やおい、“関係性の発掘”という暴きのパフォーマンス。

最近あっちのブログでレビューを追加しようと思ったら、阿呆ノートパソのせいで消えちゃって拗ねてる のだだです('・ω・`)ションボリ

そういうわけで(どういうわけか)、今日は私がやおいについてよく感じてることを、書こうかと思います。上手く書けないかも知れないから、ブログでまた何度か同じようなことを書いていくかもしれないけれど、とりあえず、第一版『のだだ流やおい論』です!(`・ω・´)フン


活字倶楽部 2007年 12月号 [雑誌]

活字倶楽部 2007年 12月号 [雑誌]

最近、と言っても割と日が経ってるのですが、以前「活字倶楽部」で腐女子特集的なものがあったのですよ。そこでですね、BL・やおいでも腐女子についてでもなく、深見真さんのインタビュー記事で面白い文章があったのです。
深見さんは小説家、漫画原作者、脚本家らしいです。が、実は私は氏の本を読んだことはございません。せいぜいみやきちさんところのレビューを読んでるくらいなのですが、そのレビュー内容を見る限りは、男女関係も女女関係も男男関係も「当たり前」に描き出す作家さんなのだという印象を持ちます。(いや、しかし、http://d.hatena.ne.jp/miyakichi/20070725あたり読ませてもらうと、どうも一筋縄じゃいかない作家さんみたいですけど*1

どうも、深見さんは、男女関係というものに対して、けっこうクィアな視点をお持ちのようです(たぶん)。
インタビューでも、その点に触れてる箇所があります。
以下「YGC」シリーズについてのインタビューから引用。

―弓華と塵八は相棒というには距離が離れすぎているし、友だちともいえないし、不思議な関係ですがすごく好感が持てます。
深見 男と女が、すぐ恋愛に発展するような展開はいやなんです。ただの友だちではなく、どちらかといえば悪友や腐れ縁の匂いがして、必要以上に仲良くならないような関係を狙って書いています。たまにはこういう少年少女がいてもいいんじゃないかと。

で、実は私、これを読んで連想した文章があるんです。それというのは、BL・少女マンガ作家の対談集の文章なんです。
はい、これですね。
[rakuten:chuoshoten:10013403:detail]
以下、羽海野チカさんとよしながふみさんの対談から引用。

女同士でも男女でも“やおい”な関係

よしなが 以前、三浦さんともお話したんだけど、「やおい」っていう単語を、私や友だちの腐女子の人たちの間では、昔から男の人同士以外のことにも使ってきたんです。よく例に出すのは『ケイゾク』の真山と柴田の関係とか。『トリック』の山田と上田とか。男女なんだけど、彼らの関係は恋愛じゃない。見た目仲良くないんだけど、お互いの力を認め合ってて、それでその人が本当に困ったときは手をかしてやる関係みたいなものを、やおいだと私らは呼んでいて。で、『NANA』のナナとハチもやおいなんじゃないかって。

以下、三浦しをんさんとよしながふみさんの対談から引用。

やおい」の定義

[・・・]
よしなが 『ブロークバックマウンテン』(*146)を観て、あれがやおいだという人はいないわけですよ。本当はもうセックスしちゃってるから。私や友人たちの言うやおいっていうのは、セックスをしていない、つまり恋愛関係にない人たちを見て、 その人たちの間に友情以上の特別なものを感じた瞬間に、これはやおいだと名づけるわけ。二人の関係が性愛に踏み込んでいたら、それをやおいとは言わないんです。そういう人たちの間柄を妄想して、創作物の中でセックスさせていることもやおいと言うから、世の中の人はやおいというものをごっちゃにしていると思うんだけど。
[・・・]
三浦 性別ではなく、人間関係の在り方がポイントってことですよね。
よしなが 最初は反発し合っているけれど好きになっちゃうという展開ではなく、ずっと最後まで平行線をたどりながら、たまに交わることもあるというのがミソなんですよ。
三浦 わかります。私も、自分がいちばん好きな人間関係はどんなものだろうと考えると、テーマは「孤独と連帯」なんですよ。
よしなが まさに(笑)それこそやおいの本質ですよ。

