語り部に託された配慮のあり方とは……。

なぜかは知らないが、「リアルゲイ」に関心があったり、存在に気を使いたい人がいるらしいやおい業界。実は「こんな作品を書いてリアルゲイに迷惑ではないか!」と少なからず憤りを見せる人は、件の「リアルゲイ」だけではないような…そんな不思議な感じ。
私としては…、BLであっても、いや、「BLだからこそ」、現実に生きる「ゲイ」と呼ばれ得る者及び自称する者に与える何がしかの影響に配慮をすべきだと思っている。良きにせよ悪しきにせよ、BLは大きな語り部となたのだから…。
ではまず、その影響とは何か?たとえば表現の中において、<男同士のセックスの現場>に<ジェンダーの非対称性を直喩させる>内に、いつの間にか<ジェンダー的非対称の関係性でしか男性同性愛をイマジネーション出来なくなる傾向>を生むケース。あらゆる文化表現というものは、実際問題として既に常に現実の<私>たちと関わりあっている。文化が私たちの観念に与える影響は大きいし、対して、私たちの持つ時代性や規範などの観念も、どこかしら文化表現と連動しているはず。商業となればよりその相互影響が顕著に現れるだろう。だからなのか、そんな中で私自身にとってすれば、「文化表現」をただの「リアルとファンタジーは別モノだから、ゲーム脳よろしく混同しないようにね」と『分別』を求めるだけの対象として捉えるのは、(ある位相では)筋違いなものとさえ思える。実は、文化に向けられた私たちの欲望とは、生身で生活している私たちと無関係ではなく、むしろ連なっているものなのではないか。それは安直に「ゲームが犯罪を誘発する云々」などといった話ではなく、現実に行動を起こす私たちと、文化を消費する私たちの間には、共通して切り離しがたい何らかの<欲望>がある、といった人間の根源的原理だ。その欲望が、いかに文化とそれを消費する私たちの生活とに結びついているのか、あるいはどのような相互関係があるかは、よくわからないし慎重に見極めるべきなのだろう。だが、物語において白人キャラを善なるリーダーに添えて、有色人種キャラをその周縁に置きたがるなどの心性は、明らかに私たちの現実生活と関わっているはず。オカマキャラを、ヘテロの結婚を賑わすために召喚する心性。女同士や男同士の性愛的関係を幼いものとして描いたり、兄弟姉妹などの既存枠に収めたがる心性。そうしたものは、現実生活では違う形をして表れるかもしれない。たとえば、無意識のうちにオカマの人間に「良きアドバイザー」の役割を求めたりする日もあるかもしれない。同性愛者だと名乗る友人に「若いうちには、そういう時もあるよ。気にしないで。」と慰める日もあるかもしれない。それらが文化による影響だとかどうとか言うことには、慎重にならねばなるまい。ただ、文化は私たちの現実と手を取り合うものなのだ。
では配慮とは何か?表現を規制するのか、表現者に責任感を求めるのか、そうした手段も考えられるが、それは最終的に実際的に取られる手段であって、今回私はそれとは別のレベルでこの「配慮」という言葉を用いている。というのも、今回の議論はあくまで倫理的課題に近いものであるから、「どのような措置をとるべきか」といった実際問題(立案)を必ずしも問わないのだ。それよりもまず、実際に文化表現の中でとある傾向が見られる場合に、私たちはその現象を無視してしかるべきなのかといった問題提起が重要だと訴えたい。その問題提起をするにあたって、じゃあどの傾向に注目すべきなのか、といった疑問も出るはずだ。関西人があたかもお笑い芸人としてしか描かれない傾向を注目すべきなのか、バイセクシュアルが色情狂としてしか描かれない傾向を注目すべきなのか、すべきならどれをより注目すべきか、またどのような点をより注目すべきか、さらに考えなければならないだろう。そうした取り組みを、私たちはいかに行っていくべきか(行わないべきか)を探るのが、重要ではないか。そう思う。つまり、<私>たちが<それ>をどのようにまなざすのかを、問題にしたいのだ。そうした現場では、扱う文化表現がどの程度の社会的位置にあるのかも重要事項となるだろう。たとえばBLが社会にどのような行為性を持つのか、だとか、BL市場が与える社会的影響とはいかばかりなものかも、考慮すべきだろう。私自身の考えでは、同性愛表象の体系としては現在日本でもトップクラスである「BL」の市場規模と意味(行為性)は、社会にとって十分に注目すべき文化だと思うし、よってBLの表現に見られる傾向は、注目すべきだと思っている。
注目した先に、何らかの問題性が見えたらば、私たちはそれに目をつぶるのが良作なのだろうか?問題の発見を時の中に埋没させるべきなのか、私たちは知るべきではないのか…。そうした立ち止まる姿勢を、私は「配慮」と捉える。



