要請された沈黙は何を促し、何を承認したのか。腐のコミュニケーション問題について。

少し前まで商業BLオンリーだった私が、ニコ動で二次創作を観るようになってもう半年近く経ったのかな。思えばそれは獄ツナや和準から始まり、今年になってニコ動を含む二次創作同人に本格的にはまったのだけど、そんな中で私は、じょじょに著作権などの複雑なレイヤーをわずかながらも意識せざるを得なくなり、当事者として腐の抱える問題を感じるようになった、、、ような気がする。それに続いて、またいくつかの問題が見えてきた。それは、腐(と外部社会と)のコミュニケーション空間が抱える問題だ。
以前私はこれは興味深い「注BLです」。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃないで「棲み分け」問題に触れ、腐当事者がコンテンツや腐コメを、「マナー」として自制・抑制することで(たとえ当人が意図しなくても)ヘテロノーマティブな要請に従うことになり、腐が名づけたホモエロチシズムがクローズドされてしまう問題を指摘した。(まあ、長いから本文は読まなくてもいいんだけど。というか、今から書くエントリのほうが無駄に長いのだけど。)
ここで私は、実際に現場にコミットする腐当事者(MADを作る人等)の視点はあえて語らなかった。なぜならあのエントリでは、「腐向けMAD」という現場において「棲み分け」が推進されている現状が“ホモエロチシズムの生存”にどんな影響をもたらすかを批評的に論じることが目的だったから。だから、当事者が「BL注意です」のように腐表現*1を自制・抑制せざるを得ない背景については触れなかったのね。
しかし、このエントリを書いたのをきっかけに、私は腐当事者の視点にも関心を向ける機会が出来たのね(というか当事者って私もなんだけどさw)。その中で「腐が異常に疎まれたり、性表現及び著作権など難しい問題を抱えている現状では、なかなか自由に立ち回れないだろうなぁ」と思いいたる。腐表現が外部にまで表出してくると、どうしても腐や同性愛に対して対立・抑圧的な社会や、著作権・性表現問題との衝突が起きてしまい、腐当事者並びにコミュニティ・マーケットが立ち行きづらくなり、腐文化が(多少なりとも)衰退しちゃう可能性があるかもしれない。「面倒くさい。やめちゃおう」とか「制限があるからあんまり活動的に出来ない」とかね。そう考えると、私自身もやっぱり「棲み分け」などの自制を考えてしまう。四面楚歌じゃないけど、結構問題孕みなのだ、この業界。
そういう当事者の問題を語らずにただ「棲み分けが『ホモ』を日陰にしまい込んでいる!」と訴えても片手落ちだったかもしれない。
では、どう語ればいいか。
しかし、皆さんもお分かりのようにこの問題は一筋縄ではいきません。私自身としては、「著作権もなぁ、もうちょっと合法的に二次創作出来る土台がほしいよなぁ」と思ってるし、「ホモフォビックな反応があまりにも“一般的な常識”“まっとうな倫理”としてまかり通っている上に、なんかよく分からん女性文化への攻撃があるみたいで、外部からの抑圧がどうもフェアじゃないよなぁ」と感じている。けれど、具体的な「こういう対応をしてゆくべき」ってビジョンがありません。だから、せいぜい出来るのは、不当な抑圧に対して「それってどうなんよ、フェアちゃうやん、もっと違うコミュニケーションのやり方が模索されてもええんとちゃうのん?」と発言していけたらいいな、と思う。では、実際にソレを行ってみようと思う。


http://d.hatena.ne.jp/gossi/20080914


まあ、私なんかは「不特定多数の他人になら、むしろ嫌われていたほうが居心地よさそうねぇ」とか思っちゃうほうだから、この方の論旨は私には元より縁遠いものに映るんだけれど、ソレはともかく。語る前におさらいするが、そもそも私が「棲み分け」などの『自制・抑制』に関して問題だと思うのは、それが「荒らし対策・自文化の自衛」というお題目から行われているのではなく、「マナー」として行われているのが根本的な問題だと捉えている。なぜか。ソレはこういう理由だ。

