三浦しをん×木原音瀬 腐v女v子対談

今月売りの小b(小説b-boyのことね)で腐女子的な対談があった。というか、今回のは木原音瀬作品の分析が中心の対談だった。

小説 b-Boy (ビーボーイ) 2007年 10月号 [雑誌]

小説 b-Boy (ビーボーイ) 2007年 10月号 [雑誌]

この本の私のレビューはこちら肥満とコヨーテ。容姿がテーマのBL。 - のだだがBL読んだ。
この本は、ちんこが短小の「肥満受け」が出てくる。(当時ビブロスの)編集部としては、「木原先生だから・・・」とこのプロットでOKを出したんだそうだ。(なんちゅーこっちゃ)
そして三浦は、BLには男根主義的で皆で男根崇拝して楽しんでるところがある、と指摘。その中で短小(負の要素)を出すことが意外に感じたれたのだった、と。(しかし、推奨されるよな男性性から離れた身体的特徴は、受けには割と見られるような・・・)

  • 木原音瀬の文章は、主人公視点でありつつ三人称で書くのでやや突き放した印象があるのだという。

うん、三人称かどうか以外にも、木原さんの文章には突き放した感があるよね。同時にその文章には、(社会的に排除されがちな)感性や身体に寄り添って、読者に共感(感染的な感動)を呼び起こさせようとする力動を感じる。

無罪世界は今月19日売り(サイトによると20日らしい)。あらすじをb-boywebから引用。

詐欺まがいの仕事、賭けごとで借金まみれの人生。そんな山村に顔も覚えていない親戚の遺産の話が転がり込んできた。浮かれた山村だったが、その遺産には厳しい条件がついていた。幼い頃さらわれて以来、ジャングルで育った従兄弟・宏国の世話をするというものだ。自分の「むら」しか知らず、日本語も解さない宏国と暮らさざるを得なくなり、いざとなったら放り出す気で引き受けた山村だったが…。
渾身の大長編オール書き下ろし!

言語論的テンカイーーみたいな。(なんて)
えっと、今回木原さんは文字を持たない青年と詐欺師との交接をテーマにするみたい。上の紹介文からすると、青年は文字以外にも言語も話せない感じですね。ということは、「愛」という概念を知らないことになる。なぜなら、愛というものも言語によって成り立つのだし?
文字を媒体にしない思考。そこにあるものは?
言語を介せぬ青年との関係。そこでどのような心理描写が出来るのか。それに挑んだ作品、なのかな。
三浦はこれを読んで、文字がなくても二人の間には愛があるんだよ、というメッセージ性を感じたらしい。>愛の本質主義
BLというものは、愛というものの現象などなどを色々追求していく作品群だと思う。その中で、三浦の言うようなメッセージ性があるのなら、無罪世界も愛の本質探求の作品となるのか。
うん。いやだな、それ。
三浦は現在世界に幅広くあるのは「愛してる」「わたしも」の西洋的なラブイデオロギーだとする。そこで言語のない青年にまで、「愛がある」と言ってしまうのは、愛の本質主義だ。言語がなくても愛はきっとある、というのは、乙女チックな夢想だと思う。愛という概念が西洋的な意味で現在広く消費されてるのであれば、愛というものは、そうした言語特有の文化ということになる。ある文化(の中の概念)が本来的に普遍なものであり、それは人格に生得的に備わっている、として果たしてよいのか。
愛という言語がなければ愛は存在しない、と私は思うのだけど。
確かに「愛」を知る我々としては、受けと攻めの間には「愛」と呼びたい“何か”がある、と感じられるかもしれない。
けれど、愛という言語の圏内でも、圏外でも、関係にあるのは単なる熱量だけでは? それをまなざして修飾するのは言語を持った私達自身。何も「愛」という概念が本質的に存在してるという話ではない。
BLは今後もそういう路線で愛を語っていくのだろうか。いや、しかしそれは読み手の解釈に委ねられていると私は感じている。


木原さんは学生時代漫研に所属してたらしい。あと、BLを読んでても、そこにあるマニュアルを自分の中に取り込んではいない、ということらしい。だからあんな異端児な作風なのか。
木原は今まで扱われなかったモチーフを題材に、心理を深く照射していく作家だと三浦は評価。
確かに障害者エイズ患者とあまり扱われなかった対象を描くのだけど、それも表象の仕方として抑圧的かどうかと問われれば難しいところがあるかもしれない。よくもわるくも露悪的な作家だと私は感じている。