さて皆さん、今回は「誰が誰に配慮するか」という話だったのだけど…。
今までの活動家の業績なのか何なのか、どうやら、一部のやおい者や業界は表現に対する問題意識を持っているようです。彼女、彼らは、「リアルゲイ」という、BLによって表象される存在を特定しつつ言説空間に立ち上げて、その存在に与える影響を慮ろうと発言したりする。中には「大した影響はないのではないか、ゲイ活動家(リアルゲイ?)の過剰な抗議は非生産的なのではないか」といった疑義もある。あるいは、「リアルゲイも〜〜と感じているはずだ」などと語る人もいる。
それらの言説を読むにあたって、私はひとつの感想を抱く。「なんだかとっても物知り顔なんですねぇ」、と。
私なんかは、やおいにしろクィアにしろネット以外のコミュニティには関わらない方なので、ほぼ無知といってよい立場なのだけど、そんな私には、彼彼女らの推察は何とも断定的で自信に満ち溢れているかのよう。素晴らしい、羨ましい限りだけれど、ところで、どの「リアルゲイ」がどう感じているかなんて一体誰にわかるのか、はたまた、BLの与える影響の大きさなんて一体誰の視点で見極めればよいのか…?私にはよくわからないのだけど、私以外の人には常識で周知の事実なのでしょうか?何といいますか、当事者の感想を無視する必要はないけれど、どの当事者の感想を切り取るべきなのか、というのも一つのテーマだし。または、実際の影響を誰視点から見極めどのような評価を下すのかも、一つのテーマ。
もしかしたら、誰かにしか見えづらい影響があるかもしれないし、ある立場の人にはわかり辛かったり感じづらかったりする影響があるかもしれない。ないかもしれない。これは最近とある掲示板を読んでて思ったことだけど、「リアルゲイは必ずしも『受け/攻め』に拘らない」などの情報がやおい言説空間でも有力になったが、それを言質にしてなのか「リアルゲイはBLのセックス表現に違和感を持っているはずだ」といった言説が生まれているみたい。そしてその言説が、「(よってBLはリアルゲイとはかけ離れた表現であり、彼らと無関係の文化体系である)」といった議論に移り行く可能性を持っているのではないか、と私は勝手に想像(妄想?)したりする。
……でもよくよく考えると、それって“どの”「リアルゲイ」の話なんでしょうか?そしてその断定を、“誰が”するのでしょうか?断定をしてよいのでしょうか?全くしないべきなのでしょうか?どうなのでしょうか?私にはいまだによくわかりません。


ところで話は変わりますが(のだだは突拍子ない話し方をするオカマです)、これはBLを読んでて最近ようやっと気づいたことなんですけれど、世間(てことだろう…)にしろBLにしろ、ゲイ(レズビアンもだけど)のことを「女を好きになれない男(男を好きになれない女)」として意味づけようとしてる臭いですね。漫画ならそこまで直裁的に書かなくても済む場合もありますけど、小説だとわかりやすいです。「男を好きな男」ではなく「女を好きになれない男」と表記する場合はけして少なくありませんでした。(今なら「男を好きな男」をお買い上げの場合、もれなく「色情狂」の印象がついてきます、どうぞふるってご応募ください)
さて、この「女を好きになれない男」という意味づけによるゲイ男性描写は、誰の視点によるものなのでしょうか?もしかしたら私かもしれないし、近所の田中さんかもしれないし、はたまたシュワちゃんのものかもしれません。けれどここで共通してるのは、異性愛主義だったかと思います。そして、異性愛主義的視点によれば、「女を好きになれない男」キャラには、男同士の悲恋とか、幸福になれる(と信じられている)ヘテロロマンスから拒絶された悲劇(!)、といった物語が用意されてるのかもしれません。
さて、私たちの観念はどうでしょうか?
ゲイを自称する友達を見て、「女を好きになれなくても大丈夫だよ!(ヨシヨシ−w−)」と慰めるのでしょうか。BLに限らない文化が、ゲイキャラクタに「女を好きになれない」ことの悲劇性を付与するとき、私たちは知らず知らず「(女を好きになれない)可哀相な人、その名はゲイ」というイメージを消費したり、場合によっては現実生活においてもゲイにそんな『悲劇の人役割』を要請してしまうのかもしれません。しないのかもしれません。しない人のほうが多いのかもしれないし、露骨にしないけど内心思っている人が多いのかもしれないし、露骨にするけど本当はほかの見方を知っている人が多いのかもしれないし、多くないのかもしれないです。よくわかりません。あまりこだわっても仕方がないのかもしれません。


ゲイの代弁者になろうとする人、ゲイの代表者になろうとする人、よくわからない人、それぞれの言葉から様々な表象が行われることでしょう。果たして、私たちの言葉は誰のものであり、どの存在を指すものなのでしょうか。そして、何をすくい上げ、何を取りこぼすのでしょう。
語る者にはどのような「配慮」が必要となってくるのか、これもまた一つのテーマですね。