違う人種として描かれるゲイ、ホモソーシャルをゲイにするヘテロ?

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ホモソーシャル
『女性交換論』、『欲望の三角形』、これらを併せ技一本でキメた「ホモソーシャルな欲望」論。
ホモソーシャルミソジニーホモフォビアを内包。詳しくはサイトをご覧くだちい。

この概念がもとにしている理論はふたつある。ひとつは「女性の交換論」。これは文化人類学から出てきた理論で、レヴィ・ストロースやゲイル・ルービンなどが言及しており、単純化して言うと、「家父長制において男性同士の絆は女性を媒介として利用することで維持される」というもの。家父長制社会が機能するためには、男性同士を結びつける糊(絆)のようなものが必要であり、女性はそのために利用される。ひじょうにわかりやすい例は政略結婚。男(=家父長=家)と男(=家父長=家)が経済的/権力的/社会的に結びつくために、娘や姉妹をお互いの家に嫁がせて交換する。女性の交換において男性が絆で結びつくほんとうの相手とは、女性を通じてつながりをもった男性、つまり相手の女性の父兄である。AくんがBさんと結婚したいと思ったとき、その申し入れをする相手はBさんの父であるCさんであり、AくんはBさんとの結婚によって、じつはCさんと強いつながりを持つ。

セジウィックが下敷きにしたもうひとつの理論は、ルネ・ジラールが提示した「欲望の三角形」という文学・文化理論。ふたり(Aさん、Cさん)とひとり(Bさん)で形成される三角関係においては、AさんとBさん、またはCさんとBさんにおける異性愛のつながりよりも、AさんとCさんのつながりのほうが強いのだということを、西洋の文学作品の検証に基づいて主張した。

フォビアとはものすごく強い恐怖や嫌悪のことで、そもそもまったく欲望の可能性すらないのであれば、そのような恐怖や嫌悪が生じる理由はない。けれども、西洋近代以降を支えている男性同士のつながりが、もしかしたらホモエロティックなものになるかもしれないという可能性をつねにどこかで感じているからこそ、明確にホモエロティックな関係に対しては、強烈な恐怖や嫌悪をともなう拒絶反応が生み出される。
〔…〕
セジウィックホモソーシャルな絆とホモエロティックな絆がまったく別物だと言ったのではない。むしろ逆で、両者は同じではないけれども結びついているのであり、それを必死で切り離そうとしているのがホモソーシャルな社会であり、ホモフォビアであると主張した。


こんな具合にミソジニーホモフォビアを要請するホモソーシャルをチキンと理解するには、ホモセクシュアルとソレとを混同してはいけない。だが、「私達の男同士の絆は『ホモ』なんかじゃない!欲望の孕まない素ん晴らしく清い絆なんだい!」というのがホモソーシャルの理念的前提であるわけだから、「うんそうだね、ホモセクシュアルホモソーシャルは別物だよね、確かにホモソーシャル欲望は無いよね?」と同意してしまうと(ホモソーシャルからホモエロティックな“欲望”を切り離すと)、かえってホモフォビックなホモソーシャル体制を維持してしまう…。異性愛男性同士で女性を交換したい排他的システムな訳だからね。
これにおいて、セジたんの「男同士の絆」議論は、感情と欲望の恣意的な区別こそがホモフォビアの要請に繋がっていると指摘する訳だ。


男同士の間には、様々な、かなりの熱量が孕まれている。しかし、そんなホモソーシャル体制だからこそ、体制内の人間は「俺達の間にホモエロチシズムなんか無いやい!」というホモセクシュアルパニックを起こしやすい。だって、そうしないと女を交換する事で保たれる強制異性愛ホモソーシャル体制が崩壊してしまうから。
要するに、彼らは「ホモソーシャルホモセクシュアルは無いはずだ!無いはずなんだーーーーーーーー!!」と幻想を信仰しなければ自分達のホモソーシャリティを維持できない。だからこそやっきになって「ホモではない」証拠を確認し合い、ホモを排除しなければならなくなる…と。なぜなら、ホモの存在をいったん認めてしまうと、自分達の間でも“感情が欲望に転じる可能性”を認める事になり、自分達の体制が揺らぐ恐怖に見舞われてしまう。
これがデルタG連載「クィアスタディーズ」のホモソーシャル概念の(私的な)まとめだ。


…だとしたらよ?このホモソーシャルを壊す主体をゲイと名づける事に何の意味があるだろう。

BL(に限らないけど)では元々男を性愛対象としない人間が男同士でイチャ付いたりするケースもあるわけじゃん。でさ、この場合彼らも実際物語の中で「ノーマル(笑)」の皆様方から「うげ!お前ゲイorホモかよ!」とか言われたりするのね。しかし彼らは必ずしもゲイではないのよね。なのにゲイとかホモとか名づけられる。

