語られる側が「語り」に還ることが出来る可能性。

オバサンの性的欲望は少年へと向かう - G★RDIAS
大分前のエントリなんだけど、これ実は私の中ですごく引っかかり続けたことなんだ。

そもそも性的な視線と言うのは直線的なものではないと感じている私。現在多くの人が(しかし“一部である”多くの人が)セクシュアルな人間であるこの世の中で、性的な視線と言うのは非常に巧みに非常に複雑に絡み合う。対象とまなざしにより相互的に完成する性的なイメージ(表象?)*1。性的な交歓。とでも書けばいいかしら。意味づけられた対象と意味づけを行いたいまなざしとの共謀により、どのような欲望のパフォーマンスが生まれるのか。
最近そういうことを思う。たとえば「ジェンダー化された身体」という言葉だとか。身体に与えられた(宿った?)欲望は身体を見る<わたし>の欲望の中に立ち表れ、<わたし>の欲望を刺激し、<わたし>の欲望と奇妙に被さる。
では、以下引用。

と同時に、斎藤を追っかける男性カメラマンたちが、斎藤への同性愛的視線によって撮影していることに注意をうながす。そのホモセクシャルな視線をとおして、オバサン(信田の用語)は斎藤に性的欲望をかぶせているというのである。

私はこの9月号の論座をよんでないので詳しくは知らない。(田舎なので、売ってないんです。)なので私はkanjinaiさんのこの物言いからその内容を想像するしかないのだが・・・、「男性カメラマン」の「同性愛的視線」による「撮影」、そしてその「視線」を介して性的欲望を重ね合わせる。とは、一体どのような意味だろうか。男性カメラマンが同性愛者だったのだろうか。おそらくそうではないと思う。では、一体誰がそのカメラマンの「撮影」という視線を「同性愛的視線」と名づけるのだろう。それはたぶん信田さん自身によるもので、言わば信田さんという女による(「あの男性カメラマンは同性に性愛のまなざしを向けているんだ」と言う)「同性愛」の捏造、なのだろう。(あら、とっても腐女子的ね。)
では、そこでどうしてその「撮影」が「同性愛的」になったのだろうか。「同性愛的」と言う時の同性愛とは一体何で“あり得た”のだろうか。
同性愛には同性愛の特徴があり、性的視線というものに関しても、同性愛的特徴がある。つまり他の性愛と差異があるということなのだろうか。では、その特徴とはなんだったのだろうか。
火のないところに煙は立たない、と申しますが、火(同性愛)は果たしてそこに存在していたのでしょうか。
ある時、同性愛という存在が、たとえば腐女子と呼ばれる女たちの表象により出現させられたとしよう。その時、その表象の場において、同性愛者による同性愛表象というものはどの程度許され、どの程度で許されないのだろう・・・。腐女子が語る同性愛という言葉に、私はどのような感慨を持つのだろう。反感を持つだろうか。持ったとして、私のその反感は、腐女子の間でどの程度存在できるのか。どの程度届けられるのだろうか。届けることで、私は私の同性愛を、一体どの程度取り戻せられるのだろうか。
ある現場において、同性愛というものが同性愛者によるものではなく、非同性愛の存在者の判断により「在る」と見なされ、そこに同性愛という性愛が立ち表れるのだ。そうしたとき、同性愛者による同性愛表象というものは、果たして介入可能だろうか。私の見たところ、たとえば腐女子の言説空間による同性愛者(というかこの場合ゲイ)の同性愛表象は、難しいようにさえ思える。ゲイ且つ腐男子の人気ブロガーさんもいますが、その方のブログ運営は限りなく腐女子に寄り添ったもののように感じます。(そして自分のブログにゲイとしての視線を表明した時、それを拾うのもまた腐女子だったのかもしれない。)いや、それは腐女子に寄り添った結果なのではなく、(ジェンダーを必要としない)「“腐”の欲望」という視線の自己確立であったのか。その場合、「ゲイ」と「腐女子」という存在の欲望が折り重なったのではなく、「共に腐である」ということを担保にした部分的な同性愛表象が行われただけなのかもしれない。そこに当事者性の復活などあったのだろうか?それは言ってみれば同性愛者としての視線を制限されている現状であるのかもしれない、のだろうか?腐の現場における同性愛表象の腐女子の中心性・・・とでも言えばいいか。腐の現場において、同性愛者が同性愛者として同性愛表象をする。それはどの程度許され、可能な行為と言えるのだろう。
たとえば信田さんが“ソレ”を「同性愛だ」と表象した時、それは何の担保で「同性愛」足りえたのだろうか。(男性)同性愛の表象が(男性)同性愛者の手から離れ、信田さんという女性の手により担われる。ここにおいて“同性愛者の”「同性愛的視線」とやらは、存在可能なのだろうか。その欲望は本来体現してきた存在の身体から離れてしまい、時には奪われ、時には追放される。果たしてそこで同性愛者の欲望は生きてゆけるのか。。。

