「壊れた脳」・・・か。

本屋でこういうタイトル↑の本を最近見かけました。
そういや、私小学校の時、アナログ時計読めなかったなぁ。しょうがないから自分なりに工夫して読み方を覚えたんだわ。・・・アナログ時計、なんかよう覚えらんなかったんだよね。どうしてだろう。基本的に暗記できるものしか理解できない人なので、図解とか求められても無理だったし(あ、今もだ)。もしかしたらこれもなんかの名前がつく症状なのかもしれないけど、とりあえずわかるのは、私には小学二年の時期に教わった形では時計は読めなかったということ。だからやっと覚えたのは・・・、いつだったか、中学生の頃までには読めるようになってた気がする。・・・めっちゃまどろっこしい覚えかたしてたなぁ。ひとつひとつ数字が何分にあたるのか暗記してその数字の並び方とかの法則性を一つ一つ導き出して、それをまたひとつひとつ暗記して。*1

しかし、時計読めないとか人には言えなかったのでちょっと苦労したなぁ。今となっては「たとえ時計が読むことの「出来る」人であっても(読めない人もいます。)、理解の仕方なんて人それぞれなんだから、学校の授業っていう形で一様に教えられても理解できない子どもだって居て当然。」と思えるようになったんだけどね。でも、こういう私の脳(?)って、やっぱり馬鹿にされたり「壊れた脳」とか言われたりするんだろうか。。。
世間は出来ない人に対して「欠陥人間」として見る傾向があると思う。けれど、何かが「出来ない」ことで「欠陥」とかって呼ばれることには違和感を覚える。だって私の感覚だと、時計が読めない(読む事が「出来ない」)のは、自分の個性・・・というかひとつの感覚なんだからさ。感覚は人それぞれであるのに、その独自性を欠陥と呼ばれても、何をもってして「欠陥」なのかわからない。私が感じるその感性だとか感覚だとか。それが誰かにとって欠陥として映るのなら「まあ、それでもいいけど」と思う。でも、そういうふうに私を見る人は、私の<わたし>たらんとする部分を理解してくれないんだなぁと失望する。なぜかはわからないけれど、時計がなかなか読めなかった私がいる。それもひとつの私であり、私が<わたし>である事の証拠なんだよね。

・・・思考回路とか感覚とかを分かってくれない人とは、どこか相容れない感じはする。けれど、「思考回路とかがその人と違うから(相性が悪いから)」相容れないのかと云うと、それだけではない気がする。私が<わたし>である証拠を、紋切り型に「欠陥」として捉えたがるその姿勢が、まず嫌なのかもしれないな。
理解できないならそれでいいから、いちいち世間的に「欠陥」「異常」とされるのかどうかで見る前に、私が<わたし>であることの証拠をあるがままに見つめてくれればいいのに。

*1:詳しく書くと長いから省略。でもいつか思い出したら書いてみたいな。でも、教えられてすぐ覚えられた人ってどうしてすぐ理解できたんだろう。どういう理解の仕方してたんですか?皆さん。