そんな訳で似た字面でありながら異なる行為性の「注意書き」なのですが、私は「ホモ」を日陰にしまい込むような、そんな前時代的な行為に共感はしないのです。誤解して欲しくないのだが、私は「棲み分け」そのものじゃなく、「それが公序良俗に反する」という理由から無闇に内側にしまい込むことに何かしらの問題性を感じるのだ((ていうか、私だってタグで腐向けを作ってもらってた方が検索に便利だし「棲み分け」を否定している訳ではないのよ。利便性のための「棲み分け」と特定の欲望のクローズドを良しとする「棲み分け」では、行為として性質が異なる。))。
これは興味深い「注BLです」。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない

この、「マナーとして」抑制することと、「荒らし対策*2として」自制することの違いに注目してほしい。前者はそれを規範として位置づけるので、逸脱した際の制裁が待っているという、ある種オブセッションな機能を持つ。かわって後者は、前者に同じく表現に一定の制限を設けるが、まず目的が違うので、逸脱して制裁を受けたときに制裁を自らが正当化するとは限らない立場であろう。この立場であれば「仕方なく自衛として腐コメ自重や検索避けをしたけれど、だからってそれが正しいとは思わないし、意見の違う人にまで強制・要請はしない。」と言っても、言論と行動に矛盾はないはず。
ここらへんが先のエントリで私が書かなかったことです。どちらも当人の意図に関せずヘテロノーマティブな規範に従うことになるけれども、しかしながら前者と後者ではロジックとして全然立場が違うのだ。本題に移る前に、このことを忘れないでほしい。


前置きが長くなったが、では、TB先の文章を見ていこう。

「一般の人」に嫌われないために

腐な話題を腐の集まるコミュニティ以外でするのはやめましょう
人前で、という言い方を避けたのはむしろ腐った話どんとこい、大歓迎!な人たちもいるからです。

ただ、いくらそういう人たちが集まっていたとしても第三者に自分達の会話が筒抜けになってしまうような場所ではやはり会話は控えるべきではないかと思います。嫌がられたくないなら。

このように、gossiさんは明白に「嫌われたくないなら、腐コミュ以外で腐表現は控えるべし」と主張する方だ。同時に、「腐な話題どんとこいな人」と「一般人」の間には距離があるようです。*3一つ一つ意見の内容を見ていこう。

特に興味ない人、苦手な人に無理やり話題をふるとか間違いなく嫌われます。

たまーに「腐だって立派な趣味なのになんで話してはいけないの?」と言う人がいます。

違います。立派な趣味だと貴方が思っているならば、だからこそ軽々しく人前で話すべきではないのです。

そもそも腐コミュ以外で腐の話題を振るにしても、「苦手な人」に「無理やり話す」といった不条理な方法以外にもやり方は色々と考えられそうだけど、「立派な趣味は軽々しく人前で話してはいけない」という意見は、…ちょっと聞かない。

そもそも趣味の内容にかかわらず、きちんとコミュニケーションしたいなら相手の興味の無い話題や今の話と全く関係ない話題を降るべきではありません。
映画について楽しく会話していたところに突然別の人がやってきて宇宙の膨張の話をされたって迷惑なだけでしょう。

無関係な(興味の無い)話題でそれまでの楽しい会話を遮られたり、いわゆるKYなことを言われたりされたら嬉しくないでしょう。

そもそも人と興味のある話しかしない事が「きちんとしたコミュニケーション」だとは思え無いのだけれどそれはともかく、ここらへんを読む限り、どうも一般論としてのコミュニケーションスキルが議題だと読める。(にしても例えがいささか極端では。

たまに自分が腐った話をしたからダメだったんだと勘違いする人がいますが、根本はそこではありません。空気の読めない話を突然会話にねじこんだから嫌がられたのです。

もちろん、興味のある話題で遮られたか苦手な話題で遮られたかで相手の反応が変わってくることはあると思います。が、それが「まっとうな趣味」であっても、嫌いな話題だったりKYだったら嫌がられるのは同じこと。