では、私が何かを「腐女子的視線」と名づけた時(↑でやっていますね。)、腐女子という欲望は私により追放されたのだろうか。奪われたのだろうか。そして、その表象を腐女子は奪い返せられるのだろうか。そして、仮に奪い返せられるとして(つまり当事者の欲望が存在可能であるとして)、それは“腐の現場における同性愛者による同性愛表象”と同じ存在可能性であり得たのか。ここでの同性愛者と腐女子の存在可能性はどのように異なるのだろう。あるいはどのように同じなのだろう。

それはともかくとして。

信田さんが腐女子なのかどうかは知らないが、彼女は腐女子とオバサンが斎藤と田中の甲子園での活躍を見て「ホモセクシュアルな性幻想を見て「萌えた」」(だろう)と指摘しているらしい。以下孫引き。

[オバサンは]男から見られ、性的欲望の対象たれという強迫から解放されるので、今度は見る主体になれる。どうせオバサンだからと開き直ることもできる。

 とはいえ、子育てを終え、生活時間の余裕と体力を持った彼女たちは、いつまでもなまなましくセクシュアルでもある。これらが相まって、−−男性がそうであるように−−若くみずみずしい異性に性的欲望が向かうことに何の不思議もない。ただそれは、侵襲的で支配的な男には向かわない。抑圧的な男らしさにはもう辟易しているのだ。

 安心して見下ろしたい、支配されることなく相手を享受したい、そんな立ち位置をとるのに絶好の対象がペ・ヨンジュンであった。そこを突破口としたオバサンたちの欲望の回路は、社会現象といわれるまでに韓流ブームを盛り立て、そして王子ブームに至る。(122頁)

いつの日か王子ブームも終わるときが来るだろうが、性的主体となった彼女たちの欲望の回路は、それを満たすべく新たな表象を求め続けるだろう。(123頁)

この論旨に対して、kanjinaiさんは

思うのは、これもまた、「女・エロス」を合い言葉とした70年代リブのひとつの帰結であり、勝利であるということである。

と感想を述べられる。
これにおいて、オバサンに加え「腐女子」の性的視線も(ウーマン?)「リブの勝利」であると位置づけられるのだ。
腐女子という層は当然ながら女性集団の一部分である。そして、哲学系ユニットブログ「G★RDIAS(ゴルディアス)」という現場において、腐女子と呼ばれる者たちの性的な視線はkanjinaiさんによって無条件的にリブの賜物として片付けられる。
これは上で先に書いていたものとどこか似た背景を感じさせるのだ。つまり、腐女子の欲望が「非腐女子の存在者の判断により「在る」と見なされ、そこに腐女子的視線という欲望が立ち表れる」ということなのかもしれない、と私は感じた。
腐女子の言説空間であるブログにおいて非腐女子のブロガーが“腐女子(の性的視線あるいは欲望)”を「リブ的」なものとして表象する時、そこに腐女子の存在はなく、腐女子による腐女子表象は「奪われている」「追放された」のかもしれない・・・(?)。そして。そこで、腐女子当事者によって「いや、私はリブの文脈で腐女子としての視線を獲得したと言う実感はない。そうではなく云々」という奪い返しはどの程度可能だろうか?言い換えれば、それは「その通りだ。私の腐女子的視線の獲得はリブの賜物だ」と同意する時と比べ、どの程度可能であろうか?ということである。

ある欲望が何と関連するのか、という謎は、とても深いものだと思う。当事者にわかるのかと言うとそうとも限らない。それは、当事者でない人にわかるかと言うとそうでもない、ことと同じ意味として。もしかしたら本当に「腐女子的視線」は「リブの勝利」によるものなのかもしれない。(しかしそれはもちろん「一部的」にはそうであっても、全てがリブの文脈で説明できるわけではないだろうけれど・・・。)
しかし、もしかしたらそれに反対を表明する人もいるのかもしれないのだ。その反対と言う表象の奪い返しはどの程度可能なのか、と今の私には疑問なんだ。
そして、反対をしたい人(腐女子)が仮に居るとして、「ではその欲望はどのようなものと関連してどのようなものと関連していないのか」ということは、果たして解明できるのだろうか。「「リブの勝利」によるものでなければ、何であるのか?」という根本的な謎もまた深いところにある。だからこそ、誰が/どの欲望を/なんである/と表象するのかが、今問われてもよいのではないかと思う。おそらく語るということにも、権威的なことや力関係が働いているのでしょうから。(自戒を込めて)


