先日の腐女子論で頂いたTBへの返答。

http://d.hatena.ne.jp/isikaribetu07/20071103/p1

isikaribetu07さんにTBを頂きました。そういえば、なぜ私が腐女子論に突っかかるかということを書いたこともなかったので、その点を一部書かせてもらうと言う意図も込めて、isikaribetu07さんのところでコメントさせていただくよりこちらのブログでエントリを立てさせていただきます。腐女子さんにも「なんでこいつ腐女子でもないのに出しゃばってるんだ?」と訝しがってる人もいらっしゃるでしょうし。という訳で失礼ではありますが、TBへのお返事と私のスタンス表明という意味も込めつつ、今回のエントリでそこらへんを書かせてもらいます。

で、isikaribetu07さんは私の書いた「破綻したやおい論を『俗流やおい論』と呼ぼう。」について主に三点ご指摘なさっています。
それは(1)「昔と今では腐女子のあり様も大分変わってきているので、分けて考えない方が不自然」というご指摘と(2)「件の増田が妥当ではないと判断してる古典的な腐女子論に反論してみせるても仕方がないし、更には読者を混乱させてしまうのではないか」と(3)「破綻した論理に反論しても無意味ではないか」というご指摘。

言説の効果に反応するのは間違いではない。

では、(こっちの事情で)ちょっと1〜3までを順序を変えて応えてみます。

  1. (2)について。

えーと、まず誤解を招く書き方についてですが。もし本当にそのような誤解を招いているとしたら、それは申し訳ありません。でも私はエントリの最初に読者にも詳細を読めるようにトラバ先のエントリをリンクしていますし、引用文においても『件の増田』が「この古典的な腐女子論は現在の腐女子さんには的外れのようだ」と言ってる箇所も読者に読めるようにしていますよね。ですので、私は増田(て言うんですか?)の意見を捻じ曲げて引用したりミスリーディングを誘うような書き方はしていないと自己評価しています。その上で申し上げさせていただきますが、私は増田の主張する『偽腐女子説』はこの古典的な腐女子論に依拠してる部分があると思っています。確かに増田は積極的にこの腐女子論を肯定しているわけではありませんが、「この古典的な事情が仮にあるとして、現在の腐女子はそのような背景は持っていないのではないか」と主張しているんですね。「昔はAかもしれないが、今はAという背景はないはずだ」というのは、一部的に「A」を自分の主張をするための前提として利用していますよね?ですから、増田の論旨は挙げられた古典的な腐女子論と関係がない訳ではありません。
よって、『偽腐女子説』を懐疑的に見ている私が、その論理の前提である古典的腐女子論を「おかしい」と述べるのは至極まともだと思います。
それに私は「増田がこの古典的腐女子論を肯定しているぞ!」と書いたわけでもないし、ある程度区別して読めるように書いたつもりですので、その上で「この古典的な腐女子論もおかしいよね」と書くのは、それほどおかしくはないと思います。もちろん、それが誤解を招く書き方であるのなら、それは批判されても仕方がないと思います。その点はいたらなくてすいません。

  1. (3)について。

はい、私もそう思います。(爆)これについてですが、確かに破綻した論理(増田の書き方は明らかに矛盾していたり、なにが言いたいのか分からない悪文だ)に寄り添うような行為は危険だし無意味かもしれません。その点は私も先のエントリの脚注にて認めていますし、そのほかでもやばかったなぁと自覚しています。
ですが、エントリのやり取りに論理性がなくても、表象への抵抗という意義はあったと自己評価しています。どういうことかと言うと、確かに論理としての“意味”はないだろうけれど、「腐女子」について好き放題言いっ放ししている文章に「それはなんかおかしいぞ」と指摘することには“意義”があるということ。たとえ文章に論理としての“意味”がなくても、ネットで対抗言説を書くという言説のパフォーマンスとしては“意義”はある。と、そう思うわけです。*1
意味と意義は違いますが、その二つの価値というものにはそれぞれ別の効果があると私は思っています。
破綻した論理に一部批判するのならまだしも前面的に付き合うのは無意味な論理になってしまうので価値はないでしょう。なぜって破綻した論理を前提にした論理は、それもまた破綻するし。論理は論理として成り立たないと意味がない。ならばそれは、論理としての価値がないことになる。けれど、私は今回のエントリでは、「腐女子について好き放題言いっ放し」という現状への抵抗を狙っていたという節もあるんですよね。
表象っていうか、ある特定の集団へのまなざしによる意味づけとかに興味あるんですよ、私。そして、当事者でもないくせに何の説得力もない破綻した論理で勝手に「腐女子*2ってこういうものなんだよ」みたいなことを言っているのは気に入らないし、また、当事者だからって「自分こそが腐女子の代表だ!」みたいに思って「腐女子ってこういうものなんだよ。」と言い切ってるのも気に入らないんですね。ですから私は、たとえ論理的な価値がなかろうと、「その論理は破綻している」と指摘して「好き放題言いっ放し」の現状にストッパーをかけたかったんです。それに私は「その『偽腐女子説』は間違っており、真実は〜〜である!」という論理の正当性を争ったわけではないですし、完全に論理として無意味だとも思っていません。
まあ確かに「そこにあるから好きになっただけ」と「やおいが好きだ」というのに何の違いがあるのか意味不明だし、そんな論理を「今の腐女子やおいが好きなわけではない」という主張だと解釈した上で「そんな事は言えない」というのは、結構無意味だけどさ・・・。(とはいえ、もうちょっと文章が矛盾してるぞ!とかいうだけの指摘にすれば自爆もせずにすんだかなと反省しています)

