BLのポルノグラフィックな表現を読む<私>の中から見つけ出す。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20080321/1206115370

 男の肉体を舞台に、女性的な官能描写がなされていて、その描写の強さが、女性読者ばかりか男性読者の僕までも、官能のありようの違いを乗り越えて巻き込んでいった……そんなふうに、当時の僕には思えてならなかったのです。

実は今回私が書き連ねる事柄は、元記事の内容の本筋とは無縁なのだけど(すいません)、我が事について思う事があったのでメモ。あ、ちなみに私は『間の楔』は読んでないのでちょっと疑問には答えられません…。<古典にはとことん弱いのだだです。

m-aboさんはJUNE小説を読み込む事で、かつての自分とは異なる“女性的な官能”を感じたと仰るのだけど、そことは少し別のこの部分を読んで、私はドキリとした。

 達する寸前ではぐらかされ、また責められてははぐらかされ…といった性技のなりゆきは、むしろ女体に対するそれ、を連想させます。現実の性体験のことはさておき、男女ポルノの中では、いったいにありがちだと言っていい。

さて、私自身が初めてJUNE…ではなくBLを読んだのは、高校生をやっていた頃だ。えぇと、友達に貸してもらった奴で正直作品名とか内容とか全然覚えてないのだけど、とりあえず挿絵が桃季さえサンだったことは覚えてる。…ええ、つまりはそういうアレな作品でした。
で、実際アレは当時の私にとっては扇情的(ショッキング)でした。あの頃の私は創作物の読み方がひどく近視眼的でして、とにかく作品の言う通りに解釈して、言う通りに感動しなきゃいけないと思っていたのです。だから著者の意図にかなり従順な読者だったと言えるのだけど、その読み方をする事で私はソコに描かれている「官能」をそのままに引き受けていたのね。たとえ自分が経験した事のない官能であっても、それはきっと私にも「有る」はずの官能なのだと、自分に言い聞かせて。<ええ。私、読書に対してかなり強迫観念を持った人間だったのですよ。
まあ、勃起したかどうかは覚えてないのだけど、同性間のエロチシズムなんて自分で想像するしかなかった当時の私にとって、BL小説はとにかく刺激的だった。そらもう、苦痛なくらい。
その作品にもm-aboさんが仰ったような焦らしの官能もおそらくあっただろうと思います。ただ、私は世間に疎かったし(<今もだよ。)、それに男性と女性の官能というのが別物だという感覚が今も昔もあまりないので、今回m-aboさんの指摘で、「あ、もしかしてBLの官能描写って『女性的』だったの?!」と思ったくらいに、私にとって「女性的な官能」というのは身近なものなんです。いや、と言うよりも、どのように性別で区別出来るのか、私には感覚的に理解できない。だから、言われないと気づかないくらい、BLの官能描写を“オス身体の官能”として最初から受け入れていたのです。

さて、そんな私にとって、BLの官能が「ヘテロポルノにありがち」だという言葉は、結構衝撃的でした。なぜって、私はそれをあくまで“自分の想像とは別なものとして初めて受け取るホモエロチシズム”だと思っていたから。「自分がホモエロチシズムだと思っていたものが、実はヘテロな文化の相似だったとは!!」てな感じ。
それ以前の私とBLを読むようになった私が持つ官能(という性)は、やっぱり違うと思う。それはもちろんBLの影響だけが理由ではないけれど、だからと言ってBLが関係なかった訳ではないはず。
そもそもセックスファンタジー、この場合で言うところの官能なんてものは、経験によってコロコロ変わるものだろうけれど、たとえそうだとしてもBL描写を素直に受け入れるようになった私は、それ以前の私とどのように変わって行ったのだろうかと、気になる…。私は今と昔でどんな官能を失い、或いは得たのか?という意味で。


私は、ヘテロな文化に敏感になっているのだと思う。自分のセックスファンタジー、官能は、ヘテロな文化の影響を受けているはずだ。では、どんな影響を受けているのか?
たとえば挿入行為だけを「本番」などと語るセックスファンタジー。射精だけをオスの官能だと語るセックスファンタジー。そこには特定の異性愛規範があったはずだ。誰もその規範から完全に自由にはなれないのだろうとも思う。だけども、幼少期の私と今の私(あるいはBLを読み始めた頃の私)とではその影響の度合いというか質は違うはずだし、実際に変わってきていると自覚する。私は規範から自由になりたいんじゃない。ただ、その規範から逸脱した形のセックスファンタジーを持ちたいんだ。そして、実際にBLからもそれは見つけ出せたという実感も、ある。だけど、「BLは異性愛の模倣」なら…。
私が得たホモエロチシズムは、もしかしたら別なものだったのだろうか?(<自分の認識よりも、そのケースは存外多かったのだろうか?)


たとえばクィアな官能を得るために読んだ/見たもの(たとえばBLとか百合)が実はストレートなものだったとして、私はそれをどう受け取れば、クィアな欲望を見つけられたと言えるんだろう。そう言う問題だ。
いや、クィアな表現は定まった形で在る訳じゃないし、解釈によって評価は様々かもしれない。うぅん…、だけどそれだけで終わる話じゃあ、ない。

それはともかく、BLをレビューすると言うのは私にとってある意味自己セラピーみたいな部分もあるのですが、それならば、私はBLのセックス描写とその感想をもっと書いてみるべきかもしれないナ…。そうすることで、自分の中の官能がどういったモノで作られているのか、どういうモノになってきているのか、多少は探れるかもしれない。…と思ったりして。
なんにしても、オルタとしてのクィアを見いだすのは容易じゃなさそう。