腐女子と私と後半部分。

ユリイカ2007年6月臨時増刊号 総特集=腐女子マンガ大系

ユリイカ2007年6月臨時増刊号 総特集=腐女子マンガ大系

一部の方には長らくお待たせしました。後半の感想もどきでありますー。

藤本純子の議論。

簡単に要約すると、人は何かを媒体にして欲望を持つ。腐女子に関しても例外ではなく、現代の女性の置かれた社会的状況と関係して存在する恋愛イメージがその媒体であり、すなわち腐女子の欲望とは腐女子個人の欲望ではなく社会構造から生まれた欲望として見る事が出来る、というもの。なにをかいわんや。
欲望とは、自発的に突然表れるものではない、というのは理解できる。そういった人間に当たり前の形態があることを踏まえた上で、そこから腐女子の欲望を具体的に語らなければ、何も語っていない事になるのでは。
腐女子の欲望の構造」を、社会的な要因から解き明かそうとしたらしいが、そういう論考にありがちなのが、(対象の)原因説・因果論に結びつく所なんだ(このダブルタッグが曲者よね)。
腐女子に限らず、セクシュアリティに関しても色々原因説因果論みたいな話をなされるわけだけど、それには一定の注意が必要だと思います。


[注:最初トランスジェンダー性自認を例に挙げて論じてたんだけど、そんなことしないほうが意が説明できるように思ったのでちょっとだけ削除しましたー。すいません。]


この議論においても、ロマンチックラブイデオロギー腐女子の欲望との因果論的な話をしているけれど、そこに相関関係があったとしても、それをそのまま単純に「腐女子の欲望」と語るのは、「卵か鶏か」みたいな混乱をもたらしそうで危険よね。
なんだか「腐女子は〜〜という社会的状況があるから生まれたのだ」みたいな論調に読めるんだけど、腐女子の欲望が社会的に構築されたものであるかどうか、という議論と、腐女子が個々の社会の中でいかに『学習』して(社会の影響を受けて) そして腐女子がいかに欲望を表現したか、というのは別の議論でしょ。
そりゃ腐女子だって社会を生きる女性(ていうか人間)なんだから、ジラールを引用しなくっても、現代社会の価値感の投影はあると考えられるわけで。それと絡み合った形で腐女子の欲望が存在してるわけじゃない?
社会的状況が腐女子の欲望を作った、というのと、腐女子が社会的状況を反映した形で表現した、というのとは、それぞれ別。…とでも言おうかしら?
ていうか正にそういう表象の仕方をしてるんだったら、その議論における(混乱の)危険性にも触れてほしかったな、みたいな。
てーか、今更「『欲望』というものに対しては、社会構造も視野に入れよ」と言わないと、「腐女子の欲望」ひいては「腐女子」自体が特別視されちゃう、ていう状態を正に指し示してるこの藤本氏の議論こそが不気味なわけで。

次、渡辺由美子

BLよりもやおいについての考察。やおいによる同性愛の捏造。パロディにおいて

 原作物語と作者には、男性同士の関係密に描いてほしいと願っている。だが、彼らの恋愛関係が描かれることは望んでいない。

へぇ、そうなの?
そして、

「攻めと受け」の設定は、男性の強さと弱さの両方を楽しむために作られていると考えられる。

この議論から、「やおい関係」が男性同士に限られないことを示唆。

私が受け攻めの関係性について思うのは、モノガミーな対関係を、男女の非対称性から引き離すパフォーマンスとしてこれが機能するのかどうか、というところ。
ところで「1976腐女子」というブログを引用してるけど、これってなかなかないことだよなぁ。

次。守如子。

JUNE読者の雑誌の感想を引用して、

こうした女性読者が存在している現在、もはや「女性は視覚的な表現を見て欲情しない」というセリフは言えなくなった。

これを言うならば、やおいBLを愛好することは、「関係性」ばかりを欲望してるものではないことも言えると思うが、フィジカルな欲望を、腐(あえて女性に限定しない)と切り離して考えるやおい論の限界性は自覚しておいてもよさそう。

「ハードなBL」に描かれる「攻め/受け」は、「能動=身体的に快楽を与える」と「受動=身体的快楽を与えられる」が性行為において固定化した役割関係なのである。

として、男性向けポルノコミックにその近似性を見出す。…え〜、本当にぃ?

「ハードなBL」作品において特徴的なのは、「挿入」だけでなく、他の性行為においても「攻め」が主導権をもつ点である。例えば、「攻め」が「受け」の乳首を愛撫するシーンはよく見られるものであるが、「受け」が「攻め」の乳首を愛撫するシーンは私の見た限り存在していなかった。

まあ、私が見る限りには、あるんですけどね。
私はSMと一対一のセックスにも何らかの連続性は当然あると思っていますが、SMというシーンをこれと比較すれば視界も広がるんじゃないでしょうか?

