羅川真里茂の『ニューヨーク・ニューヨーク』は「やおいBL」か?【末尾に補足あり】

ごめん、今年中には書くからあと少しまってください。すいません。


ニューヨーク・ニューヨーク (1) (白泉社文庫)

ニューヨーク・ニューヨーク (1) (白泉社文庫)

ニューヨーク・ニューヨーク (第2巻) (白泉社文庫)

ニューヨーク・ニューヨーク (第2巻) (白泉社文庫)

結構あちこちで聞いた気がする議論で「羅川真里茂ニューヨーク・ニューヨークはBLやおいかどうか」ってのがある。

でも、私としては、それは違うと言いたい。その理由は定義問題などではなく、私の政治的配慮として、BLレーベルと銘打っていないレーベルでの作品をBLやおいとするのは、問題があると考えるからだ。
この社会で、男性同性愛やソレに似たテーマ・モチーフを扱った物語は少ないけれど、あらゆるジャンルにおいて見られる物語だ。なのに、それらまでも(特定のジャンル名とされる)「やおいBL」であるとするならば、各業界内で生きるあらゆる男性同性愛表象を十把一絡げに「腐業界のみ存在するもの」と位置づけてしまうからだ。
ニューヨークニューヨークの場合、「少女漫画」界という業界内で生きている男性同性愛を「なかった」ことにしてしまうのだ。すなわち、少女漫画界に対する歴史修正主義である。(追記:ただ、NYNYは一度青年誌ジェッツコミックスとして出されてるんですよね。この点も加味してNYNYの表象を取り扱うべきだと私は考えます)
少女漫画界では少女漫画界の男性同性愛表象があり、青年マンガには青年マンガの以下略。それらをまるで「やおいBL」という独自性のみで語り尽くせると思い込むのは、各ジャンルへの植民地化で冒涜だと思うのだ。・・・たぶん、一部の少女漫画オタクなどは怒るんじゃないかな。  

ジャンルには、それぞれに固有の歴史と方向性があり、別々の文化として社会内に機能してる。それを同じ定規で一律に測れる道理はないし、また測るべきでもないと思う。

しかし、それでも「これは私にとって少女漫画ではなくやおいBLなのだ!」と言いたい人はいると思う。
その人はおそらく「ジャンルとしての」やおいBLを言っているのではなく、心の中で思う、「自分のやおいBLとは?」的観点で言っているのだと思う。  
それならそれで、解釈は個人の自由だし、「少女漫画でやおいする」といった批評行為として積極的に認められるべきだと思う。つまりその行為は「少女漫画をクィア批評する」と同義であり、“やおいBL的な(腐オタとしての)感性で少女漫画を批評する”ことを意味するのだろう。
それは文化の植民地化とは区別できると私は思う。各ジャンルには歴史などの固有性はあるけれど、テキストに対してどのような「読み」が出来るかは、正に読み手次第だ。それは単純に「作品が持つ意味とは一つだけではない」ことを指し示す。
しかし、だからと言ってそのジャンルたる所以を無視して、「これは○○のジャンルとして位置づけるのが正しいのだ」と一方的に語ることは、文化に対して横暴だ。

 
更に私の立場から言わせてもらえれば、その行為は、ゲイバイクィア男性などの当事者からあらゆる同性愛表象をかすめ取り、まるで我が物顔で自分達の文化内に占有するのと同じだ。私達当事者(の一部)が、腐業界だけでなく、あらゆる空間での生存を望んでいると理解するならば、「男性同性愛表象はあらゆる空間で存在してる」ことを認めるべきだ。もちろん、私は腐業界にも男性同性愛表象が生存していることを喜んでいる。が、もし私達の表象が、一部の空間でしか認められていないクローゼットに似た生存状態にあるのだとしたら、あるいはそのように位置づけられるのだとしたら、それは憂慮されるべきことだと思う。そしてこの現代、そのような位置づけ(言説の政治)は十分に可能だと実感する。特に、日本での「男性同性愛と言えばやおいBLのことだ」と言わんばかりの風潮を見れば、尚のこと実感する。