オタクがウザがられるというよりはオタクが興味のない話をおしつけてくるからウザがられる、なのと同じです。
【黒字部分引用者による】

とあるように、gossiさんは腐が嫌われる背景を差別的な嫌悪感によるものではないと勝手に解釈し、断言している。曰く、「腐だから差別されたわけじゃなく、話題の振り方がまずいのだ」ということらしい。でも、それだと“基礎的なコミュニケーションスキルの問題”な訳ですから、「KY」バッシングの理由にはなれど、「腐コミュ以外で腐の話題を振るべきではない」ことの根拠にはならないんですが、そこら辺どうお考えなのでしょう?しかし、根拠不明のまま議論の正当性を補強する次の話が提示されます。以下に引用。

公共の場所での会話がNGなのは、それらに加えて意外と他人の声は聞こえてくるものだからです。

電車の中で、本人達は楽しくおしゃべりしている「だけ」のつもりでも周囲にまるぎこえ、うるさくて眠れたもんじゃない、仕事の打ち合わせもできない、迷惑な集団ってたまにいます。

内容もさることながら、「公共の場所ででかい声で話す」のが迷惑なのです。

これも何だかおかしい。それなら、腐のコミュニケーションなんか最初から議題にあげなくても「人前で大きな声を出すな!」で済むじゃないですか。しかも「内容もさることながら」って、「やっぱり腐の話題だと叩かれやすい」って認めてるんじゃないのか。それならなぜ、腐だけが過剰に迷惑な主体であると決め付けられなきゃいけないのか。

ファミレスでBLの話するなよ、ウザい、という意見をたまに見かけますが。

それってつまりBLの話をしていると分かるくらいのでかい声で話していたってことです。

根本はそこなのです。どんなに真面目な内容でもそんな大声で話されたら周囲の迷惑です。

じゃあ、静かにしゃべればいいじゃん。

なら静かに話せばいいじゃん、と思う人もいるかもしれませんが静かに話しているつもりでもテンション上がって声が大きくなったり、人が少なければその分声の通りがよくなったりします。特にオタクは興奮したら声がでかくなる傾向が強いです。

無意識のうちに迷惑をかけてしまう可能性がある限り、控えた方が無難なのは言うまでも無いでしょう。

えー、それはこじつけ過ぎでは。オタクじゃなくても口でしゃべる人なら大抵が興奮したら大きな声出しそうだ。


思うのですが、なぜ腐だけがこんなにも慎重にならなきゃいけないのでしょう。たとえば私が枯れ尾花のことが大好きで友達とファミレスで大声になり過ぎない程度の声量(ってどの程度ですか?)で話していたとする。「枯れ尾花マジパねーーーっ!」「あのしなり具合、ヤバくない!?」。そこで隣の人から「ファミレスで枯れ尾花の話題なんかしてんじゃねーよ!!」と言い出しでもしたら、私は「はあ?なんで私があんたの聞きたくない話題をわざわざ控えてやんなきゃなんないのよ、あんたが聴かなきゃいいだけの話でしょ、そんなに枯れ尾花の話題が嫌いなら、出て行けば?」と言うかも知れません。(嘘、私はもっともっと温厚です)
その場合、「迷惑」を被ったのは相手ではなく私。まあ好きじゃない話題を聞いて不快というなら気持ちは分かるけれど、なんで他人が聞きたくなかったら迷惑行為をしたことになるのか分かりません。それが迷惑行為だったら、大抵の人が迷惑行為をしてることになるのだから、腐だけがどうこう言われる筋合いはナイ。腐だけに「自重!」と言いたがる迷惑な集団ってたまにいます。