・・・・・・ね?ちょっと、似てるでしょ。実は後半で引用する部分では逆行してるのですが、しかし、これらには共通する部分があると見た。*2

まあ、このよしなが流「やおい」定義が妥当かどうかはさておいて*3、ここで通ずるものって、「関係性」というキーワードだと思うんです。
人間には色んな関係性があり、それらが複雑に絡み合い揺らぎ続けており、一つとして同じものがないように思えます。そして、関係性というものは、私たち「個」にとって切っても切り離せないものですよね。哲学的に言えばどうなるのかは知りませんが、あらゆる<わたし>というものは、他人の存在がなくては映し出されないもののように感じます。はい、いわゆるエヴァ(の最終話)みたいな話です。<他人は自分を映し出す鏡。
で、深見さんもよしながさんも、「男女」という二つの属性が交わる関係性に着目してると思います。
ということで、ここでは「関係性」に加え「男女」が共通するキーワードです。

では、話を「かつくら」に戻しましょう。
深見真さんのインタビュー記事から更に引用。

深見真の構成要素
深見作品には欠かせない、いくつかの要素。それぞれへの思い入れとは?

[・・・]<<同性愛>>
深見 男女の恋愛なら、テレビドラマでもどんな媒体でも見られますよね。すでにあるものを自分もなぞって書くのではなく、「こういうものもありますよ」と別の形を読者に提示していきたいからです。

*4

―深見作品では、殺伐とした戦いの中で、敵同士であっても両者の間に愛情や恋のような感情が芽生えることがありますよね。
深見 男同士でも、すごい仕事をしている人間って憧れるんです。「トンドモナイ仕事をしたな、この人は!」と素直に尊敬の念が湧いてきてしまう。自分の小説に出てくるガンアクションとは、仕事のひとつとして捉えてあって、戦いながらそういう感情が芽生えるというのは、仕事を見て惹かれる感情のあらわれです。男同士でも、女同士でも、男と女でも、いちばん描きたい感情がリスペクトなんです。そしてそういうものは日常からではなく、戦いや仕事の中で生まれてくるのが自然だと自分は思っています。虚と毒島の二人の関係も、出会って認め合うところから始まりますよね。最初は敵同士だけど、こいつすごいやつだって思う。人間関係の中で、人の陰口をいったり、けなすことはけっこう楽なことなんです。人を好きになったり尊敬したり、憧れることのほうが、どちらかといえばエネルギーが要る。自分はそういうエネルギーのある人間を書きたいなと思っています。
(黒字部分引用者による)

*5
実際に本を読んでないからわかりませんが、これはリスペクトが情愛と結びつくと言うことでしょうか・・・?だとしたら、これが「ホモソーシャルホモセクシュアルへの読み替え」ってやつですかw
いや、もっと判りやすく言うと、「セックスしてないけど、二人は愛し合ってる」みたいな・・・?


では、ここからは私が上記の文章を読んでの印象なんですが、この方達は、男と女という二つの存在が、誰と/どんな 関係性を生み出せるか、試し挑もうとしてるように思えます。

たとえば、男男/女女が性愛関係を持つことを「ありえない」こととしてまなざす背景が、今の文化*6には(一部的に)あると思います。たとえば、(以前「男女の間に友情は成立するか」という議論が盛んに行われたのが象徴的なように)男と女が友情関係を持つことを「ありえない」こととしてまなざす背景が、今の文化には(一部的に)あると思います。

そういう文化的背景を裏切り、「ありえない」とされた関係性を生み出そうと試みる力動を、この文章から感じます。(でも誤読かも)

今の日本でも、性別隔離ってものが規範としてあるじゃないですか。更衣室とかトイレ以外でも、マンガとかまでも男女別だったりするでしょ?で、尚且つ隔離された男女は、同性間で連帯することを望まれるのに、一方ではホモセクシュアルな関係にはならないことを要請されている。
そういう、「隔離した上で、しかし性的欲望を排除しつつ絆を確認しあう」っていう部分が、現在の男女にとって「関係性」の制約になってると思うのね。
ほら。「男と女だから、ここまではいいけど、ここからは一緒になれない、踏み込めない」とか、「同性なんだから、こんなことをしてはいけない」とかさ。そういう制約ってあるでしょ?
でも、やおいとか百合とかは、そういう「同性なんだから」という制約を取り払うようなパフォーマンスがあるじゃない?で、深見さんのインタビューを読むと、氏はどうやら「男女の間でも友情は成り立つ!」という関係性の生み出しをしてるように、読み取れる。それはいわゆる「男と女だから」という制約を取り払うパフォーマンスだと思うのです。

