ちょっと引いてしまった広告。

http://d.hatena.ne.jp/QMblog/20071102/1193993786

【10月25日 AFP】イタリアで展開中の、同性愛者差別に抗議する広告キャンペーンで、「同性愛者」と書かれたリストバンドをした新生児の写真が使われ たキャンペーンポスターが騒動を巻き起こしている。

らしいのだが、もちろん赤ちゃんが「自分は同性愛者なので皆にもわかるようにリスバンドを付けてもらったんだ」という話ではないはず(笑)
いやぁ、しかしこれは私も悪趣味だと思う。Gianni Vattimoさんと多分同意見かも。
どうも「同性愛という性的指向は選択不可能なもの」というスローガンを訴えるための広告らしい。うーん、この広告に批判している宗教団体ではないけれど、私もこれは「不誠実」だし、多分微妙に恥をかく内容だと思う。だいたい、こういう「選択不可能だ!」ていう主張は、運動論としてなにをしたいのか良くわからない・・・。

で、同性愛が生まれつきかどうかなんて誰も知らないと思うけども、「生まれつき」だとか「選択不可能だ」という主張をするならそれで構わない。構わないけども、このやり方ってどうなんだ。
主張するのは勝手だ。しかしセクシュアリティの定まらない新生児にこのようなセクシュアリティという<名前>を腕に巻きつけさせることで、「同性愛は選択不可能(生まれつき)」という政治的な主張のために子どもの性を大人の事情で搾取するなんてグロテスクだ。同性愛だからじゃなくて、仮にリストバンドの文字が異性愛だったとしてもグロテスク。子どもまでも性の政治性に巻き込む必要はないじゃないか。一体どんなリベレーションを希求しているのか甚だ疑問。
そもそも、同性愛解放なんてものは、その性が選択のものかあるいは生まれつきで選択不可のものかという点にこだわらなくても良いはず。だって、仮にある人が選択して同性愛者として生きようとしたとしても、そのLifeを否定されるイワレなんてどこにもないもの。これは私の政治的な主張だが、リベレーションにおいて同性愛者らが目指すべきは、その性的指向が選択か否かという点で保障を求めることでなく(つまり、「生まれつきなのだから仕方がない」という理由を担保に解放を目指すのではなく)、「同性愛」と呼ばれる性・生*1を不当な抑圧や差別で否定されることなく存在出来るような社会を構築してゆくことだ。
「選択不可能だ」という主張を見るにつけ思うんだが、「じゃあ選択して同性愛者になった人は差別されてもイイの?」って疑問なんですが。大体、そんな隙のある主張じゃ同性愛否定する保守派に「ほら見ろ、選択したって言ってる人がいるぞ!」て揚げ足取られるだけだと思う。
運動において忘れてはならないのは“目的”だと私は思うのだが、たぶん、同性愛解放運動の目的は『同性愛への抑圧からの解放』のはず。「同性愛という性的指向は選択不可だ」と言うことでどんな目的が達成できるのか私には疑問。この手の議論は運動の目的を見失ってるのではないかと感じてしまうんだが、どうなんでしょ。

で、また更に気持ち悪いのがこの広告に賛同してるゲイの議員Franco Grilliniの発言。(引用エントリからの孫引き)

「同性愛者が選択することができることは、自らのセクシュアリティを受け入れるか、あるいは、不幸に生きるか、ということだけなのです。」

こういうの読むと、「同性愛の欲望を持つ者は全てゲイ/レズビアンアイデンティティーを持たないと絶対不幸になるぞ!」ていう脅迫的なメッセージを与えられてるみたいで、すごい居心地が悪い。じゃあバイセクシュアルや私みたいなどっちつかずな坊やはどうすりゃいいんですか同性愛者を名乗れないからオートマティックに不幸になるしかないんですかそうですか本当にありがとうございましたって感じで、微妙に凹む・・・。
これってさ、
食育をしなければ子どもがキレやすくなって不幸になりますよキャンペーンとか、この壷を買わないと貴方は不幸になりますよ商法とかと似たものを感じちゃうのだが。。。

・・・ていうか私は同性愛だって社会的に構築されたものだと思ってるけど、それは一部の保守派の言うような「同性愛というアイデンティティは“自由”に選択できるもの」とか「同性愛なんて嘘」という意味ではない。構築主義的に性的指向を見たとしても、アイデンティファケーションの不可能性/可能性というのはあるわけだし。

そんなわけで、ちょっとゆっくり餅でも突こうよ・・・。

*1:言い方は「性のあり方」「生き方」なんでもいのだけど。