今日の雑記と「あのひととここだけのおしゃべり」をダラダラ再読。

今鼻カゼ中で頭がにょろーっとしてたんだけど、動きさえしなければなんのことはないらしい。ていうか今もう治ってきてる。余裕。
チョコクッキー入りのアイスってなぜかあまり食う機会ない。だから食べれた日はなんか贅沢な日って感じ。
今日リボアニ…。思ったんだけど、未来編入ってから「アルコバレーノのなりそこない」を自称してるラルミルチが大人になってたじゃない。なんかコロネロも大人になってる臭いし…。んでも、リボーンはランボの10年バズーカで未来に飛ばされた訳で、赤ん坊のままなのよね。でさ、 マーモンがヴァリアー編で「僕はアルコバレーノの呪いを解く努力を怠らなかったんだよ」って言ってたじゃん。あれってやっぱり一生赤ん坊のままっていう呪いなんかなぁって思って。ていうかそうだと期待してて。でも10年たったらちゃんと成長してる設定だったらチョッピリ残念だなぁ。私好きなのよ、たとえば何百年も生きてるのに見た目10歳とか。ブラピとかが出てたヴァンパイア映画でも少女が成長できなくて悩んでたんだけど、なぜか私、<成長しない体>と<永い時を刻みつづける精神>のズレにトキメくのよね。
ほら、よくツナがリボーンに言うじゃん?「赤ん坊のお前に言われたくないよ!」って。あの言葉をいつもスルーしてるリボーンだけど、心中は複雑だったらイイなぁとか思ってるのです…。これもイヤらしい欲望であるのは自覚してるんだけどね。

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

ちょっと再読。
どうでもいいけど(よくないけど)キーボードの矢印キーがひとつ反応してなくってまいる…。誰かどうにかして。

こだかさんが「BLは少年誌と違って、編集が制作にあまり関与しない、作家の自由度が高いがその分責任が重くてプレッシャー」って言ってたんだけど、なんか『麗人』コミックスのあとがき見てるとなおのことそんな空気を感じた…。CJ Michalskiさんとかね。
ただし、それは売れてる作家に限るんじゃないかと思うのだけど…。Hシーン何回入れるかって言う規定も編集部によってはあるって話じゃないさ。
それにしても、竹書房って別にBL頑張るつもりで『麗人』始めた感じがしなくて、「金が回ってそうな業界だから俺らも手を出しておくか」的ノリな気がするのだけど、違う? でも、だからこそなのか、色々な作風を許す大きな土台と化してる気がするんだよなぁ。期せずしてレーベルの差別化が出来てるような…。
そうそう、最近のCJさんは韓国ドラマ目指してるのか昼ドラ的な作風になってるけど、麗人で連載してたはっちゃけたシリーズが好きだった…。ところで竹書房って「ちくしょぼう」だと思ってた。ちくしょう。

三浦 だからね、特にBLを好きでない人がBLに絡めて何か評したいのであれば、まずはBLを読むべきだと言いたいですね。話にしても絵柄にしてもすごく多様であるということを正確に知るためには、かなりの冊数を読まなきゃいけないと思いますけど。

それ、どこかの記号学会のシトに言ってやってください。
しかし、BL読まないとBLを理解できないけれど、BLを読んだからって腐女子を理解できるかって言うと…、それはまた新たなレイヤーになるわけで。より細かい議論が必要。
でも、「BLは多様」だとしても、たとえばアクアコミックスの『肉体派』とかってやっぱりまだそれほど売れてないのかなぁって気がする。もしそうだとしたら、やっぱり業界にも「モード」というのはあると考えられますよね。ソレを追う事でなら、BL系腐の消費傾向の理解に近づくことになるかもねー。

よしなが 『ブロークバック・マウンテン』を観て、あれがやおいだという人はいないわけですよ。

腐でもクィアでもない人が言ってますよね、たぶん。<揶揄込みで

三浦 そういう思いがあることもあって、たとえば男同士の恋愛を描いた『ブロークバック・マウンテン』がとても支持を得た事に納得いかない思いもあります。ゲイの恋愛だからというだけで悲劇性を高めるのはいかがなものか、と。

うーん、私は観てないんだけど、ひと様のレビューを読む限り、あの映画は、アメリカの田舎における「カウボーイ」という男性性(マッチョ)が、ホモフォビアを要請することで、破綻した恋愛関係を構築してしまう残酷な事実を描いたものという印象がある。つまり、カウボーイマスキュリニティを持って成長してきたイニスにとって、ホモフォビアとジコチューさは自分の人格形成に必要なものであり、故に悲劇的な恋愛と同時に妻に対してもジコチューにならざるを得ないという、アメリカ的“男性性規範の実態”を明かした映画である、と。

