宗教を信仰する自由。引き離される自我。

いつも興味深いエントリを読ませてくれるこちらのブログから。

2007-09-11 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
もしかしたら、現在のムスリムの形を見ると、「そんなひどい宗教なら、LもGもさっさと捨て去ればいいじゃない」と感じる人もいるかもしれない。
そう、日本内の(宗教に属するか否かという軸における)マジョリティにとってすれば、それが妥当で賢い選択に思えるかもしれない。けれど、国によって宗教の位置するところは違う。その国に属する個人として宗教とは、決して自分の人格と切り離せるものではなかったかもしれないのだ。「国」というものと同じく。


教示が私を殺すなら、私は信仰を捨てよう。
それは何も偶然の不幸ではなく、何かの権力制度により恣意的に引き起こされた不幸だ。そのハプニングは不慮の事故ではない。
もちろん、人によって捨てても問題のないものとそうでないものとある。場合によっては捨てた方が利口なのかもしれない。では、捨てられるかというと、それも別である。


まず見たいところがある。
私達はある特定の宗教を信じていいのか。
私達は宗教を拠り所としていいのか。
もちろん、それは「いい」はずだ。

しかし、選択する自由と選択するにあたって十分な条件(の保障)はあるだろうか。

もし、宗教を大事とは思わない人からすれば容易に捨てられたとしても、しかし「なぜ捨てなければならないか」という疑問は残る。なにより、彼らは捨てなければならないことにより、自らホームを捨てるのではなく、追われるのである。 なぜ<わたし>が?

では他の宗教を選べばよいか?いや、そこまでしなくても同じ宗教でも教会によって考え方が微妙に違うかもしれない。
けれど、なぜ<わたし>が?


結局教示から排除された<わたし>は、捨てるか、あるいは、闘うかしなければならないのだろう。

しかし、「JIHAD FOR LOVE」の現実に生きている登場人物たちは、彼らが大事にし、彼らを支えている信仰を捨てるのを望まない。 代わりに、彼らは、その情熱的な信仰を自らの存在の生まれながらの現実と折り合わせようと闘う。

この闘いはなんだったのだろう?
どうやら彼らは映画の中で、排除する宗教の内部をなんとか新たな方向性へと導こうと呼びかけるらしい。

「JIHAD FOR LOVE」でひとつにされたゲイ・レスビアンのムスリムの国を超えた合唱は、イスラム教を否定も拒絶もしようとはしない。むしろ、新たな関係を築こうとしているのだ。

宗教というものにだって、自由に様々な教えを広めていい権利があるはずだ。それが時として誰かを排除することもあるのだろう。それが仕方がなかったかどうかはともかくとして。

彼らは、そうした形あるものを、自分たちと共存できるものへと変えていこうとする。


宗教と<わたし>の溝というものは、おそらくそういう営みを繰り返していくしかないもののように私は思う。自分から切り拓かなければ、その構造は引き続き<わたし>を排除してゆくだろう。その現実の中で自分たちの生きる声を振り絞り、自分たちの『失われたホーム』を『新たなホーム』へと変えていく。そうやって変えていく他に、何か有効な戦略があるようには思えない。誰かがしなくては、変えられないのがマイノリティの問題系なのだ、と思う。たとえそれが当人からしたら本来したくない努力だとしても。


しかし、その耐え難いコストは一体なんだったのだろう。
私たちは映画の彼らを見て、彼らを勇敢な戦士とたたえるだろうか。
その前に、“なぜ”闘わなければならなかったのかを、私達側は見ないといけないのかもしれない。
彼らを脅かすのは、
国境や国家か?
宗教や信仰か?
それとも私たちの他者への姿勢か?


そして、彼らが彼らの選びたいホームで生きられるようになるためには、何が変わる必要があるのか。引き離される<わたし>はなぜ彼らだったのか。その点を見つめることが出来るだろうか。