何れにせよ、それが腐った話題だとしても、大して性的でもない内容ならそれほど責められる謂われはないでしょう。もしかして「ジャムプの漫画って腐向けが多いよねー」くらいで「公序良俗に反する!」とかいちいち責め立てられるのかしら。その場合、私なんかは「下らない」と相手にもしませんが。


そしてgossiさんは『腐を「ひけらかす」のはやめましょう』と訴えかける。

話の流れで自然にカミングアウト、ならいいですが、自分から腐女子であることを無駄にアピールする必要はないでしょう。自己主張の強い奴だと嫌がられる可能性が高いです。

別に腐属性の話でなくても、無駄に自己主張が強いと嫌われることが多いです。

各所で嫌がられる「私腐女子だけど〜」が嫌がられるのもカミングアウトする必要がないのにわざわざ言っているから嫌がられている場合が多いのではないでしょうか。
【黒字部分引用者による】

ここらへんまで読むと当ブログの読者さんならデジャブを感じるかもしれません、特に黒字部分。はいそうです、これってオープンリーなクィアがストレートに言われがちな文句と同じなんです。
ストレートは、“自分たちのセクシュアリティを表明したり話題にする自由”を特権的に得ている事実を棚に上げて、クィアセクシュアリティの表明・表現は嫌います。「そんな話は個人の話だから公でするものじゃない」「その趣味が悪いとは言わないけど、わざわざ言う必要はない」、とね*4。そういう人は基本的に異性愛・生物学的性別を「標準で生物として当たり前に与えられた機能(公)」と捉えて、それ以外の性を「個人の趣味(私)」に位置づけ、クィアを私的な領域に閉じ込めたがる。…クィアがコミュニティの外に出るのを拒むんだ。そうして性的マジョリティに都合のいいシスジェンダー異性愛中心社会が出来る訳だけど、これってかなり不当な抑圧なんだ。そして、そんな不当な抑圧を強いているくせに「あなたのコミュニケーションが無作法だから」「世間体が悪いから」ともっともらしい欺瞞を語って、マイノリティの存在と居場所を奪っていく。そんな出来事がクィア周辺では(も)よく起こるんですね。*5


本来、腐った話題が一般の人に日常会話として受け入れられてもおかしくなさそうなものなのに(!)、何故か腐であるというだけで他よりも過剰に沈黙を求められ、それをしなければ「わざわざ言う必要の無いことをした」と見なされ、迷惑な主体として叩かれる。
で、このような現状があるにもかかわらず、gossiさんは一方だけが沈黙することを良しとしている。もちろん、「こうしたほうが無難だ」とアドバイスすることと、「沈黙しなければ制裁を受けても自業自得」と脅迫することの間には距離がある。けれど、マジョリティからの抑圧がある中でマジョリティの不当性には目をつぶり、マイノリティにだけ沈黙の要請を行うのは、それ自体が暴力的であり、どこか自業自得という論調に親和性があると私は感じるのです。
ここでtummygirlさんのイラン人青年の強制送還について書かれた文章を挙げてみたい。(:注意←は、命に関する切迫した問題なので、本来同列に置く事は不適切ですが、沈黙の要請と行為の是認という「後押し合いの構造」の点で少なからず似た問題性が伺えると思うのです。繰り返し書くけれど、しかしクィアの処刑拷問と腐バッシングの問題ではあまりにも切迫度に差が大きいので、二つを無闇に同列に捉えるべきではないことをここに明記します。)

それらの論調と「あからさまな同性愛行為は処刑に値する」という発言とを同じだと考えるとすれば、それは余りにも乱暴です。こっそりひっそりしていれば危険は避けられるよ、と論じることと、こっそりひっそりしてなければ処刑されても当然だ、ということとの間には、もちろん違いがあり、その違いに命がかけられている以上、それはとてつもなく重大な違いです。にもかかわらず、このようにして並べて見た時に、その二つの論調がその根底においてどこかでつながっていることもまた、明らかです。
前者の「発言」(ひっそりしてればどうにか生きていける)が後者の「行為」(拷問/処刑)を最終的には是認し、後者の「発言」(ひっそりしていなければ処刑=ひっそりしていれば処刑しない)が前者の「行為」(強制送還)を正当化する。そこにあるのは、互いの発言によって互いの行為を見逃しあい後押しし合う構造です。そして何よりも腹立たしくそして悲劇的なのは、その見逃し合いと後押し合いとが、特定の個人の生命や安全、あるいは基本的な安心に対する切実な脅威として集約され、具体化されているのだということです。
その発言がどのような行為となって誰を脅かすのか:イラン人青年強制送還をめぐって - FemTumYum


