制服という校則について補足、私以外のジェンダーに対する選択自由の保障。

不当なルールを守る義理はないので「ルールなんだから当然」は全然当然じゃないだろう、当然。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない
先日のエントリにこんなレスポンスを頂きました。ちょっと長くなったのでこちらでお返事。

うーん、私は制服はなくさなくてもいい(用意はしてくれると助かる。毎日私服を選べるファッションセンスもマネーも不足していた学生時代…)から、スカートとパンツの制服があるけど、どっちが男子用でどっちが女子用でという呼び名を撤廃して、どっちがどっちしか着ちゃいけないんじゃなくて、好きな方を選んでOK、ということにして欲しい…
中学の時はほぼ毎日ジャージ登校が許されてて楽だったなあ・・・

http://h.hatena.ne.jp/search-light/9234085767370001341

うん、そうですよね。勝手に用意しといてくれてあとはご自由にってスタイルのが、まだ理想的だと思います。それに制服憧れてる人もいるし、夢が保たれるのは私も嬉しい(しょせん私も並森中のブレザーカワユス派だし)。

まあそれでも、「お前は着るのか着ないのか、着ないならなぜ着ないのか」みたいな相互監視は生まれるでしょうけど、それこそ自治レベルで上手く制度が機能すればいいなと思います。

そう、結局学校のグラウンドと同じなんですよね。昼休みグラウンドで縄跳びしてもいいけど、別に昼休み縄跳びするのは義務じゃないよーっていう。着たい人は着ればいいけどーってのと同じで。その上で、なのですが。
 

スカートとパンツの制服があるけど、どっちが男子用でどっちが女子用でという呼び名を撤廃して、どっちがどっちしか着ちゃいけないんじゃなくて、好きな方を選んでOK

 
なるほど、そもそもセーラー服なんかも女性のものではない、と。それはこのジェンダー社会において必要な視点であります。ただね。たとえ校則として「〜は、男女どちらかの性別用だ!」って感じに呼び名を縛らなくても、どうしたって「ズボンは男のもの、スカートは女のもの」という観念は付いて回ります。この社会の現状として、解決策の見出しづらい難題ですね。それは学校だけでどうにかなる話じゃない。しかしながら、学校側にも追うべき負担はある。(後述)

さて。先日のエントリでは、私みたいな男女どちらでもない人視点を中心にしたせいで、「男としてセーラー着たい!女として学ラン着たい!」っていう異性装や、「女(or男)に見られるかもしれないけど本当は男(or女)だから、男(or女)の格好がしたい!」っていうトランジションについてあまり書けてませんでした。*1

が、性別別制服を一切導入しない限りは、つまり学校としてもジェンダー制度を自主的に導入する限りは、学校側に、異性装や 与えられてる性別とは異なる(けれど自分の性自認的にはマッチしてる)性別服装を、自由に選択できる安全を整備する責任が生まれてくると思います。実際にジェンダー付与されている制服を用意しといて、「あとは個人の自由なんだから何の責任もない」ってのは筋が通りませんからね。
 

確かに、着る着ないが自由である以上、私のような存在は“着ないことで”(一部的に)ジェンダー差別から逃れられます。が、男女いづれかの性自認がある者には依然として「着たいものが着れない」って不公平が残る。それはMTFFTM、あるいは(人によってはシスジェンダーかもしれないけど)異性装者に対する差別ですね。*2

ですから、公平な選択自由の保障が出来ないと言うなら、基本的に制服は導入しないのが無難でしょう。なぜなら、整備せず「シスジェンダーの同性装」だけに選択自由を保障しているのなら、それ自体が差別の助長ですからね。学校側が意図するとせざるとを関わらず。ちょっとソレは賛同しがたいですよね。
 

・・・うーん。そうですねぇ。「学校側だけじゃ異性装やTG・TSの性自認にマッチした服装などが保障しづらい」と言う状況で制服を作るなら、いっそジェンダーレス・ユニセックス制服の導入も考えてみる価値はあるかも。
ですからある意味、ジャージもその選択のひとつですね。
私も私服は極端に少ないので制服的なものがあったら便利だとは思いますw

学校も社会の一部ですから、そういう制度的問題の解決に尽力してくれると良いんですけどねー。少なくとも、自分たちが関わる分だけ、そういう責任はあるかと。

*1:と言うか、誰にだって「たまには男or女になりたい、色んなジェンダーになりたい」みたいなことを思うことはありえる訳だ。

*2:そして、他にいくらでも多様なジェンダーの在り方があることを忘れてはいけない。それぞれに望ましいジェンダー表現(服装)があるので、各自意見を聞いて公平に保障すべき。