ここで共通してるのは、男女という二つの存在が交わるその接点を作り変えていったり、あるいは、排除された関係性を取り戻すという、男女間の制約を取り払う力動

やおいっていうのは、時に、“隠された”同性間の関係性を暴きたてようとする。それは、言ってしまえば、関係性の発掘なのだと思う。自分の欲求に素直になって、「こういう関係ってあってもいいじゃないか」と訴え出る。深見さんのインタビューでも、同じようなものを感じます。


but.however.しかして、さりとて、
印象的だったのは、深見さんも「リスペクト」とか、いわゆる「男惚れ」と言われるような言い訳を持ち出しながら同性間の隠された関係性を生み出そうとしてるように、後半の引用部分では読めること。BLでも、やたらと男同士でメイクラブするのに言い訳を持ち出すカップルがいるのですが、彼らは言い訳なしには同性で性愛関係になることが出来ないのでしょうか・・・?
いや、深見さんの本を読んでないのでなんとも言えませんが。

ともあれ、やおいとは、おそらく制約を裏切ってまで関係性を発掘したいジャンルなんですよ、きっと。*7

  • まとめ。

世間ではやおいは「ホモ作品」と言われているけれど、しかしそのパフォーマンスの実態とは、深見真さんの男女の関係性の生み出し方と同じく、“男女間”の文化的な制約を取り払い、隠された関係性を生み出すというパフォーマンスに力点を置いている。
そして、やおいが特徴的なのは、“男女間”と一口で言っても、あくまで男男間の制約を取り払うことに特化している点だ。
つまり、男男間の性的な関係を生み出すことで、一部的に男女間の制約を取り払っている。


これだけがやおいの特質ではないと思いますが、とりあえず今回私が提示したい「やおい」における重要キーワードとは、「関係性」「男女」「制約」という、3つです。しかも、それぞれのキーワードは、<発掘>というパフォーマンスに集約されていくものなのだと思います。


もちろんこれは、草案?のようなものですんで、まだまだ仕組みを直す余地があると思います。たとえば、BLやおいでも言い訳なしでガッツリと同性間セックスになだれ込んでいたりしますし、どうしても一般化して一括りにすることが出来ないんですよね。
・・・・・・もうちょっときちんと考えてみたいところです。

*1:詳しくはhttp://blnd.sakura.ne.jp/novel/novel001_050/novel008.html等から。<みやきちさん、勝手に紹介ゴメス。

*2:グラハム・エーカー的に言ってみた。

*3:ちょっと解釈が私的すぎて一般には流通しない定義ですよねw

*4:やっぱり、表象文化において「同性愛」って「お客(異性愛者)に見せる出し物」って位置になるのね・・・と思うと興味深い。クィアがただの自己啓発的な教材として消費されるという背景があったりするのは、たとえば学問でもありえそうな話だ。

*5:「エネルギーの要る」というのは、ホモセクシュアルな関係でもホモソーシャルな関係でも共通しますよね。そこに違いはあれど、熱量が多く消費されてるという点では、どちらも等しく<欲望の表出>ではあるよね。

*6:ストレートの文化、と言おうかしら。

*7:それはある意味ゲイビアン的主観から若干外れているように思えます。だって、ゲイレズビアンは別に制約があろうとなかろうと、“それを越えるまでもなく”同性間の性愛関係を指向(嗜好)しますもの。ゲイビアンにとって、制約というキーワードはあくまで外部にあるものですよね。<私にとってもだけど。逆に、やおいBLなどは、“時に”あからさまなぐらい、制約を内面化している。内部にある、と、外部にある、というのが、やおい・BLらしさとゲイネスの差異なのかもしれない・・・などと思ったり。。。・・・ちなみに、百合はどうか知りません・・・。(爆