よしながふみ対談集、大まかな感想編。

非常に面白かったです。腐関連としましても様々なテーマに向けて考察が広げられるような、示唆に富んだ対談集ではないかと。

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

語れども語れども・・・
マンガ界の名手よしながふみ、待望の初対談集!!
やまだないと 福田里香 三浦しをん こだか和麻 羽海野チカ 志村貴子 萩尾望都
爆笑&含蓄&貴重なお話満載、ファン垂涎のマンガ・トーク!!

本当に言いたいことは山ほどありますが、今回それを省きまして、本全体の大まかな感想を書きます。
この対談集は、基本的に少女マンガを題材にしつつ様々な作家らと対談しているので、実はBLやおい論的なものより「女性の読む漫画」という方向性で話が展開しているんです。そして、用語・作品解説などもある上に、話の内容はソフトなものが多いので読みやすい。けれど、本当にマンガと共に成長なさった方達の対談ですので、マンガへの愛情が濃厚で交わされる言葉の重みに読み応えがあるんですよ。約300pで税抜き1,200円ですが、私はお値打ち商品だと思いましたわ。
まず、よしながふみという人はですね、思い切りのある一徹した切り口で論じられる、魅力的な論者の一人であると思いました。彼女自身は各対談のメイン、あるいは司会役を務めてるような形でお話を進めてらっしゃるんですが、彼女は読み手と対談相手に対して実に興味深い見解を投じながら談義を深めているんですね。
たとえば、「少女マンガは、女性と云うマイノリティが“どう生きるか”という答えを提示(もしくは模索?)してくれる媒体【26p】」(意訳)といった発言などがそれ。

よしなが [・・・]でも結局私、少女マンガって一様に言えるのはやっぱりマイノリティのためのものだなと思う。女の子って、もう女性っていうだけで経済的にも権力の担い手としても腕力の世界でもマイノリティだから、社会の中で。で、そういう人の、たたかって勝ち取って一番になるっていうことが基本的にできない人たちが読むマンガだと思ってる。頑張ればなんとかできると、いくら少年マンガを読んでも思えないっていう人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかっていうことを、それは恋愛だったり、友情だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女マンガは提示している。

そして、その『少女マンガによる女性の欲望の包括』というあり方が多様化する/していることに着目をしているのね。BLもそのひとつで、少女マンガにもジャンルのディシプリンというか・・・制約というのがあるけれど、よしながふみさんはそういう少女マンガの制約からあぶれた女性達の、新たな欲望の受け皿としてBLがある・・・という指摘をなさる。>「少女マンガのストライクゾーンが狭い人のためにBLはあるのかもしれないですね【80p】」
彼女の着眼するところは割と定まっており、故に論旨の歯切れがいいのです。おそらく彼女にはマンガ論をする上できちんと視座というものがあるのでしょう。その射程範囲は二四年組を始点とした少女マンガ(一部のサブカルBLも含む)でありますが、つまるところ「女性への抑圧」がその重点になってると思われます。彼女はフェミニズム的な視野を取り入れた上で、マンガ、とりわけ少女マンガを語っていらっしゃいます。・・・しかしそのために、彼女の議論にも限界が生まれてくると私は思います。私はフェミニズムの議論だけでは「性」を完璧に捉えきれないだろうと感じているからです。(そりゃどの分野にでも言える事なんだがw)

ところで、面白いことに彼女は自分の作品にもフェミニズムが関係してあると告白なさってるんですね。そのことについてなのですが、以下に2点引用してみます。

よしなが 私、そのフェミニズムみたいなものって、絶対マンガで描いちゃいけないって思ってたんだけれど、結局女の人のことを描くと、そこに触れないわけにはいかないんです。だから今まで男女物を避けてきたんです、どうしても描いちゃうから。
[・・・]
よしなが 私はマンガをすごく愛しているから、マンガを自分の思想を伝えるための手段にはしたくない。でも、物語を語るためにはそこに触れざるを得ないときはウソはつけないので・・・。すいません。

