「ゲイだからじゃない、お前だから好きなんだ」をクィアしたいのですが、どうすればいいでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20081122/1227366828

 ただ、「表象暴力論」者の端くれ(笑)としては、コラム「TOPIC1 表現って暴力?」には少し疑問が残りました。「ホモだからじゃない、おまえだから好きなんだ」という、やおい・BLにおけるゲイ差別性の象徴のようになったセリフについて、無記名の筆者は、それはホモフォビアではなく、性愛全般への嫌悪が言わせるものだ、と指摘しています。やおい・BLの中で、ゲイ男性が、一種セックスモンスター的な、男なら誰でもいい、というような人物像で描かれたとしても、それは、ヘテロ男性を含む男性の性愛全般をそのようなものとして女性が嫌悪していること(「男って、女(男)なら誰でもいいの!?」みたいな感じ?)の現われなのだ、と。

 その筋道自体は、個人的にはうなずけるものです。しかしまず、おおかたの読み手・書き手の意識せざる共通了解が仮にそうだったとしても、現れた表現がホモフォビックに読まれてしまい、同性愛嫌悪を再生産しかねないことまでもは、否定できない。そして何より、上記のような正当化は、腐女子がひとり残らずそうだ(=そのように読む者にかぎり「腐女子」と見なす?)、とでも主張するのでない限り、正当化からこぼれ落ちる誰かを、必然的に生み出してしまうはずです。ひとりの受け手が、自分の読みとして語るかぎりでは誠実なものだとしても、「いい腐女子」と「悪い腐女子」の線引きを、意図せず行うことにならないでしょうか。腐女子の「多様性」を受けとめようとするこの本の作り手たちの立場を、それは裏切ってしまうように思います。

 自分の主張に沿わない読み方をする腐女子がいたとして、そのような読みを可能にした作品、そしてそのような作品を可能にしたジャンルをその時どう語ろうとするのか……とだけ問いかけてもいくらなんでも抽象的すぎますが、具体的な作品なり読みに直面した際、きっと問い返されることになるはずです。

ブコメでも書きましたが、そもそも「ゲイだからじゃない、お前だから好き」をホモフォビアだと批判する向きは、必ずしも担い手(読み手作り手)の深層心理など問題にしてなかったのでは?と思いました。“表現の”差別性ではなく、担い手の差別的心理を批判根拠にするとか、主張として弱いというかちょっと危ういですし。

というわけで、(今回の論理がどういった文脈かは知りませんが)正当化するにしてもこれは応答の方向がおかしいかな、と。まあ、仮に性愛全般への嫌悪がそこにあるからって、ソレを理由に、主体からホモフォビア存在の可能性を否定出来る訳ではないのですが、それはともかく・・・「ともかく」?

この手の言説は批判対応という文脈においては(m-aboさんが仰るような)内部抑圧に転じたり、あるいは抑圧自体を隠蔽するレトリックとしてしか有用ではないと思います。しかし、だからと言って分析する事自体を無駄だとは思いません。匿名の書き手さん↑とは別の方向性ですが、BLを読解したい私としては、男が男を愛することの理由に「お前だから好き」と言わざるを得なかった背景、キャラクタの深層心理を勝手に想像したい感じです。


そうそう、「ゲイだから好きなんじゃない、お前だから好きなんだ」の例とは別だったかもしれませんが、以前佐藤雅樹氏の論考をりょうたさんが取り上げていました。
ここでりょうたさんは佐藤氏言う「ホモフォビア」の批評性をより広い意味に解釈して、「『普通』ではないから、異端者扱いもやむなし」「露骨に嫌悪さえしなければ差別は無い」などと抑圧構造に加担し被差別者を周縁化する異性愛規範主義へのクィア批評、として解釈なさっている。すなわち、我々が内面化する異性愛規範の無自覚さを政治問題化する営である、と。

佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
以下は、現在論文が手元に無いので、孫引きです。

pp. 166-167.

 表現に置ける差別を考えるのは難しい。

 作品とは、発表されたときから一人歩きをしてしまうものだからだ。作者に差別的な意図があろうとなかろうと、結果的に誰かをおとしめる価値観に加担してしまうことはある。表現とは,大なり小なり社会的な影響力をもつものだからである。

 (異性愛者の)男が買うポルノグラフィが女性差別表現になってしまうのは、(異性愛者の)男と女の間に社会的な不均衡があるからだ。性の商品化自体が悪いのではなく、社会的な弱者(「男対女」という図式においては「女」)に性の商品化を押しつけてしまうからである。社会的に対等な者同士間で、相手の性を商品化しあうことが差別なのではないはずだ。
【中略】
 そんな中で、それが同性愛を描いたものだろうがそうでなかろうが、男同士が恋愛しセックスする表現物は、あきらかな混同を生む。「男同士」という型を使ったときからすでに「現実の同性愛者」と切り離しては考えられないのだ。「同性愛」という型を使いながら、「そんなつもりはなかった」などと言うのは、あまりにも愚かで無自覚な話である。