不当なルールを守る義理はないので「ルールなんだから当然」は全然当然じゃないだろう、当然。

校則大嫌い、のだだです。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090306-00000041-maiall-soci
校則に関しては「社会のルールを学んでるんだから従うべき、破れば当然ペナルティ」という意見が一部で覇権的みたいですが、いかがでしょう。
 
私は、この校則には問題があると思っています。それは、ジェンダリズムです。 
そう、ことは程度問題ではありません。私は別に「校則や規則を破っててもそこまで責めることはないじゃないか、ある程度自由でいいじゃないか」と言いたい訳じゃありません。そんなことはどうでもいいのです。
違うのです、そもそもこんな校則や規則はあってはならないのです。様相を性別で規定する校則規則自体あってはなりません。学校側にそうした権限を与えてはならないのです。与えられてるなら剥奪しなければなりません。だって差別だもの。
丸坊主ももちろんの事、制服も同じです。性別によってあるべき服装や髪型を規定することは、すなわち「人類男女のどちらかしか存在しない」信仰であり、アタシのような女性男性どちらでもない人を全否定する事に他なりません。だからしてはいけません。
あたりまえです。それは差別なのです。「差別イクナイ」。小学校で教わりましたね?じゃあ教えてる側もしてはなりません。

 
私は外見が非常に男性っぽいです。調べてませんが、おそらくあらゆる面で男性とみなされるでしょう。ですが、男性っぽいのと男性であることは別です。
なのに、私は男性扱いされました。
ええ、本人がそれでよければかまいません。ですが、私は男性ではないし、仮に男性であるという性自認を持つ曜日がたまにあったとしても、基本的に男性として扱われる事を望みません。

私は女性ではありません。それほど女性ぽくもないでしょう。そして女性という性自認を持ちません。また、女性扱いされるのも本意ではありません。なのに私を女性扱いする人はいただけませんよね。
それと同じです。私を勝手に男性扱いしないでください。それはジェンダー差別です。
しかしながら、私は男性扱いされることを拒めません。なぜなら、拒めばよりヒドい仕打ちが待ってることは明らかだからです。だからむしろ自主的に男性の振りをしなければなりません。
そう、本音を言えばバカにされ罵られ笑われ、時には暴力を振るわれても不思議はないのです。「オカマwww」。こう笑う人がどれほど恐ろしい事をしでかせるのか、皆さんも知らない訳ではないでしょう。
私は、無言のうちに男性として振舞う事を強制されました。当然、「あなた、いわゆる男性っぽい容姿をしているけれど、本当に男性なの?男性扱いされていいの?」とは誰も聞いてくれませんでした。男性っぽかったら男性扱いされるのが当然だと思う人がひしめきあってるのだから、そんなもんです。
要するに、私を男性として扱うためのエージェントが私を包囲しているのです。正に「なんだかよく分からないけど陰謀だ!」状態です。恐ろしいですね。
いやでも本当に当事者的にはそんな感じ。


さて、そんな訳で私は小中高とずっと差別を受けてきました。
学校側はそれがルールだとして一方的に押し付け、何の疑問もなく、何の確認もなく、私を男性扱いし、「髪の長さはここまでで制服は男子用」。

繰り返しますが私は男性ではありません。にもかかわらず、学校側は男性ではない私に無理やり男性の格好をさせたのです。嫌がるオカマに自分の好きな男の格好を無理強いするだなんて、学校は大変態です。
頭が狂ってるとしか言いようがありません。


「知らなかったのだから男性扱いしても仕方がないだろう」ですって?
ふざけないでください。そもそも私に「男性じゃないよ」と宣告する自由は許されていませんでした。言おうものなら私は怪物を見る目で周囲からまなざされるのですよ?しかも誰も、誰一人として、男性っぽいという理由だけで私が男性の性自認を持ってると決め付け、「本当に男性扱いしていいの?」とは聞いてくれなかったのです。・・・本当は嫌だったのに。屈辱だったのに。もはや完璧な陰謀ですよコレは。


ですから、何者も権力をもってして男性や女性扱いを強いてはならないのです。

どうしてもすると言うなら、当人に「本当は違うんです」と言える環境を整備しましょう。それから「じゃあ男性もしくは女性扱いしてもいいですか?」と聞きましょう。オカマ扱いしたければ「あなたはオカマという性自認がありますか?あればオカマ扱いしてもいいですか?」と聞くべきですね。それが物事の順序と言うものです。