時折、「隠れてさえいれば問題はおきないのだから黙っているべきだ」という、「棲み分け」などの要請をされる腐。さらに、コミュニケーションスキルには予め腐表現の自制が盛り込まれているというこの現状。ここでは「隠れ腐女子」という名前が象徴的ですが、腐またはクィアな主体は、えてして自己表現の自制を求められ、クローゼットに入らなければ制裁が加えられるというリスクを負わねばならない。

gossiさんのエントリでは、↑のような要請とどこかしら繋がった、もしくは相互補強するロジックが見受けられます。

趣味の合わない人の前ではBLの話をしない、第三者が出入りするスペースでBLの話をしない。

結果、そのような趣味があると周りに気付かれない。それだけの話です。無理やり隠そうとせずとも、円滑なコミュニケーションを追求すればそうなります。「相手の嫌がることはしない」ものです。

とあるように、自己の腐ネスを自由に表明・表現すると、ただそれだけで問答無用に「相手の嫌がること」をしたと見なされるのが、腐の現状でしょう。しかも一方だけ沈黙する事が「円滑なコミュニケーション」とまで言われかねないのだ。*6


gossiさんは腐女子が自分の趣味を公に語ることを「無駄だ」と言うけれど、規範的でない属性を語ることを一方的に「無駄だ」と断じてしまう事は、「なぜ公に語ることが難しいのか」という問題を不問にするし、抑圧的だと思う。
実際、ファミレスで話してるだけでも何故か疎まれがちな腐表現ですが、どうして嫌われるのかを考えれば、やはりそこには腐への差別的な嫌悪がある可能性は否定できません。だって、コミュニティ内でしか好きな話題が出来ないって、考えてみれば異常じゃないですか?


また、gossiさんは検索避けに関しても意見を主張されていますが、

例えば 検索避けを入れよう のバナーなど、強制ではない、としておきながら「全てのサイトに」「気持ちよくネットができるように」といった文面を使って「検索避けがないと気持ちよくネットが出来ない」と誤認させるような言い回しをするのは不適切ではないかと思います。

という言説が、そのままご自分に返ってくる危険にお気づきではないのでしょうか。あなたは一見して隠れることがマナー(規範)ではなく「穏やかにすごすための提案」と言うけれど、「必要が無ければしゃべるべきではない」、それなのに「隠れずにいたら無意識の内に迷惑をかける可能性が高い」と根拠も無しに決め付けるのは、普通に読んだら脅迫的に感じますよね?
この意味においてあなたがおっしゃってる内容は、「初対面の人間に理不尽な命令を」しているのとそう大差ないのではありませんか。

最初から、腐への嫌悪感を「差別ではない、腐が悪かったのだ」と断定しつつ、隠れていなければ無闇やたらに腐のコミュニケーションスキルを疑ってかかる。*7
それから私見なのですが、「話の流れならカミングアウトしてもいい」とおっしゃるけれど、その基準を決めるのも「一般人」になってしまうのではないでしょうか。昔からクィアよりストレートの好悪の方が優先されてしまうように。

…そもそも、なぜ腐女子が「必要が無ければ」自分の趣味を語っちゃけないのか、分かりません。嫌われるから、と言いますが、ではなぜそれくらいでいちいち嫌われなくてはならないのでしょう。そうした語りづらい現状こそが、現在腐女子(というか腐当事者)が受けている“不当な抑圧”ではないでしょうか
あなたはもっともらしいシチュエーションだけを想定しますが、枯れ尾花の例のように、一般人から謂われ無き自制を迫られる状況をなぜ想定しないのですか?