次、野火ノビタ

男同士にすることでそういうものから身を離して、自分を安全圏に置いてセックスを楽しもう

俗流やおい論って名前を付してあげたい。論拠が何処にあるのかさっぱりわからない。ただの言いっ放し。
あのさ、自己の欲望を一般化するの、もうそろそろやめません?>やおい論者さん

もともと生殖活動なのだから、アナルでするのは完全に無為なんですよね。無駄なことをする切なさを表現しているんだと納得したんです。単純に後ろでやっちゃったら前が寂しいわけですけど、その無駄さがいいんですよ(笑)BLの場合も同じなのかもしれないと思いましたね。受けの性器の無駄さですよね。アレは肥大化したクリトリスとして見ることも出来ますけど、やっぱり本来は生殖のための道具だから、それが放置されているというのは非常に切なくていい。

と言っているのにもかかわらず、ジェンダー化された「受け攻め」の関係性を「壊したい」と言ってるのだから爆笑モノ。矛盾してますわよ。*1
あのね、そういう感性を持って倒錯的な欲望を持つのは勝手だけど(でも反省してよ)、そういうのはジェンダーセクシュアリティ論では退けられる類の解釈です。身体や器官をジェンダー化させる思考。そういう風に、身体に役割を与えているのは、あくまでも私たち自身である事をお忘れなく。
ていうか、おくびにも出さずにゲイセックス否定するのは(腐女子がどうとか関係なく)大人としてどうなのよ*2。他人様を馬鹿にすんなよ。
あと、それと、これは私の経験談なんですが、既にあるジェンダー化された欲望に対抗する際に、その<役割>をただ単に逆転させるだけのパフォーマンスは脆弱だと思うので、戦略を考え直すのをオススメしたい。<お節介

次。小島アジコは例によって例のごとく。

次。伊藤剛

弱者男性と腐男子とを絡めて議論してるのかな。

逆をいえば「腐女子」をパートナーにした男性から何が強調されるのかということを示している。[…]それは「ペニスを手に入れた彼女」であり「ペニスを失ったぼく」である。[…]それは、ともすれば「男性であること」による恩恵を享受しつつ、パートナーとの個的な関係においてのみ「男性性」を放棄するという都合のよさとして批判されるだろう。しかし、それでもやはり、ここに「男らしさ」という抑圧の解除の見ることは許されると思う。

異性愛(に限るのかどうかしりませんが)男性が、腐女子の視線を許容することで、男性性の楔から開放される可能性を示唆。これは、同性愛(この場合特にゲイ)の視線が許容されても、同じことが言えると思いますわよ。
腐女子やおいの空間の内面から見つめるのではなく、「腐女子と男性」という、対外的な空間において男性性が問い直されている、という議論は面白い。(同意するかどうかはともかくとしてね)

「行為」にも目を向けた議論は稀少です。

次。吉本たいまつ

初っ端からなんですけど、苦言。

妄想の対象になって怒りだす男性もいるだろうが、妄想の対象とすることは、同性愛者のレッテルを貼ることではないところに注意する必要がある。

はあまりにも不用意。
同性愛者として見られることは、「レッテル貼り」なわけですか。同性愛者の方々?今から私と一緒に世間にお詫びしましょうか?「同性愛者で御免なさい!」
「同性愛者」が「レッテル」となっているとしたらそれはそれで大変由々しき社会問題ですけど、ただでさえ同性愛と腐の間でシビアな空気が流れているのに、やおいBLの言説空間でこんな物言いを許してしまうのは、(書き手編者ともに)本当にやめてほしい。こういった言説で板挟みになるゲイ且つ腐男子の方の気持ちも酌んでよね、まったく。

 男性向けショタとBLは、近い領域ではあるが細かい違いがある。そのため男性がBLをそのまま楽しむようになるためには、BLの読み手・楽しみ方、すなわち「腐女子眼鏡」を手に入れる必要がある。

と言うけれど、これについて、私から思いつくことがあった。おそらく氏の議論は全般にわたって基本的に異性愛中心主義であるから、「男性」というのは正しくは「異性愛男性」なのだろう。では、腐女子眼鏡なるものを持つことで能率的にBLを楽しめるのは、異性愛男性だけだろうか?
否、私はゲイの欲望を持っているが、私とて「腐女子眼鏡」*3がなければ今ほどBLを楽しめなかったという部分がある。腐女子眼鏡の効用は異性愛男性にとどまらないだろう。だからこそ、腐の楽しみというのは、腐女子に特化したものではないと思うわけです。

次。九州男児

フェミニズム的らしい氏の漫画。…残念、きちんと読んだことがあまりありませんorz 『課長の恋』が新装版で再版されたら買いますわ〜。
で・も・ねv
BL自体(何らかの)性の過剰性を演出してる面というのはあると感じてるのよ。この作家さんに限らずね。よく考えてもみてよ。こんだけぶっ飛んでハッピーなテイスト漂う空間がそうそうある?w?(なんてねw


ところでー。たとえば漫画の中でヘテロが出てきても「リアルへテロ」とは呼ばないけど、「リアルゲイ」ていうのは一体誰のこと?