 「『純粋な欲望』としてのセックスではない」という言説もヘンだ。だから性差別なんかではない、と言いたいのだろうが、男と女の欲情のメカニズムが違うのは当たり前だ。ことはポルノかお芸術かの話ではない。「愛」だの「関係性」だのという口実があれば許されるという問題ではないのだ。自分より弱い立場の存在に、ステレオタイプを押しつけることが「差別」なのである。もう一度,自分たちが「男社会」から強制され続けてきたことを思い出したらいい。そして、女たちがポルノを批判してきた言説をふりかえってみればいいのだ。
【中略】
 「いい」作品とはなんだろう。それは、安直な「現実逃避をうながすもの」ではなく、「現実を生きやすくする作品」なのだと思う。

まあ女性に一方的な性の意味づけを行ってきたのは異性愛男性にとどまらないと思うけど(クィア男性も自分達クィアの空間で同じようなことして来たでしょ)、佐藤氏の議論は表現の差別性を考える上で示唆に富んでいると思う。


それでは、私が読み取る無自覚な差別性とは何だっただろう。
私が読むと「ゲイだからじゃない、お前だから好き」が伝えがちなニュアンスとは、なぜか「ゲイであること」が「彼を好きなこと」と矛盾もしくは齟齬を生む事実であるとするものだ。と同時に、当人達にゲイ・アイデンティファイする機会を捨て去らせてしまってるように、見える。*1

男同士で愛し合うけれどゲイではないとするキャラクターには、(私自身もゲイにアイデンティファイ出来なかったので)共感できるものはある。性的指向概念は必ずしも自己認識を正確に捉えるものではない。が、ソレを差し引いても、ゲイという名づけが彼らの恋愛・人生を“生きやすくする救い”として機能する道を初めから排除しているような感はあった。


「ゲイじゃないお!」のような表現が生まれた中で、なぜ彼らが「齟齬はあっても、あえてゲイを名乗ることで(共同体とコミットしたり、自分の不安定な存在を社会に配置出来て)生きやすくなった」という物語を、用意できなかったのか。
(無論、アイデンティティが問題化する社会自体が問題だが、)ソレを考える意義はあると思う。



そして、担い手が「なぜこのような表現が産まれたのか」を考えることで、差別性発見のみならず表現の希望・クィア性を見つけ出すこともありうると思います。


たとえば、前から私は「ゲイじゃない、お前がすきなんだ」を『未だ名前の与えられない関係・性愛』(あるいは「与えられているけど名前の認知度が低く、当事者がアイデンティファイできない関係・性愛」)として積極的に誤読(?)しています。ゲイレズビアンバイヘテロといった既存枠から重複しつつも逸脱した関係・性愛として読むことで、異性愛/同性愛が二項対立的ではないことに気付くテキストだと評価する。*2しかして同時に、それを非政治的意味合いの「純愛」「究極の愛」へと安易に昇華させず、あくまで「セクシュアリティジェンダー」という政治的土台に引っ張り出し、キャラクター(攻め・受け)を「自分達の関係・性愛を説明するための名前を社会から奪われた主体」としてまなざす。また同時に「彼らは一体どんな名づけの不可能性に追いやられているのか」という根本を読解すると面白いんじゃないか、と思います*3
もちろんそれは、今回の言説同様ホモフォビアとして読めるテキストの暴力性を看過しやすいでしょうが、それを最小限に食い留め、(究極愛だとか表象される)彼らの関係性をクィアすることが出来たら多少は有益かと思います。
今はその方法論を具体的に知りたい私です。

*1:ところで、「ゲイじゃない」の理由に「自分は、カジュアルセックスが出来て誰でもいいゲイではないから」みたいなキャラクタもいたみたいだけど、若手である私はあまりそういう作品を知らない。むしろ、「ゲイでいいじゃん」みたいなキャラクタも見かけるし。まあ、確かに現在のBLでも、ゲイキャラクタにはセックスモンスター的なのが少なくない気はする。

*2:その評価対象には、「俺は異性愛者だ!」と表明していないキャラクタをあえて異性愛者だと決め付けることで、彼らの恋愛を“異性愛者の”ホモ・バイセクシュアリティとして解釈することも含まれる。…よく「俺は異性愛者だ!」と表明してもいないのに「このキャラクタは異性愛者だ」と思い込む傾向はあるのだが、ソレは単純に恣意的だ。だが、その読みをすることで、「世の中の異性愛者って『ストレート』っていうより揺らいでる感じだよね」と解釈することもあり得るので、ちょっと面白くもある。

*3:その意味で永久保陽子/著『やおい小説論―女性のためのエロス表現』は政治的にも見えたのだけど、「第四のセクシュアリティ」論は、バイセクシュアルやその他の、異性愛/同性愛の軸だけで構築されないセクシュアリティを不可視化させており問題(そもそも彼らの経験を「セクシュアリティ」に配置すべきか、という問題もあるだろうけど、セクシュアリティの意味は私達の名乗りによって積極的に歪められてもいいと思う)。また、BLの一部が表象した恋愛を、それらセクシュアリティと対等に配置していたかも疑問だ。そもそもあの論文自体が異性愛主義的だったように思うんだけどね。つーか、同性愛者であろうとなかろうと、セクシュアリティと恋愛関係の「構成要素」は誰しも単一ではないし、「○○達ならば単一、○○だけは単一でない」とするのは本質主義性的指向概念で規定しづらい経験やアイデンティティは、『フジミ』等BLだけの専売特許ではないのよ。