でね、この名づけの行為は、ホモソーシャルを壊すのではなく,むしろ「だからアイツは排除するべき対象(=ホモ)である」という、叩きやすくするためのラベリングであり、よってホモソーシャルを維持する方向にあると言えるんじゃないかと思うんだ。
だってさ、もし彼らを「いや、ゲイじゃない。あくまでヘテロだ!」なんて言ってみなよ?そしたら、ホモソーシャルを維持する上で脅威ではないはずヘテロ男性にまで、「感情が欲望に転じる」可能性を認めてしまうことになるわけじゃない。ホモだけならいざ知らず、ヘテロの中にまで同性愛があるなんて、システムの大欠点になっちゃうょね。
だから、「ノーマル(笑)」の皆様方はやっきになって「男同士で付きあったから、今日からお前らはホモな!そう決めたからな!わかったな!?」と脅しかけてくる訳じゃない。元々男好きではないけれど男同士でデキてる人らをホモと呼べたなら、「奴らは自分たちホモソーシャルを維持する人間とは違う人種だ、だからホモではない(はずの)ホモソーシャルは壊されていない。あとはホモソーシャルから奴らを排除すれば良いだけ…(-v-ホ」と安心できる。つまり、ホモと「ノーマル(笑)」の境界線を引けることで、彼らは自分達のホモソーシャル体制を維持できるという保障を得る。


たとえばさ、「ゲイ」と聞いたら、テレビの中の人だとか遠い世界(二丁目)にしかいない宇宙人としてイメージされるじゃない。それはだって、自分たちの領域には「いないこと」にした方が、自分達のヘテロ中心主義社会やホモソーシャル体制を維持するのに都合がいいからなんだよね。
だから、ホモと名乗る人達の方が、かえって彼らには安全な侵犯者であって、元々ヘテロなのに男同士で仲良くして女を交換しないで、そのまま仲良く男同士でデキちゃった人達の方が要注意人物なのだと思う。
なんだかんだと言いながら、ホモと名乗ってもらった方が叩きやすくて、しかも自分たちとの間に線引きが容易にできて、色々便利なのだ。


さてさて、聞く話によると最近のBLは「男同士でデキ上がったから、俺たちホモだよなー(はぁと)」「お前モナー(はぁと)」と言い切れるゲイフレンドリーなキャラクタが増えてるらしい。確かに私も何度かお目にかかっている。悦ばしい事である。でも、そんな人らばかりではない。「俺たちは人としてお互いを好きになったんだZE!」とか「性別を超えた恋愛なんだZE☆」とかいうニュアンスの主張をする人もいたかと思う。(←今時そこまでベタではないけどねw)


そんじゃあ結局のところ、彼らにとってどちらがよりホモソーシャル維持にとって要注意人物だろうか。
ここまでの私の議論だと、一見自分達のヘテロセクシュアリティを否定しない後者の方が要注意人物だと思えるかもしれない。
だけれど、カップルの周囲にいる「ノーマル(笑)」様方は、彼らがゲイアイデンティティーを持とうが持たなかろうが関係なく「お前らはホモだ!俺たちとは違う人種だ!」と名づけることが出来ちゃう…。*1


ヘテロなのかどうかは必ずしも定かじゃないけれど、)元々男好きでない彼らがゲイを名乗るとき、ゲイ肯定を宣言することになるかもしれない。*2
そのとき、ホモソーシャルを維持したい人達は安堵する事でしょう。「よし、これで自分たちとは違う人種だと線引きできるぞ」と。
また、「性別を超えちゃったZE!」系の人らも、本人達から言わせずとも「いや、でもホモだから」と名づけたら…あら簡単、ホモソーシャルホモセクシュアルを切り離せちゃった♪


思えば私たちも、「俺はゲイじゃない、お前が好きなんだ」と言うキャラクタに対して、「いやいや、それゲイだからwww」とツッコミを入れてきたと思う。そう、ホモソーシャルを維持したい人達と同様に、ね。
そうした時、ヘテロの中のホモセクシュアリティという(相容れないはずの)クィアネスは身を潜めたかもしれない。違うかもしれない。<どっち。
私の中でBLとは、ヘテロとゲイという境界線を引かれた彼岸の者同士を奇妙に引き合わせる文化だ。(もちろんそれだけでは無いケドネ)


そこではアイデンティティーにどういう役割を持たされて、また、どういう活躍を見せたのだろう?


ゲイではないホモエロチシズム。
私はバイでもなく、ゲイでもなく、男という名前すら上手に掲げられそうにないけれど、BLのホモエロチシズムに対して一つの答えを求めた。境界線が無くても、「男」の間には熱量があったよね?、と。その熱量が「人間愛」なのか、はたまた「ゲイ恋」なのか、私には分からなかった。というか、区別する動機があまり無かった。どっちでもいい。私は、アイデンティティーに基づかない男同士の熱量を肯定して欲しかったのだと思う。・・・たぶん。
そんな私の欲望にBLは応えてくれてる訳だけど、じゃあ「アイデンティティー」はどこからどこへ行くのかな。


私たちはそのアイデンティティーに対して、どう向き合っただろう?たぶん、私達の名づけの行為すらも、アイデンティティーに対してパフォーマティブであった。アイデンティティーは、そんな私たちに対してパフォーマティブであった。


って、何の結論にもなって無いけど、この先はまたノチホド考えるとしようか。

*1:私感だけど、ゲイを「同性を好きになる“人種”!」と堂々と書く表現は多い。しかもそれをゲイキャラクタ自身がよく言います。つまり、物語の中で「自分たちは違う人種なんですよー」とゲイ自身の口から言わせている表現が多い。これを読むと、私なんかはゲイじゃなくてもクツジョクテキな気分になる。「人種」って何。え、実は黒人サンでしたとかそう言うオチ?…違うよねぇ?じゃあ、そのオーバーな表現の裏には一体何があるの…。

*2:少なくとも、表面上は、な。