次、ヤマダトモコ

完成形ではないけれど、「プレ「やおい・BL」リスト」なる表を作成されていた。お仕事ご苦労様ですです。
少女マンガの歴史も通してやおいBLの軌跡を追う氏の議論。評価は分かれるところでございますね。

ところで、「BLって言ったら〜〜でしょ?」とか「やおいて言ったら〜〜」とか「耽美って以下略」みたいな物言いってありますが。それぞれの「らしさ」があるんだ!ていう感性はあるものですが、腐として若輩者である私には、現在のBLの多様性だけでもうおなか一杯であり、こういう先輩方の意見を聞けるのも貴重ですナァ。

次、川原和子

あしたのジョー』は萌えるけど、『男一匹ガキ大将』には萌えない、という話でした。乱暴な要約。
ジョーに比べてガキ大将は関係性の深読みは誘わないそうだ。ふぅん、どっちもあまり読んだことねーや、俺。

 「ジョーと力石の関係て、尋常じゃないよね」
 「他者の入り込む隙のない、とりかえのきかない濃厚な関係。これってもう、愛だよね」
 と言い始めたら、それは「腐女子」的な視点を獲得した、ということである。そこまでは、いわば解釈の問題である。

積極的な誤読と解釈という欲望ね。

ところで、男に対するある種の「美学」の追求というのは、もちろんBL消費する中でもありえて当然だけども。それについてなんだけど、(絶対そうなるとは限らないだろうけど)ホモソーシャルへの欲望がホモフォビアに繋がる、といった議論を思い出した。うぅーん、他人事ではない。美学を欲望しつつ、批判的になる、という所作は、果たして可能だろうか。課題。

次、速水筒。

なんかよくわかんない。イトウセイコの紹介らしい。現代アメリカ女流文学が好きならイトウセイコの『ダウン系』を読めばいいらしい。

だが「愛の詩」にはたいていの二次創作同人作家にはけして書けない一行がある。「お金のためにもそうした」。ここで作者は、非常に冷酷にこの話を突き放す。[…]ほとんどの二次創作作家はこの視点が欠けている。彼女達は対象への愛情ゆえに、冷酷な視点を持てないからだ。

次、ながくぼようこ。

BL小説の挿絵についての論考。正直興味がわかない。漫画のパロディを作る、という腐女子もいるのだから、小説に挿絵(図像)があっても問題はさしてなさそうな。
でも私、挿絵が好みじゃないと好きな感じの話でも買いたくなくなるから(その逆もあるから)、結構困るんだよね〜(-u-;
でも、確かにBL小説の方が絶対的にアナルセックスしてるよなぁと思う。どこか話の展開という法則性が違うんだよね、漫画と小説じゃ。(la aqua vitaのtatsukiさんの言葉を借りると)これはBLの「力学」が異なる形で作用してるんだろうか。
でも残念ながらそこから発展する議論には論拠が明確ではなく突飛だし(ついでに色々ごった煮な議論ポ)、俗流臭さが…。女性の性についての議論自体、どうも「男性」として人生経験を積んだ私にはよくわからないし。
そもそも、やおいBLや腐女子を何か特権化(…というかこの場合特別視)した議論って、危うい気がしてならないんだよね。
けれど、私も、特にBL小説は読者の画一的な欲求を満たすべく展開を提示してるように思えてならない時が、ある。漫画よりもその傾向が強いかどうかはサーチしてないので不明だが。展開の法則性を読み解くことで、やおいBL(小説)にはどのような需要があるのか、が議論出来るのかな??


最後は、多数の書き手がそれぞれの作家、作品象について論評してみるコーナー。今後のレビューの参考にもなったし、面白うございました。私の愛してる作家さんもおられて、大変嬉しゅうございました。
それでは、長いことお付き合いくださったことにありがたがって退散いたす。ドロン。

*1:ていうかなんて不味そうなセックス観でしょうwゲイセックス舐めちゃいけませんことよ。

*2:つっても、やっぱりそれをやおい論者が語るていうのが、まずいよなぁ。吉本たいまつ氏での批判同様。

*3:私は「腐女子脳」と呼んでるの。簡単でいいでしょ?