クローゼット大いに結構ですけれど、コミュニティ以外では語りづらいといった不当な抑圧を巧妙なレトリックで隠蔽・正当化しながら「隠れないなら制裁が待っている(「嫌われる」)」と語るのはやはり同意できません。あなたは「むしろ腐嫌いは多いので」と認めながらも(!)、「ひけらかすのはやめましょう」と言う。今回のロジックの問題点は、(不当かもしれない、にもかかわらず)抑圧に対抗するのを一方的に否定しながら(<1)沈黙だけを肯定する(<2)と言う二段構えにあります。


マイノリティとマジョリティ間のコミュニケーションでまず大事なのは、どういう状況でどういう表現が認められるのかを、公平な視点から考えていくことではないでしょうか。また、認められないならなぜソレが認められないのか、きちんと考えるべきでしょう。一辺倒にマイノリティだけに沈黙を強いるような言説では、そうした建設的な議論は出来ないように愚考します。



最後に再び私が書いた先のエントリから。

ともあれ、どの「ホモ」がどこに棲むことを良しとされるのか?そして、実際にどの主体が棲み分けを行っているのか?という問いかけがあることに変わりは無い。この二つの注意書きや、ゲイアイデンティティによる「ホモ」などは、これからも在り処を問われつづけるはずだろう。

http://d.hatena.ne.jp/nodada/20080401/p1

この世には「在るべきではない」とされる存在が居ます。何がどのように在るべきか、ただそれだけの事柄すらも重要な議題となっているのだと実感します。それでも沈黙すると言うのなら、もう一度立ち止まって、存在の生存可能性を問い直してからでもよいはずです。

*1:ま、ここでは広く見て、「二人は恋愛だ」などと読むまなざしや、あるいは作品発表にいたるまでを「腐表現」と言い表しています。以下も似たようなニュアンスで論じていきますのでご注意。

*2:というか、よく言われる「自衛」全般のことね。

*3:ところで突然わたくしゴトなのだけど、私のある友人はちっとも腐趣味を持っていないけれど、私の話に興味を持って聞いてくれたりします。

*4:言わないと勝手にシスジェンダー異性愛者だと決め付けるくせに、ですよ?

*5:とは言え、クィアと腐の背景には大きな違いがあります(いや、腐もクィアなのではないか、という議論はありますけれど、とりあえず便宜的に分けますね。ってそれも不当だわね、ごめんなさい。)。腐は別に「自分が腐だ」って明かさなくても深刻な不利益を被るってことがナイ。クィアの中でも、「言わなければ平和に暮らせるのだから」と考えて、カミングアウトなどコミュニティ外で語ることを自制する人もいる。けれど、彼彼女らの場合、言わなきゃ望まぬ結婚を勧められたり、恋人が危篤状態だろうが何だろうが友人の振りをしなきゃいけなかったりする(<たぶん、言っても何も改善されなかったりするけど)。それが大きな違いだ。だけども重要なことに、腐もクィアも、何のかんのと言い訳をされて、差別的な状況を正当化されやすい共通性がある。

*6:というか、叩きたがる連中になると、どうせ隠れてたって文句言うじゃんねー?そうそう、今日ニコ動見てたら驚いたんだけど。腐向けって表記されてるMADでも「腐女子自重しろよ、ウザい」ってコメがいくつか付いてたんだよねw腐コミュで腐コメするのも嫌って主張できる神経はすごい…。

*7:もっとも、「趣味の押し付けが無ければ、理解のある人なら人格だけでも認めてくれるだろう」と一応の保留をつけていますが、しかしなぜ腐だけが“理解を得るべき主体”扱いされなければならないのです。「一般人」が(沈黙を)「押し付け」ているかもしれないのに。そこまで“腐表現は迷惑行為足りうる”という前提を誇示する理由が私には見つかりません。