女性の男性性の講演について。

http://www.igs.ocha.ac.jp/SITE1PUB/sun/9/news/report16.html?t=1169109413140
いい加減ユリイカの後半書かなきゃねー。でも私、ノリが違うと書けないのよ・・・。あともうちょっとしたら書くから、すいませんすいません。生きててスイマセン。

で、講演の内容なんだけど、そもそもJudith Halberstamの「女性の男性性」(http://www.amazon.com/exec/obidos/tg/detail/-/0822322439/qid=1091607778/sr=8-1/ref=pd_ka_1/103-1510988-4699004?v=glance&s=books&n=507846)という本がありまして。
これがテーマの講演なわけ。
私もこの本日本語で読みたいなぁ。ていうか、バカ僕の私には英語だと読めないからー。英語なんか嫌いーー。(僻み)


ごめん、愚痴ってしまった。
で、今度こそ講演の内容なんですが。

まずハルバーシュタムは、ジェンダーの象徴体系は男性中心であり、女性性は男の身体を用いて表現できるがその逆はあり得ないと考えられがちだということを指摘した。実際には、いわゆる男性的な女たちは男性性の構築に重要な貢献をしてきたのだが、社会はそれに無関心だった。

という指摘から始まっていく。そういや「逆はありえない」というのは、「ペニスの有無」と関連するのかしらね。ペニスがないやつは男になれねーよ!ていう考えの裏返しのなかしら。・・・いや、そこまで単純でもないかな。

彼は、男の領域とされる分野に進出しようとする女は事実上の男であり、「より高次の発達度を前提としている」と述べた。このような思想は、女は本質的に男より能力が劣っていることを前提としている点でmisogynisticである。

これ、基本やよね。

当時のある種の男性的な女たちにとっては、性医学の倒錯理論は一つの答えを与えてくれるものであった。

えー、でも性に関する言語が膨大に膨れ上がったのは性医学の発展とも関連しそうな気がするんだけど、そうすると、「男性的な女たち」にだけ「自分は何者かという自己定義」を性医学がもたらした、というわけでもないのでは・・・?とか思っちゃうのだけど。(たとえばブッチとか以外でも、女性に限らず)自己の性に対して自己定義をさせられる文化が性医学と連動して生み出されてきた、という問題点がありそうなんだけど。(えっと、どうだっけ?)そこはどうでもいいのかしら。


で、ここがミソなんだけど。

女の男性性には、体制に抵抗し、それを撹乱するものと、ファシズム帝国主義につながるような保守的で排他的なものがある。世界を震撼させたアブ・グレイブ刑務所の写真、イラク人男性兵士を虐待して楽しむアメリカ人女性兵士は、有害な形の男性性および優位を占める権力の形をわがものとしており、彼女らはそれを変えようとは思っていないし、異議を唱えようとも思っていない。

んーと。んーと。
まず軍隊の中にマッチョな男性性の規範はあるわけで、その軍隊の中の暴力や暴力性に「男性性」が深く関与していないとは、確かに思えない。(あ、ところで。その暴力においてミソジニーはどう関与するのかな?)
なのだけれど、そもそも暴力じゃなくて男性性には階級やら他の思想との作用があるわけで(ファシズム帝国主義?)、その作用の中でいかに「男性性」が暴力に汲み込まれているのか、が問題なのかしらと思うわけですが。この部分、なんだか男性性の中に暴力が含まれる、ていう認識に読めるんだけど、それっていいのかな?
つーか、男性に権力が集中するということに関しても、それは男性自身の手によるものというよりは、男性がその流れに組み込まれてしまう構造があるからだと思うのだけれど*1、どうなんだろう。なのに、「女の男性性」を、アブ・グレイブでの虐待を例に挙げて、「男性性の暴力性を鑑みない態度だ」と批判すると、男性性=暴力の構図をそのまま受け入れちゃってお粗末な指摘になっちゃうのでは?だって、男性性がどのように暴力と癒着したかの暴きが必要なわけでしょ?