表象を独り占めするような言説の政治は、多方面から批判されるべきだと考える。
ともあれ、「やおいBL」という言葉がその発生からして混沌としていた経緯も考えるべきなのかもしれない。今回の私の議論が当初の歴史観などで爪の甘いものだとするなら、どうぞご指摘いただきたい。



補足とコメントのレス:

id:rossmannさん、大変レスが遅れて申し訳ありません。批判的なコメント本当に有難うございます。おかげで私自身も考えを深められたと思います。至らない部分もありましたので、補足としてもレスポンスさせて頂きます。以下にその点を。


まず2点確認しておきたいことがあります。
1.おそらく私とrossmannさんの議論はそれほど対立していないと思います。
2.私の議論はヤオイ・BLに特化したものであり一般論ではありません。

1点目ですが、私は『NYNY』にやおいネスを見出す読解を否定していません。「少女漫画をヤオイする」ことは植民地化と区別できる、と書きましたが、それはrossmannさんのように『LOVELESS』『NYNY』がやおいの潮流を汲んでいると判断することも肯定します(無論検証はどれにおいても必要ですが)。・・・ただ、留保が必要だと考えます。(後述)
2点目。ブクマでも「ラノベの越境論を思い出した」という感想がありました。…私は所謂「あ略」「ラノベ越境論」がどういった論争なのかは知りませんが、ラノベ論争と私の「やおい・BLの植民地化」議論は、同じような背景を持った議論なのでしょうか?もし違うのであれば、並置は不適切です。
まず私の前提としては、「やおい・BL」というタームが現在日本において男性同性愛を代表*1するまでに至っている…という認識があります(この時点で異論はあるかもしれません。ただ私見では、本当に腐業界以外の日常においても、現在「うわっホモかよ!」が「うわっ生BL!」にスライドしてると感じる今日この頃)。
このような背景において、『NYNY』を「やおい・BL」と位置づけることは、それだけで他の言説とは違う政治性を持つだろうと判断します。とは言え、文脈によって言説の政治は移ろいますので、最初から「それはやおいだ」「と言ったから」だけの理由で植民地化に寄与するとは限りませんでした。説明不足ですいません。
厳密に言えば、「NYNY(少女漫画)はやおい・BL」という言説は、ある意味その政治性により「植民地化」として機能する危険度が比較的高い、と言えるでしょう。では、どのような文脈ならば植民地化の暴力性が見られるのか?

rossmannさんはかかる言説が腐文化否定のカウンターだとした上で*2、こう仰います。

またここでの「それはやおいだ」という言明は、当該作品を少女漫画ジャンルが生み出したことを否定してはいないわけです。しかし、たとえそれが少女漫画系のメディアで発表されていたとしても、そのことはその作品がやおいジャンルの系譜に位置づけられることと矛盾しないはずです。

ここでは、発言者の動機が文化のジャックにあるのではなく、やおいフォビアに対抗する理由から始まっており、ゆえに少女漫画業界で発表されたこと自体は否定していない、そのため植民地化では無いとしています。

なるほど、少女漫画レーベルであること(あるいは青年誌コミックスであること訂正コメント欄で「ジェッツコミックス」は青年レーベルを指すものではないとご指摘いただきました。訂正します。)をきちんと評価するならば、私も植民地化ではないと判断できそうです。しかし、コレにも一定の留保が必要だと考えます。

植民地化とする理屈は簡単です。現在男同士の恋愛を主眼にしたジャンルは「やおい・BL」が最大級だと私は認識しますが。その現状で、稀に出た少女漫画内の男性同性愛を「少女漫画として」評価する声が仮に「やおい・BL」にかき消されて優先される様な事態があったらば、それは結果的に植民地化していることになる。という理屈です。