ただね、一つだけ言わせて貰いますと。この増田のエントリを読んで「納得」している人までいるわけで、そういう効果がある以上、「それっておかしくね?」と対抗言説を置くことに意義はあるはず。だって、そのような腐女子へのイミフな理解を少しだけでも止めることはできるもの。(たとえその効果が一人にとどまっていたとしても)そしてそれはとても独りよがりな欲求であり、傲慢であったかもしれないとも思います。
私は今回論理としての価値よりも、一つの効果に対して違う効果を持つ言説を置くというパフォーマンスの価値を重視したと言えるわけです。

・・・しかし、本当にワケワカメな文章に付き合うとこっちまで自爆することがわかったので、今後やり方を変えようかなぁと思いますw

  1. (1)について。

これについては簡単です。
私はね、実を言うと腐女子にも年代ごとの差異はあるだろうと思っています。ていうかないとは言えませんよね。でも、これを認めるなら「腐女子」ではなく「女全体」というものにだって年代ごとの差異はあると考えなければなりません。で、「女」って一口に言っても、時代ごとに文化ごとにその内実は異なりますよね。それを認めるなら、確かに腐女子だって年代ごとに違いはある。あるけれど、違いがある事と腐女子が二分出来る事とは同義ではありません。だって、女全体だって違いはあるけれど、あるからってそこで「今の女」「昔の女」で分けられるかというと、そう簡単ではありません。「じゃあ、女って人間は時代によって峻別されるものなのか」っつーとそういうわけでもありませんもんね。
これはですね、腐女子というものは二分化できるけれど、何の条件もなしに腐女子を二分化できるものでもないってことです。isikaribetu07さんが挙げたように、「読んでいた雑誌」で年代ごとに腐女子を二分化することは可能です。しかし、女を「昔と今」という曖昧な区分で無条件的に二分化できるものではない。実際に昔の女も今の女も「女」として認識されていますよね。つまり、全然二分化されていない。けれど、たとえば「使っていた化粧品」で年代ごとに「女」を二分化することは可能ですよね。しかし、可能であるからって女が常に「二分される人間」だということは言えない。そういうことです。
「読んでいた雑誌で腐女子を二分化せよ」という条件設定があれば、そりゃあ当然腐女子を二分化することは出来ますが、それは腐女子が今と昔で違う人間として認識されているという意味ではありません。設定条件もなしに何かを二分することは不可能ですよね?当然ですが、二分化は二分化させる人がいなければ二分化されません。そういう設定条件もないのに、唐突に「今の腐女子」と「昔の腐女子」で腐女子を分けるのは、すごく意味不明じゃありませんか?私はそういうところで「全く理解できな」かったんですね。
これも私の書き方が不親切だったのでしょう。よく分からない文章しか書けていないいたらない私で申し訳ありません。ですが、あの「理解できない」というのは、こういう意味だったのです。ご理解いただけたでしょうか。


それでは。

*1:もちろん、「パフォーマンスとしての意義すらない」という指摘はありうるし、その場合は別の文脈として批判される余地はある。

*2:腐女子でも同性 愛者でもなんでもイイのですけれど。