確かにそこに男性性の有害性がなかったとは言えないと思うけれど、その暴力性は、一体どのような装置と(思想的なもの)の関与があって男性性に還って行ったのかを、詳しく議論しなければいけなさそうに思う。それが男性性の中の有害な伝統性を批判するっていうことだと思うけれど。
と思っていたら、最後に竹村が

(2)つぎに、近代の男性性は、抽象的な権力関係としてではなく、帝国主義と資本主義の論理に即応する暴力配備として形成されてきたことを確認し、(3)それゆえ、女性兵士(とくにアブ・グレイブ収容所)の残虐性を局所化する議論は、近代の暴力配備の性的偏向性を追認して、それを不可視化する危険性があると述べ

という発言をしてたのね。そうよね、そういう暴力に還る行方(?)がどういうものなのか、一歩引いた形で読み解かなくちゃね。

まず竹村からの「男性性(男から解き放たれ、女によって行使される暴力(アブ・グレイブ刑務所の例など)は、どこへ行くのか)という質問に対しては、ハルバーシュタムは「男性性は階級、家族、軍隊、植民地主義国民国家などとつながっているので、社会的ヒエラルキーと男性性との関連を考える必要がある」と述べた。

ふむふむ。そうそう!ですよねー。でも、難しそうなので私にはお手上げです。さようなら、さようなら!またお会いしましょう!!


つーか、男性=暴力的ていうのは、男のつもりもないのに男に扱われる私として結構ウザイ。(え?それは皆も同じ?)
男性性から暴力を剥ぎ取る、というのは可能だろうか?(無理って言われたらそこで御終いなんだけど)

でも、とみに日本においては、そういう性別への感覚って多様で流動的な感じがするのだけど。。つーか、日本で男性的な女って誰?って感じがするんだけど。誰になるのかしら。やっぱTGやビアンに集約されちゃうのかな?んーでも、乙男の女版もありそうな気がするわぁ。


いやーでも、「男性的な女」による男性性(の問題点)への批判って貴重よね。しかし、男性性が男性の肉体から離れて表現され問題化するっていうのは、やおいBL表現にもありえそう。
つまり、作品において男性性を描き表象することで、やおいBLが 男性性=暴力 という構図に加担してしまう、という問題は、やはりある。男性性の中の暴力性を強化する、という危険に、やおいBLが強く関与するっていうのは、ないかしら?ないのかもしれないけれど、どうなのかな。
これをやおいやBLの女性作家(!)が批判する、ていうのは、めったになさそう!!でも、誰かがしてみたらそれはそれで、とっても魅力的っぽそう!!男性性をやおいBLで表現する女たちというのは、ある意味「男性的な女たち」なのかもしれないけれど、その女たちが男性性を批判的に描き、そして抑圧的な伝統的な男性性を肯定的なものとして摩り替える、というパフォーマンスはありうるかしら?それってすごくキュートなんだけど。男性自身が批判してないって部分がかなりキュートよね。だって、男性性を表現するのが、ネイチブ男性以外にもできるのだとしたら、男性性への批判を色んな場でできるっていうことだもの。やおいBLという女子文化的空間も含め、外側からの(男性性への)照射もそれなりに必要になってくると思うのよ。それをやおいBLという現場でやれたら、それなりの意義はあるのかも・・・。期待したいけれどー・・・無理?(ていうか、人頼みじゃなくって自分でしろ?みたいな。でも俺女性じゃねーし。いや、でも私にも出来る事はあるか?男性でも女性でもないものとして?)

でも、BLやおいには暴力的な男性性をただただ流用できないって部分が、本来的にあるように思う。だって、同性愛だも〜ん。と言ってしまうとすごく語弊があるけれど、同性愛にも男性性をかく乱する可能性があるのだとしたら、それはすなわちやおいBLにもその可能性があるってことだモノね!
・・・これもすごい楽観的な考え方かしら。う〜ん。

ところでBL左派みたいな言葉あったら、そういう路線で何か出来るかもね?(なんて)

最後に引用。

「男の女性性と女の男性性の違いは何か」という問いには「男の女性性は消費文化に関連しているのに対して、女の男性性は国家に押しつけられた女の限定的な役割に抵抗するものである」と述べた。

コレは確かに・・・。オネェ言葉も、テレビで商品化されてるし。でも、女性の服を買って着るというのが消費文化に関与するということなのかしら?よくわからん。詳しく聞かせてくれないとー。Halberstam〜。

*1:そしてそこからあぶれた男性は弱者?