ここで私の思考を解説するために、rossmannさん言う「密接関連性」を便宜的に<潮流>と<正典>で分けてみたいです。(あんまり良くない分け方かもしれないが、便宜的に。)
私定義で言うなら、rossmannさんの「作品を貫く美学やジャンルの特性」から作品を「やおい・BLだ」とする行為は、「やおい・BLでしかない(唯一無二の正しい解釈=正典化)」と定義しない限り、作品が汲んだ一部の<潮流>を見出しただけと捉えられます。
しかしながら、「それはやおいだ」という証明に「<潮流>を汲んでいること」を根拠にする等の行為がより優先されるにつれ、いつしか<潮流>の意味をズラして行き、「少女漫画ではない」という捏造の<正典>を作り出してしまう政治性(リスク)こそが、私の言う植民地化なんですね*3
故に私は、少女漫画と銘打たれた『NYNY』の男性同性愛表象を、まずはきっぱりと「少女漫画」として正当に評価することから出発しなければならないと提言するのです。
これは仮に<正典>なるものが「在る」と考えるなら、の話ですが、往々にして<正典>の捏造は起こり得ます。(後述)

もちろんrossmannさんがここで『NYNY』の<正典>を「やおい・BL」として書き換えるつもりが無い事は、一連の趣旨からも伺えます。しかし、rossmannさんが肯定したカウンター言説であっても、「少女漫画から男性同性愛のテーマが出た」事実を軽視した場合、『NYNY』の男性同性愛を「少女漫画」から引き剥がしかねない、と私は危惧するんですね。
そしてそれは家系図の捏造に等しく、“作品の特性と作品が産まれる背景”に「やおい・BL」の<潮流>を見い出だす行為から逸脱する。すなわち“少女漫画だからこそ産まれた表象”を「やおい・BL」の影に覆い隠す言説が、いつしか聴衆と共に『NYNY』に対する「やおい・BL」の正典化を編み出すのではないか、と。(あくまで可能性の問題とも言えますが、看過してはいけない可能性だと私は判断します。)

これは腐側(及び業界に便乗した者達)によって男性同性愛表象を当事者から奪い取れる「やおい・BL」というタームだからこそ起こるリスクだと考えます。更にもうひとつ。(「少女漫画」等にもそういう部分はあると思いますが、)元より、「やおい・BL」はそれ自体がJUNE・耽美・少年愛・ショタなどと分かち難い形でプロデュースされてきたような気がします(…たぶん)。いわば、「やおい・BL(特に「やおい」)」自体が混沌とした名称ですよね。その曖昧模糊ゆえに各ジャンルを不規則に横断し得る厄介さがあるかと。(コバルトもその一例かな?)
そこにも、<正典>を作って表象を自分側に取り込む可能性が含まれると私は思っていますが、いかがでしょう?*4

確かに一般論で言えば定義など常に便宜的ではあります。しかし、にもかかわらずこのタームには、まるであらゆる男性同性愛の表象が「やおい・BL」に還元出来ると錯覚させる行為性すら、ある。男性同性愛について、常に「やおい・BL」を参照しなくても良さそうなものなのに、です。

というか、最近堺市図書館問題で、部外者からすれば少女小説もBL小説も同じだと思われかねない現状が確認されました。あの事件は「やおい」定義の問題性をよくよく表していると思います。(これは、文化の歴史背景を顧みなかった私達腐当事者とソレに便乗した者の責任ですね)

また、

やおい業界には「リアルな」アメリカの「ゲイ」の文化を輸入するような仕事をした人たちもいたわけです

といった背景にも注視すべきと同意いたします。が、このような翻訳文化ですら十把一絡げに「やおい(時にBLも)」とする言語体系(が有るんですよね?)訂正:rossmannさんのコメント*5を参照されたい)は、あまりに混沌としていて、様々な弊害を及ぼしたと思わざるを得ません。このタームが持つ汎用性には一定の注意が必要ではないかな、と…。

<潮流>が「密接な関係」として時に<正典>を作り出すのに加担し、<正典>が<潮流>の意味をズラして証拠だけを引用していく。そのような行為性が、とりわけ「やおい・BL」タームにあると考えることは、それほど愚かじゃないと私は考えています。


