セクシュアリティをYES/NOで答えられるものと思ってる人って、

ものすごくストレートな感性をお持ちだと思う。答えられる人もいるだろうけれど、それはあくまで一部の人だ。
いや、簡単に考えればすぐ分かる事じゃない?晴れのち曇りみたいに「今日は女だけど昨日は男」みたいな人もいるわけだから。そんな人に「貴方の性別が、男(女)であるのかどうか、YES/NOで答えなさい」と聞く事で「いつも必ずどちらか」であることを求めるのは、無茶ではないか。
時間軸を考慮に入れると性別…と言うかセクシュアリティはより複雑になる。
「昔は異性愛だと思ってたけど、今は両性愛だ」と言う人に「あなたは異性愛者ですか」と聞いた場合に、「NO」と答えられる人も居るかも知れない。けれど、自分が異性愛だった時もあるのに、その経験を「NO」と答える事で過去のモノとして自分の中から常に捨て去るというのは困難ではないか。
つまり、YESともNOとも答えづらい状況はいくらでもありうる。そういう名づけの不可能性・不確実性を考慮せず「貴方のセクシュアリティは○○なのかどうか、YES/NOで答えなさい」と問うのは乱暴。
私自身も「TGですか、違いますか」「同性愛者ですか、違いますか」などと聞かれても答えに詰まってしまう。私の場合は、自分のセクシュアリティが色んな属性を含むものであると思ってるから。時間軸の事情だけではなく、そもそも私は同性愛/異性愛(<に限らないけど。)という対立する属性の境界線を曖昧な形で持っていると自覚しているのです。「それでは両性愛者だ。同性愛かどうかの問いにNOと答えられるではないか」と言われるかもしれない。けれど、そうもいかない。自分が両性愛であるとも思えないんだ。だって、私は自分の中で<異性愛/同性愛>に境界線を引く事が上手く出来ないのだから、同性愛と異性愛が別物であるという前提で(YES/NOと)答える事が不可能に近い。そんな自分にとってYES/NOでセクシュアリティを問われる事は、答えられない問いを突きつけられるようなものだ。
だからこそ、私にとってクィア変態、あるいはオカマというのは自己説明に便利なものだ。


「貴方は男ですか、YES/NOで答えなさい」と聞かれる時があるとしよう。私は「男かどうかはともかく、オカマです」と答えるかもしれない*1。それは問いのはぐらかしではなく、私が自分を語る上で正当な答えだと思っている。

*1:私はオカマを第三の性別だとは思わないし、男でも女でもないものだとも思わない。男でも女でもあるものだとも思わない。いや、正確には「“必ずしも”そういうものだとは思わない」、だ。境界線の中で揺蕩うものだとは思う。