1」「当人のためだ」だの言いながら小児性愛者を病院に突っ込んで排除すべきだ言ったのは、あんた自身の欲望じゃないのか?


私達は一体誰の話をしてきたのだろうな、と思う。「のだだの為に思ってこういうことを言ってるんだよ」と言われると嬉しいはずなのに、それは時々私を苦しませることがある。でも、逆を言うと、そういう善意は時々私に優しい。
優しいときもあれば、苦しいときもある。

私はあくまで私自身の意見を発しているのだということを、努々忘れないようにしたいと思う。

*1:小児性愛者は「世間」に存在しないのかよ