三浦 私も結末は納得いかないですね。もう少し日本の少女マンガやBLの名作を読めと言いたくなりました。あの終わり方はないんじゃないか、と。
よしなが こと同性愛が題材の作品に関しては、日本のほうが進んでいるんじゃないでしょうか。だからね、いっそ新田祐克さんの『春を抱いていた』をハリウッドで映画化してくれたらいいのにって思うんですよ。

うぅーん、そこでなんで日本の同性愛表象をいきなり理想化できるのか…。それに、BLにはBLの法則ってもんがあるはずでして…、そうした表現の縛りは、題材に対するアプローチを確実に単一的にさせるはず。
今のBLは確かにハッピーエンド志向が高いと思うのだけど、それだって『june』期と比べて、のことでしょ。確かに『ブロークバック〜』はアンハッピーエンドだったかもしれないけれど、あれも一つの「男性性が抱える問題」を明らかにしてしまった意欲作だと解釈すれば、同性愛に関して重要な社会・文化的背景を描いていると言えよう。BLのハッピーエンドに「男性同性愛と男性性」の軋轢や、「ゲイの抱える社会的心理」を描く意欲がそこまで溢れているかと言うと、なかなか断言しづらい…(ま、実は気づかぬうちに描いてたりするのだけどねー。ただ、BLはやっぱり恋愛の情緒が主眼だから社会・文化背景まではなかなか突っ込めないって印象があるかな)。
題材に含まれた問題性を直視しづらいハッピーエンドに「進んだ」同性愛表象が、果たして他国の同性愛表象より革新的(「進んだ」?)であるのか…、私には疑問。
それに、BLだけでなく百合なんかはみやきちさんのレビュー読んでると、あからさまなホモフォビア異性愛規範が少なくなさそうだわ。当たり前の話だけど、百合だって女性「同性愛」よ?日本が「進ん」でてもアメリカが「進ん」でてもどっちでもいいが(ていうか、何を持って「進んでる」って言えるの?)、自分の住んでる場所の現実をそう簡単に理想化出来ないのよね。

そういや、以前紹介したビデオドラマの『BOYS LOVE』って最後死ネタだったわね。あれって所謂「JUNEがえり」ってヤツかしら…?そういや、最近juneが文庫を主に再録っつーか再販?され出してるよねー。

こだか BLはある種ファンタジー的世界なんだと思ってはいても、やっぱりそのテの道具はいるだろう、と。腸洗浄も描こうかなと思っていたんだけど、そこまで描くのはあんまりかと思って(笑)
よしなが 【…】ただひたすらリアルを追求すればいいってものじゃないし、BLってそんなことが大事なわけではないじゃない。

うん、そうなんだけど、ただね。BLは簡易にアナルセックス出来るように都合のいい身体の記号化をしてる訳だけど、これ自体はよくある表現手法なので別に重要な話じゃない。重要なのは、“どのように記号化するか”だと思うのね。で、私は必ずしもセックスを精神的な領域や物語のカタルシスとして求める訳ではないから言うのだけど、もうちょっとBLは(アナルセックスを含めた)“セックスの汚さ”をエロスに変換して遊ぶってことを覚えた方が楽しいと思う。
その点で私個人が注目してるのはBENNY’Sさんと井ノ本リカ子さん両名。あの人ら、男性身体を弄くり輪ます気マンマンじゃない。で、スカトロ系も描いてくれるんだけど、アナルセックス描くんだったらやっぱりうんこを語る場面ってどうしても出て来ると思うのね。しかし感動的なセックスを描くためにそこをガン無視しちゃうと、“現実問題である身体機能”のエロスを見落とす事になると思う。汚いから無視するんじゃなくて、それすらエロい記号と化す…。その面で、両名のセックス描写ってリアルとファンタジーが上手い具合に調和されてると思うのね。と言うのも、かなり都合のいい身体の記号化をしてる割りに、あくまでセックスの汚さ(身体機能)を強調して描いてるのね。エロスを発掘発見するって言うのは、身体機能と言う<現実>のリプロデュースのことだと思うのよ。…ま、言い方を変えればただ単に「男性向けエロ」に近いって話なんだけど。

よしなが 〔…〕JUNE系の背徳的なものに対するあこがれとは違う、男の人同士の対等な葛藤を描きたかったのがBLですよね。同性愛者としての葛藤を描きたかったわけじゃないと思うんです。

その対比は違うでしょ。それを言うなら「あらゆる社会規範を内面化した男性同士が恋愛する上で経験する葛藤などを描いたのがBL」といったトコロでは。二つの葛藤は対立してなかったと言うのが私のBL認識。で、どの葛藤の方がより『+α』であるかは作品ごとに違うと思う。てーか、「葛藤」が主眼ではない作品もあるし。
ま、「BLジャンル」の傾向まではさすがにわからないけどな…。掲載された雑誌にもよるし。
…しかし、私とよしながさんのこうした認識のズレも、一つのジェネレーションギャップか?思えば、たかだか5年前のBLでも今のBLとは大分違うだろうしなぁ…。





後で違うもの書くかも。