『「命」という名の暴力―デルタVプロジェクト』で簡易メモ。

あ、書き直しは一応終わりました。なので、ツッコミ・批判あれば是非ともどうぞ。…どうでもいいけど、何度やってもなぜかデルタGにはTBが送れないのです。。。
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障碍者の中には「介護なくして生きられない」人もいる。もちろん「介護なくして」も生きられる障碍もあるし、どの人も障害を持った尊厳のある一人の人間として生きていく当然の権利がある。自分たちが当たり前に「生きる」ための主張も、その一つのはずだ。

障碍者は介助の手なくして生きられない。介助を受けられるか否かは障碍者にとって命に関わる重大な問題である」

「同性愛者は介助が受けられないからといって死んでしまうことはないだろう」

「命に関わる問題と命に関わらない問題、どちらが大切か。両者を比べた場合、命に関わる問題の方が重大だとは思わないか」

これらの言葉、特に、最後の一言を、あなたは、どう受け止めるだろうか。

(ちょっと前後が分からないのだけれど、)介護者である彼女(筆者)は、自立生活センター・CILの仕事で障碍者介護に携わっており、レズビアンであるとカミングアウトしているらしい。そして、介護の仕事をする中で「性的マイノリティへの侮蔑発言」をよく聞くなどの心的負担を感じて、団体代表に問題の対応を求めた。代表は初めこそ「考慮しよう」と言ったが、後に彼らと彼女は対立してゆく。

たとえば、こんなことを実際に障碍者から言われたことがある。

「同性愛者は、結婚しないから介助ローテーションの融通がきく。便利」

「同性愛者を(同性の)障碍者のもとへ介助派遣するのは不安である」

このようなメッセージを受け取る事で、彼女は介護者として/レズビアンとして/人として居場所がなくて、自信が持てないと告白している。なるほど、異性愛者空間ではしばしば起こりがちな問題だ。
そしてこうした彼女の苦悩に対して障碍者(<って団体代表者からなの?被介護者からなの?両方からなの?)の反応は以下のようなものだったと言う。

障碍者は介助の手なくして生きられない。介助を受けられるか否かは障碍者にとって命に関わる重大な問題である」

「同性愛者は介助が受けられないからといって死んでしまうことはないだろう」

極めつけは、これだ。
「命に関わる問題と命に関わらない問題、どちらが大切か。両者を比べた場合、命に関わる問題の方が重大だとは思わないか」

これが本当の発言ならば、もちろんこれは詭弁だ。

このように差別的な言動を繰り返された彼女は、記事の中で彼らの言葉を「命」という「権力」を背景にした暴力であるとまとめている。

さて、最初の「どう思うだろうか」という問いに、私はどう答えようか。

もう一度最初の文章を読んでみよう。

障碍者は介助の手なくして生きられない。介助を受けられるか否かは障碍者にとって命に関わる重大な問題である」

「同性愛者は介助が受けられないからといって死んでしまうことはないだろう」

「命に関わる問題と命に関わらない問題、どちらが大切か。両者を比べた場合、命に関わる問題の方が重大だとは思わないか」

これを読んで私は真っ先にこう思った。
「この文面からは(介護を必要とした)障碍者であり、尚且つ同性愛を初めとする性的少数者である当事者の姿がどこからも見当たらない」ということだ。当たり前の話だが、障害者にだって同性愛者(など)はいる。しかし、「命の問題(<広すぎて良く分からない)」「同性愛者の問題(<ッて何?)」という軸を立てることで、障害者且つ同性愛者の存在が一切消去されてしまっている。
ここにおいて、ダブルマイノリティな当事者は、彼女以上に「居場所がない」と実感するはずだろう。もちろんこれは介護者と被介護者の話ではあるが、とは言え、こうした言説は当事者の“性と生”を尊重しない結果を生むだろうと私は考える。
たしかに、「命の問題」という視点では障碍者の生きる権利は支えられるかもしれないが、この障碍者権利の議論は結局の所“異性愛障碍者”を想定した権利であり、“同性愛の障碍者”の権利ではないようにさえ見える。いや、同性愛の障碍者を介護から排除する訳では勿論ない。ないだろうけれど、実質この文脈で大事だとされているのは「異性愛障碍者の命」だ。そして、誰だってただ「生きる」だけではなく尊厳を持ちながら生きたいはずだ。障碍者はそうした主張をしてきたはずだが、ここでは同性愛の障碍者の尊厳を異性愛障碍者の尊厳に比べて下位のものだと位置付けてしまっているのだ。これは明らかに異性愛中心主義だと言える。
つまり、上の言説では「障碍者の生きる権利=命の問題」と言いながら、同じ障碍者の存在を締め出しているという矛盾を生んでいるわけ。


さて、介護者である彼女は彼らの「命の問題」という視点を「命という名の暴力」だとするが、どうか。
しかし、私はこの命に対する問題提起が、果たして「権力」として機能するのか疑問だ。というか、そこまで言えるほど現代社会は障碍者の「命の問題」をちゃんと考えて尊重出来ているのだろうか?障碍者の「命の問題」が困難を抱え込まされている事実は、介護者である彼女自身が

「介助が受けられないと死んでしまう」のなら「介助者」の抱える問題は障碍者にとっても他人事ではないと言えるのではないか。

と言っている事からも分かる。
もちろん彼女も「介護者の事情を加味しないと介護を受けさせないぞ」などとは思ってないはずだ。だが、被介護者は介護者の事情を担保に介護とそれによる生が保障されてしまっているとしたら…。そう考えると、「介護を受けないと死んでしまう」人達がどのように介護者側の問題を捉えるべきだと言うのか?私には分からない。*1
考えないと、どうなってしまうのか?逆を言えば、こうした問題設定をしてしまう事で、“他人事ではない介護者の事情を加味しなければ、介護は受けられないのか?”という恐怖を与えてしまう事にならないか?と私は疑問だ。

それよりもまず、彼らが「命の問題」を優先すべきだと主張する事で、(セクシュアルマジョリティである)自分たちの権力性を「省みなくてもいいんだ」と詭弁を振りかざす態度が問題なのではないか。

私の結論はこうだ。
彼らの「命の問題」という、生きる権利は正当な主張のはずだ。問題なのは「命の問題」という言葉ではなく、「命の問題」という言葉を「異性愛者のためなら同性愛者を抑圧しても良い」という異性愛中心主義を覆い隠すためのレトリックとして使った、異性愛者の権力性なのだ。
自分の異性愛中心主義を反省するのと、「命の問題」を主張する事は、矛盾しないはずだ。

ところで、現代の障害論は、このようなセクシュアリティの問題についてどの程度議論を深められているのだろうか?
今は亡き花田実さんという論者を思い出した。

*1:というか、同性愛者への社会的抑圧は、障碍者の「命の問題」と同様に、すべての社会構成員の問題であるのだから、「(身近と言う意味の)他人事ではないから」「自分の介護者であるから」という理由で対応を求めるのはおかしいのではないか。ここで「介護者」として抑圧について考える事を要請すれば、本来彼らも考えるべき問題にわざわざ介護者の権力を行使してしまう事になるのではないか。