この度、ジェンダーフリー推進者に認定されちゃいました。

実は前回のエントリを書いた事で、他所様のブログでの議論に私が少しだけ関わる形になった(詳しくはTBを追ってほしい)。そこで苺畑カカシさんという方が、ジェンダーフリーについてなんか書いている。

真実のジェンダーフリーとは男女平等だの女性救済のための思想などではなく、文明社会の基盤となる一夫一婦制という男女間の関係を破壊し、我々の自由社会を根底から覆えそうという恐ろしい概念なのである。
In the Strawberry Field:エントリー “変態たちが押し進めるジェンダーフリーという神話”

な、なんだってー!

そこで先ず、今回はジェンダーフリーを押し進める人々とは、いったいどんなひとたちなのか、という話から進めてみたい。

なんと、そんな末恐ろしー概念を、何時の間にか私も推進している事になっているらしいのだ。(ガクブル)
どうやらカカシさんは、人のセクシュアリティジェンダーフリー思想と本質的に結びつけた上で勝手に推進者に認定しているらしいのだけれど、私のセクシュアリティがどういう理屈でジェンダーフリーに繋がるのか、まったく理解できない。
ていうか、カカシさんは「真実のジェンダーフリーを証明する」と鼻息荒く仰るのだけれど、文脈によって微妙に意味が異なるジェンダーフリーについて私はそれほど詳しくないし、しかもちょっと昔のことであまり覚えてなかったりする…。
何はともあれ、私はジェンダーフリーを推進した覚えは、ない。推進した事もないのに推進者にされてしまうというのは、とっても奇妙な話だ。


それから、前回の議論において、カカシさんは「変態」という語彙を悪意を持って使ってないと言っていたのだけれど、このエントリを見ても分かるように、明らかに悪意が見て取れる。でもまあ、カカシさんのような反応は今に始まったものではないし、私としては「え?まあ私は変態と名乗っているけれど、それが何か?」と言っておけばいいように思う。なんたって、私は「自分を変態と言ってはばからない人」だからねv
ただ、カカシさんの言っていることって、「自分は『ホモ』だよ」と表明する人がいるからって「あいつも言ってるんだから『ホモ』を蔑称として好き勝手に使ってもいいじゃないか!」という幼稚な屁理屈と同じではないだろうか。(無論、私は蔑称として「変態」を表明したわけではないのだけどね)
でも、そういうのって「まっとうな」大人のする事ではないと思うのだけれど、どうなんでしょ…。


ところで、カカシさんはジェンフリ推進者がどのように自由社会(文明社会でしたか?)を脅かすかを別のエントリで書いたらしいので、「新たなデビューボの予感」と思って読んでみたら、案外インパクトがないと言うか、内容自体は既視感を感じるものでチョット残念。
ちなみにどういう内容かというと、カカシさんは同性婚ジェンダーフリーに関連性を(独自に)見いだして、そのふたつを、一夫一婦制という「文明社会の基盤」を破壊する政治だと主張しているのだ。なんという飛躍の論理アクロバティックな議論だろうか。
まあ、今回私は同性婚について詳しく議論を提示するつもりはないのだが、カカシさんの言っている事は何だか変だと思った。そのおかしな論理の一つとしてこのような文章がある。

彼等にいわせると、異性愛者は好きなもの同士で結婚できるのに、同性愛者にそれができないのは不公平だというわけだ。しかし、異性愛者同士でも好きなもの同士なんの規制もなく結婚できるかといえばそうではない。
結婚というものは、いにしえの昔から、公の結合であり決して個人の好き嫌いだけで決められてきた訳ではない。結婚に関する規制はどこの社会にもあるが自由社会においてもそれなりの規制があり、その規制は性別だけに限らない。年齢や血族関係、そして人数にも規制がある。これらの規制が憲法違反でないなら、性別の規制も憲法違反にはならないはずだ。
In the Strawberry Field:エントリー “ジェンダーフリーは自由社会を破壊する”

えぇと。同性婚支持の主張としては、「異性間ならば『異性である事』を理由に婚姻が認めらないことはナイのに、同性間ならば『同性である事』を理由に婚姻が認められないというのは差別だ」という“差別反対”の根拠もあるはずだが、この指摘はもちろん正しい。そこで「異性間であっても、年齢・血縁・人数の規制がある」と言っても、何ら反論にはならない。だって、異性間において「年齢(等)」で婚姻が認められなかったとしても、「異性である事」が婚姻を認めない理由にはならないのは同じなわけだし。(かわって、同性間では年齢が何歳であろうと人数がどうであろうと、「同性である事」が認められない理由になるというこの非対称性。コレが問題とされているわけだ。)
つまり、「同性間では認めないが異性間では認める(性別で規制する)」という事の正当性について議論しなくちゃ、差別反対としての同性婚支持の反論にはならないのではってこと。


しかし、前から疑問だったのだけれど、「伝統的な男女関係や家族」を築きたい人は自由にすればいいのであって、隣で非「伝統的」な人がいたとしても別に問題はないのではと思うのですが…。
横で非「伝統的」なことをやられちゃうと壊れてしまう伝統だなんて、なんて脆い社会基盤なんでしょ…。