…さて、rossmannさんは、「レーベルによる区別とかは、企業がとりあえずやってみたというにすぎない」と仰いますが、果たして一個のジャンルの看板である「レーベル」を看過してよいのでしょうか?
男同士の恋愛をプロデュースする最大級の市場が有ったのに、あくまで『NYNY』がBLレーベルではなく「花とゆめ」「ジェッツコミックス」から出版された歴史的事実を考えるならば、まず一番に確認すべきはレーベルだと私は判断します。
また、現在『NYNY』と対称に位置づけられるようなBLレーベル作品はあまり挙げられておりません(私が知らないだけであるかもしれませんが)。…実際『NYNY』にはBLレーベル内でそれほど多く描かれなかった部分もあって(ひとつのカップルの一生を描くこともBLレーベルではあまり無いし、扱うテーマが多岐にわたることもあまり無い)、少女漫画と通底する部分と同様に、差異も確かに存在します。ゆえにレーベルの差異を虚構としては捉え難いはずでしょう。
ここを看過するのであれば、正しく私言う<正典>としての「それはやおいだ」言説に加担するリスクが生じてくる。このように判断いたします。(無論正典など無いとする立場もありえますし、それが妥当とも思います)

それでもなお、前提として少女漫画とやおい漫画ジャンルの区別さえ定かでないのに、さらにこうした歴史的な様々な連関を無視して純粋少女漫画として『ニューヨーク・ニューヨーク』を位置づけたい少女漫画読者がいたら、私は「そんなバカな」というしかないですよ。

はい、『NYNY』が「やおい・BL」の潮流を汲んでいる事実について私も認識を疎かにしていて申し訳なかったです。これもある意味正典化のひとつだと反省して、趣旨に同意します。

ソレと同時に、rossmannさんには是非とも「それはやおい(もしくはBLも)だ」とする言説のリスクに同意して頂きたい所存です。峻別が難しいとしても、そこにある差異を明らかにする作業が意義を持つ場面もあるはずです。事実として「やおい・BL」は<正典>を作り出す行為性を持ち合わせております。このことに留保して、件の言説を注意深く観察する必要がある、と考えます。あるいはやおいネスを読み取る場合もそうですが、少女漫画レーベルから出された背景を看過しないと同時に、「低通する、潮流を汲んでいる」といったニュアンスが正典を作り出さないよう配慮が重要になるかと。(もっとも、留保の文脈を読まれない場合は、発言者でなく聞き手に問題があると思いますが)
この点は私自身自戒を込めて。。。


あと。

nodadaさんの想定している問題の言明とはズレがある気もするのであれですが

はい、そこらへんは拙文が至らなくて、rossmannさんのお立場を不用意に植民地化の立場にしてしまったこと、お詫びいたします。


……長くなりました。かえって混乱させてしまっていたら申し訳ありません。とりあえず私もここらで退散します。
それでは、コメント有難うございました。

*1:<あ、「表象」には代理代表といった意味がありますが、ここでの「代表」のニュアンスは、単純に「男性同性愛を語る上で現在席巻している語彙」という程度の意味です。

*2:←ちなみに私も、一部でカウンターとして出されたこと自体は一応存じ上げております。そこに配慮して、上記本文では腐文化に男性同性愛表象があることに喜びを示しています。

*3:たとえば「少女漫画なのにBL・ヤオイ要素が強い」みたいな評価もソレに該当します。男性同性愛自体が「=やおい・BL」ではないのだから、少女漫画から男性同性愛が描かれたなら、まずは「少女漫画内の男性同性愛である」と認識するのが本来のはず。更に、その認識が「やおい・BLである」事よりも優先されない理由が、考えられない。

*4:また、カウンターとしての発言者が青年マンガに同じ言説を繰り返さないとしても、現在男性同性愛表象を脊髄反射的に「やおい・BL」と名付ける風潮は、青年マンガ業界とて必ずしも無関係ではないと憂慮するのです。

*5:http://d.hatena.ne.jp/nodada/20081201#c1228612068