生き抜いてきた痛みを「素晴らしい」と言うのは、抑圧を忘却するスイッチ?

毎日BLを読みだらだら生きてて最近レビューするほどのBL読んでないのが苦痛で泣きたい気持ちをしょぼしょぼ感じているわたくし。
いきなり私事をつらつら書くことの無礼をお詫びしながら、昔語りをしてみるのだけど。
私はどうもガッコウというところがそこそこ合わなかったせいなのかなんのせいなのか、以前は生きるのが苦痛だったのだけど、それは、私が頭あほ過ぎたのと、自分流の感性以外あまり持ってなかったのと、ジェンダーセクシュアリティがマイノリティだったことと、集団行動とか嫌いでガッコウに“行くしかない”自分の状況にうんざりしてた事とが関係してたと思う。(あと、ある小学校教師との個人的な折り合いが、悪かった。*1

で、その中で、中学校はすごいマシだった。だから、単純に考えれば、ハッピーなので自殺は考えないはず、という時期だったわけ。でも思えばその絶頂期でさえ自殺は考えたことが、あった。そう、具体的に自殺案を考えたのは、正に花盛りな中学の時だったわ…。(<「あの頃は若かった」的)
なんで自殺を考えたか。…まあ、要するに同性愛の問題だったわな。でも、先に書いたとおり、私には生きるのが苦痛な理由は様々にあったし、どれが一番だったとも言いがたい。そして、ガッコウという現場にいたからこそ、ソレをしたいと思ったのではないかと疑っている。(高校ではソレを考えない代わり…と言ってはなんだけど、「破滅思想万歳!」になってました。)
でもまあ自分に自殺はどうしても出来るものじゃなかったので、なんか適当な理由作って「やっぱやーめた」と一段落つけたのね。

私は、先に挙げた要素を理由に、生きるのが苦痛だった。まあね、最近になって「あの頃自殺しようかどうか迷ったのは同性愛だけが問題じゃなかった」と気付いたけれど、それはともかく、私には自殺する材料が何個かあったのは事実なんだよ、きっと。暗澹とした気持ちは常に持っていたけれど、私は自殺をしなかったのね。つまり、生き抜いたのね。生きる事への苦痛があったにもかかわらず、私は私の様々な要素を抱えながら、生きてきた。それは、差別や隔絶と言った被害を一人抱えて「生き抜いてきた」と言えるかな?と思う。
(「死ななかった」というほうがシックリくるけど)

http://ameblo.jp/yoshiyukimchi-nikki/entry-10041293609.html

そんな私は一般的な意味の「サバイバー」じゃないし、全然詳しくないけど、それでも少なくとも「生き抜いてきた(いる)」という共通の部分を持ってして、サバイバーに関して何か語ることが出来るかな?と云う幻想(!)を持っている。それはおそらく幻想だけど、この話における信用の担保にはなると思う。けれど、被差別者とサバイバーを同一視するかのような議論をすることの後ろめたさもある。おかしい比較だと感じられたら、出来たらご指摘してもらいたい。 


では引用。

あるいは、社会に自分の受けた被害を訴えることが「勇気のある」行動とされると、訴えない被害者は「勇気がない」ということになり、そこに「優/劣」の価値判断が導入されます。そして、社会に訴え出なかった被害者の個別具体的な被害は支援を受けられなくても当然、無視されても仕方がない、という風潮が生まれます。

うんうん。「勇気」という言葉を用いて、抑圧の告発を要請する。“抑圧の代表者”を欲する、ということの現われだと思う。しかし、そういう言葉は、その実本当に本人の利益を真剣に考えているものとは限らない。その証拠に、要請された告発という行為をしなければ、「無視されても仕方がない」とされるんだ。
そして、この方はそうした抑圧構造を、フェミニズム内部の問題と位置づけて語っていらっしゃるのだ。

 男性に抑圧された女性の地位を回復させることを目指す運動が、いつの間にかその運動内部においてほんとうの被害者を抑圧している。そういった構図が明らかにされていきます。

けれど、コレを読んで非フェミが「ああ、フェミの内部って抑圧的なんだな、あっちの水はしょっぱそうだわ」と自分とフェミとの間に線引きして安心してもいられない*2。だって、これは何もフェミニズムのコミュニティに限った話じゃないよなぁ、と思うから。仮に「ほんとうの被害者」というものが存在するとしたら、それは偽者の被害者がいるということになるけれど、それはしかし擬似的な対立構造の立脚だと思う。
あらゆるコミュニティの内部では、マイノリティの中のマイノリティに対する抑圧というものが往々にして存在するよね。クィア系障害系の問題でも、「障害/クィア者の問題だ!」と言いながら、そこに女性の存在が忘却させられたり。「LGBTの問題だ」と言いながらゲイ以外は忘却させられたりだとか。都合のいいときは同じ立場のものとして利用するけれど(「勇気を振り絞れ」と言うけれど)、その実本当に本人の利益を真剣に考えてるとは限らない。そんな風に、抑圧を受けた人達の運動の中でさえ、更なる抑圧を生むなんてことは、フェミニズムに限った話じゃないはず。*3
それは、「ほんとうの被害者」がいるわけでも何でもない。誰しもが、抑圧者であり被抑圧者である、ということなだけ。