実は本当に書きたかったことは他にあるんだけど、力尽きたのでまた後日。書きました。↓

性的な視線を浴びている者の可視化される順番。

上のエントリで本当に述べたかったことを書く。
トラバ先は引き続き「オバサンの性的欲望は少年へと向かう」です。

これからの時代、性的主体となったオバサンと腐女子の数はますます増大するばかりである。それに比して、麗しき男子の数は相対的に減るばかりであろう。ちょうど企業におけるオジサンの群れと、希少未婚女子、という図の、まったく逆転した光景が、社会のあちこちで形成されていくのだろう。その結果として、男子は中学・高校に入ったと同時に、母親くらいの年齢の女性も含むあらゆる年齢の女性たちから、シャワーのように性的欲望の視線を浴びるという状況に直面しながら、自我を形成しないといけなくなるであろう。つまり、いまの10代女子が置かれているのと類似したような環境に、男子もまた置かれるようになっていくということだ。もちろん現在でもこのような側面はあるが、今後はこれがさらに一般化し、顕在化し、露骨化していくようになるだろう。人間である前に、性的男であるということを外部からの性的視線によって自覚せざるを得ない、という時代を生きなければならない将来の男子たちは、いったいどのような性的主体形成をしていくことになるのだろうか。彼らもまた自分の性的身体を自傷し、援助交際への渇望を見せるのであろうか。

うん、これを読んで私が真っ先に思ったのが「それを言うならクィア系「男性」がまずあるだろー!」みたいなことです。
私は女性への性的な視線と男性への性的な視線が同じ効果を持ってるのかどうか怪しいと思ってるし、男性からの性的な視線と女性からの性的な視線も、やっぱり受け止められ方が違うようにも思うんだけど、それはそれとして。
性的な視線というものがなんであると定義するのかははっきりとは書かれてないけど、読んで字の如く「性的な視線」と言うのなら、そういう視線のシャワーを浴びてきたのはクィア系の「男性(というか、社会文化的に男性の人)」がまず挙げられると思ってたんだよね。
だって、学校の中でもクィア系男性(に限らないんだけど)って結構な割合で性的で猥雑な話題として消費されてきてるもん。(男性女性から問わず)笑いのネタとして「ケツ狙われてる〜」だの「げぇ〜!ハードゲイだ!」とか言われたり。自分の性的な身体を女アイデンティティーと無理矢理被らされた上で「お前の身体は性的に価値がない二流品だ(女のなりそこないだ。)」みたいなメッセージを日常的に言われ続けたり(ミソジニー的なアレ)。そんな風に言われる一方で、やおい方面なんかじゃ「耽美」的なイメージを持たれて「リアルゲイはキモくてダメだけどBLは綺麗だからいいの〜。」とか言われてさ*2。もう散々。
これも一つの「シャワーのように性的欲望の視線を浴びる」状態だと思うのだけど。まあ、「女子高生」っていうカテゴリとは別の感じではあろうけど、そういう日々メッセージとして受ける性的な視線が、今日のクィア系男性の性行動に関係がないとは思えない。というか、そういう嘲笑侮蔑にしろ好奇の視線にしろ、それが私自身のセックスファンタジーに大きく作用してきたと言う実感がある。もちろん自分の感覚を一般化することは出来ないのだけど、ストレートである彼ら(セクシュアル・ジェンダーマジョリティ)の性イメージが差別的である時、その環境で自我を育成するしかないクィア系男性は、自己の性的な身体のイメージを被差別的な身体(差別されるしかない性と性的な身体)として受け取らざるをえない背景があるのは、おそらく言うまでもない事実だと思う。


で、kanjinaiさんは「今後はこれがさらに一般化し、顕在化し、露骨化していくようになるだろう」と仰るのね。この文章読んで私は嫌だナァと思ったんです。・・・ううん、違うんです。一般化、顕在化、露骨化するのが嫌なんじゃなくて、「それを今更言われるのってなんだかなぁ」って感じに嫌なんです。だって、「こっちからしたら昔っからそんなの当たり前だったよ。今までだって十分露骨だったし顕在化されてたじゃんかよ」って思うんですもの。ていうか、テレビのアイドルが出てきてオバサンとか腐女子とかが騒がれるようになって、それで今になってやっと「露骨化顕在化」っておかしくないですか?*3マジョリティからしたらそういう感覚かもしれないですけど、こっちからすれば昔っから露骨だったのに、この書き方だと「昔は露骨じゃなかった」みたいに読めるんですけど。それって性的な強者である人の視点であって、性的に弱者としては認識が違うんじゃないのかな?と思うんですよね。実際露骨だったし・・・。それこそ「(ストレートの)女性」からの視線だって強烈だったもの。

だから、「今後は更に」っていうのは正確に言えば、「性的に強者であるストレートの男性でさえも」「シャワーのように性的欲望の視線を浴びる」ことになる、、、って言う方が妥当なんじゃないかな?
少なくともクィア系男性からしたら、昔からコレ以上ないってくらい露骨で分かりやすかったんだし・・・。

*1:正直「表象」の意味が複雑すぎて最近良くわからなくなってるnodadaです。

*2:そんでうっかり「じゃあ自分は腐女子的にOKなのかな?どうなのかな?」とビクビクしてしまったり・・・(爆)←ダメじゃん、俺。

*3:「一般化」は具体的に意味が良くわからないから置いとくにして。