羽海野 訴えたいことがそれぞれ違うってことはすごい分かる。訴えたいことがあって、それは使命としてマンガの中にまぜ込んでいって、できれば同じ考えの人がどこかで生まれてくれるといいなっていう。ふみたん忘れてるかもしれないけど「世界をよくしたいよね」って。
よしなが (笑)私はマンガでどうこうしたいとは、思ってません。ただ、人の生き方っていうのが、マンガにはどうしても出てしまう。そこは嘘がつけないから、そのために、やっぱり自分も人間としてどう生きるかは大切だとは思います。

ここらへんが「よしながふみの生命学」なのだな、等と思ったりしました。
でも、彼女の言ってることって興味深い。私は自覚があろうとなかろうと、マンガを世に出すこととは、不可避な形で何らかの思想を“伝えてしまっている”ものだと考える。なぜなら私たちはこの社会で生きる上で何らかの権力構造に巻き込まれているのであり、その構造に生きる以上は、自分の内面にも社会的(権力?)な価値基準をコピーしている可能性があるからだ。そして、コピーをした自分が表現をするのだから、当然表現にもコピーされた思想・価値基準がいつの間にか盛り込まれるというのは、ごく当たり前なことだろう。
たとえば、勧善懲悪の物語だとか全能感を読者に与えるヒーロー物でも、そこには何らかの思想が絡み展開しているであろうことは、言うまでもないことと思う。そこで、社会的弱者の性や生を否定することを正当化する思想・価値基準が盛り込まれることも、・・・やはりあるだろう。人間の行う表現とは、社会の権力構造と無縁ではないはず。
そのことを鑑みるに、作家という権威のある(影響力の比較的高い)立場の者は、自分の表現について何らかの吟味反省をどうしても求められるだろうと私は考える。(それは別に社会人の「責務」などではない。人の「倫理的課題」としての請求、だ。)もちろんそんなことは考えないで描く作家さんもたくさんいるだろう。けれど、彼女は自分の表現に吟味反省をする作家なのだ。
愛がなくても喰ってゆけます。でも、彼女は一人のゲイに対して「嘘っぱちのゲイを描いて、その金で飯食っててごめんなさい!」と謝ってたりする。私は彼女の抱くゲイへの罪悪感は必要ないと思う(むしろ良くない)。けれど、彼女のように自分の表現の影響力や業を省みる姿勢は、おそらく求められるものだろうと思うのね。つまり、彼女自身が自分の職業を思想を伝える道具として見てなかったとしても、実際には彼女の表現は社会の中の何らかの勢力に動員されているだろうから(社会に影響力があるのだから)、それについて批評されることはあるし、結果吟味反省を求められるだろうということ。それは何もゲイからの「こんな描き方をするな!」という抗議だけの話ではなくてさ。ゲイだけの話ではなくて、それこそ女性の話かもしれない。たとえば、彼女の表現が女性の性を抑圧する勢力に加担してしまったとしよう。仮によしながふみさんが自分のマンガ表現において「女性が性的欲望を持つことはいけないことだ!」というメッセージを与えてしまったとして、それを世に批判されることで作品の価値が落ちるということも、「吟味反省を求められる」ことの一つだ。
そう考えてみた上で、彼女の作家としてのあり方をどう見ればいいだろう?・・・・彼女は「嘘をつけない」と言う。そして、マンガの表現と自分の生き様が関連したものだと捉えていらっしゃるみたい。マンガを描くことと読むことが、自分が「どう生きていくか」というテーマと融合しているんだ。
これってすごいことだと思う。
私は矛盾した人間だ。「こうあるべきだ」と思うのに、それが達成できないばかりか逆行さえしてしまう。「女性やセクシュアルマイノリティの性や生を肯定したい」と思いつつも、誰かの性や生を否定・非難していたりもする。そんな矛盾した、そして業のある欲望を抱えた私は、私の欲望と向き合う事で、どの欲望がどんな意味を持つのか考える事が出来る。たとえば、一部のBLを読みながらホモフォビアに共鳴してゲイバッシングに加わることもよくあることなんだ。それは諸刃の剣で、自分にも返って来る。そんな時、私はどのような表現が私とゲイを痛めつけるのかを知ることが出来る。知ることが出来るから、反省したりも出来る。欲望を抱えつつ生きる上で、そういうパフォーマンスこそが重要だと感じている。
よしながふみという作家も、そういうパフォーマンスを行いながら、マンガと共に生きていくのだろうか。
非常に興味深い姿勢だと思う。