高橋りりすさんは、

「サバイバー・フェミニズム」の著者でもあり、反性暴力運動やフェミニズム運動の
中においてサバイバーが利用されてきたことに対して厳しく指摘をしてこられた方

http://www.freeml.com/chance-action/0006345

らしいのだけど、反性暴力運動という正にサバイバーに関するだろう運動(コミュニティ)内部でさえ「利用」はあるらしい。
私は、あらゆる運動自体に「サバイバー」的な存在者に対する隠れた暴力性が、ある、と思う。
サバイバーは、生き抜いてきた苦痛を名を挙げて社会に訴えることを、周囲から評価される(らしい)。<わたしたち>の受けてきた抑圧の代表者(代表例)として、最前線に置きたがる。それはきっと、運動(コミュニティ)にとってサバイバーにそれだけの価値があるからなんだろう。*4
けれど、少なくとも私からすれば、訴えなければならないことそれ自体が不当なんだ。

自分が受けた被害を一人でずっと抱きかかえていることも、本当に「勇気がいる」ことだといえるでしょう。その被害者が生き抜いていること(サバイバーであること)自体が困難であり、素晴らしいことなのですから。被害を受けたあとも生き抜いてきたこと自体を評価せず、それ以上の「勇気」を出すことを強制する。これほど「フェミニズム的」でない「フェミニズム」はないのではないでしょうか。

この文章を読んで私は色々思います。
私は何が「フェミニズム的」なのかは知りませんが、どんな運動(コミュニティ)内部であっても、勇気を出さなければ抑圧から解放されない構造自体が不当であり、抑圧だと私は感じるだろう。なんでサバイバーだけがそれほどまでに「勇気」が必要になるのか。サバイバーでなくても、何かを一人で抱えている人はいるはず。けれど、そうした人全てがそれほどまでに「勇気」が必要になるだろうか? 
確かに被害を受けて生きる事は、それだけで難しいことなのかもしれない。けれど、「被害」そのものだけがその人の「困難」だったのか?もしかしたら、それ以外に周囲による断絶が「困難」にさせていたのではないか?という問いが必要になってくるってことだよね。


きっと私は、生き抜いてきた(いる)ことを、素晴らしいこととして評価する言葉を、胸の奥が冷える心地で聞くのだろう。

たぶん、究極的に言って、サバイバーである事それ自体が、本人にとって不当なんだと思う。
だっておそらく、穏やかに(?)生きてこられた人が「生きてきた(いる)」ことを、世間は「生き抜いてきた」とは普通言わない。サバイバーはサバイバーであるが故に「生き抜いてきた(いる)」存在なんだ。そう、当然だけど、サバイバーはサバイバルしてきたから「サバイバー」なんだ。
けれど、それは果たして本人が望んだことだろうか。否。

繰り返すが、私は一般的に言うサバイバーではない。けれど、私は「死ななかった」。死ぬ理由はちょっとくらいあったけれど、死ななかった。「生き抜いてきた」と言えるかもしれない。しかし私は、本当は同性愛性を持つ者として、「ただ生きる」ことをしたかったはず(と思う)。「『ただ生きる』ことをしたかった」は、「『生き抜』きたかった」とは、違う。
つまり、私が「ただ生きる」ことを出来なかったのは、生き抜いていかなければならないほど“戦い”を背負わされてきたからだ。


「生き抜いてきた(いる)」ということは、つまり「戦ってきた(いる)」ということだと思う。
けれど、その戦いそれ自体が、不当なんだ。不当でない戦いなどなかった。
なぜ「生き抜いて」こなければならなかったのか、は、なぜ戦わなければならなかったのか、ということだ。そして、少なくとも私にしてみれば、戦いを背負わされていることそれ自体望まぬことであるのだから、戦ってきたことを「素晴らしい」と評価されても、困る。だって、それを価値のある事だと評価するならば、その不当な戦いは単なる「私の感動的なヒストリー」として周囲に消費されるだけだもの。それは、違う。それは戦わされてきたことの不当性を覆い隠すことではないか?

本当に私を評価するならば、戦わなければ生きられなかった私を掬い上げながらも、その“命”を自分の“命”と対等なものとしてまなざせばいい。
だって、「生き抜いてきた(いる)」としても「ただ生きてきた(いる)」としても、命は、どこまでいってもただ単に命だもの。

*1:人間関係って相性が大事よね。と云う問題。

*2:いや、この方がそういう印象を読者に与えようとしていた、と言ってるわけではないの。そのような意図は確認されない、と思う。

*3:まあ言い方を変えれば、「フェミニズムの中で更なる抑圧を受けるのはサバイバーに限らない」とも言えるのかもしれないけれど。

*4:でもこれは結構想像出来ちゃうよねー。だって、ある問題を切り抜いて「それは<わたしたち>に対する差別だ暴力だ」て叫びながらも、しかし“内なる”差別暴力には無関心、だなんて話は、自分にも思い当たりそうなものだもの。そういや、新木場事件などハッテン場での同性愛者に対する暴力に関しては、同性愛者はどういう反応をしていたっけ?