私は学校側から度重なる差別を受けました。そりゃあそうです。一律に性別別の服装を押し付けるのですから、私のようなケースはどうしたって出てきます。

だから、私はこういいます。

「今すぐ制服という校則規則を全廃せよ」

これは絶対達成されるべきことです。誰もが男性女性用の制服を着なければならない以上、いつまでもいつまでもジェンダー差別は消えません。なぜなら、必ず一定数、男性でも女性でもない人はいるからです。ならば、校則としての男性女性用制服はなくさなければならない。いや、制服に限らず、あらゆる様相を規定させてはいけませんね。


・・・男性ではないのに男性扱いされる屈辱が分かりますか?女性ではないのに女性扱いされる屈辱が分かりますか?分からないなら想像なさい。そんなものは暴力だ。許されてはならない。許したら差別主義です。

だから性別別の制服を着させたり、格好をさせる校則規則は全廃すべき。まあそうは言っても実際ジェンダーであらゆる社会は成り立ってる背景もあります。権威的に強制することは論外ですが、コミュニティにジェンダー制度を導入する事自体がいけない訳ではありません。だから性別別制服自体はあってもかまわないけども、本来その制服を着るかどうかは生徒の自由。着たくなければ強制しない。異性装やFTMMTF性自認に合った様相を保障する。また、同時にその自主選択を安全の元で行える環境を整備すべきです。それが出来ないなら学校側は明らかなジェンダー差別天国です。というか、あたしを辱めて喜んでる畜生です。恥を知るべきです。


即刻、性別別制服の強制を撤廃しろ!その他性別による様相の規定を撤廃しろ!これ以上の制度的変態プレイは自粛するべき!したければ個人間で合意の基誰かにしてもらえ!学校に変態行為を持ち込んでもいいけど、それも個人間でちゃんと契約してからにしろ!



http://d.hatena.ne.jp/kkk6/20090314/1237025838

ついでにジェンダーとは関係ないけど、茶髪も自由にすべき。なんでいけないんだ!なにがいけないんだ!制服のように、特に理由もなく皆同じ黒髪にしよう、脱色させないでいようなどと、何かの変態プレイではないのか!そんなのは個人間の契約で行うべきであって、校則規則にすべきではない!

↑で指摘したように、「ルールなんだから当然」とされたものが、単なる差別であり変態プレイだったということもあるのです。だからこそ、「ルールだから」と無条件に肯定されてはならないのです。「ルールだから」はトートロジーって感じで無意味です。
不当なルールは守らなくていいんです!守るべきではないんです!


茶髪や脱色?
日本人だから黒髪じゃないといけませんか?人種差別的ですね。
スカートの丈?
短すぎず長すぎない丈って一体どんな価値基準で決めてるんですか、いい加減な都合で振り回して嫌な人ですね。


学校は今すぐ変態的差別を中止しろ!その校則は間違っている!


追記。

そうそう、こういうこと書くと、校則反対する側に「ルールが間違ってると思うなら正規の手順で変えてゆくべき、間違ってると思う側がルール変更のコストを支払うべき」という人がいますね。*1
はてなブックマーク - 茶髪の何がいけないのでしょうか/意味のない校内ローカルルールには断固として反対する - 教えてお星様

id:celaeno_w ルールを変えたい方こそが「正規の手順に従って」変えるべき。他人を変えられなかったとしたら「その程度」。/別の話としては、ルールを破る事への覚悟が無いのだとしたら、やっぱりそれも「その程度」の事と思う。

でも、そもそも正規な手順、物事の順序を守ってないのはこの場合学校側なのでこちらだけが守る義理はありません。もう一度言います。スカート丈云々以前に、スカートという女性用の制服が校則としてある事自体が差別です。それ以外にも茶髪脱色や丸坊主など色々理不尽です。他にもたとえば、放課後の部活動強制も許されるべきではありません。私達は学校の奴隷ではありません。
だから、理由も説明せずただルールだからと理不尽な要求する側にこそルール変更の義務があるのです。あたりまえです。

それとコレはヒドイと思うのですが、ルール変更を説得できなかったら自己責任みたいに言われるのは困ります。たとえば今回のケースで言うと、私みたいなマイノリティがおいそれとジェンダー差別を解消できる訳がありません。皆「男/女なんだから」という意味不明な理由でジェンダー差別を是認するのに、かれかのじょらを説得できなかったら「その程度」と言われるなんてあんまりです。
それに覚悟って何ですか?
怪物として見られることを覚悟しなければ不当な差別に異を唱えられないとすれば、それ自体が差別です。

よって私は、何の手順も踏まずに突然校則違反し出す生徒がいても、全面的に支持します。
何の義理立ても必要ありません。そんなルールはガン無視してよいし、ルール変更にかかる説得などのコストを強いられる自体に憤るべきです。不当なルールには、守らない側にこそ合理があるのです。
日本帝国万歳。

*1:まあうちのウェブカレ草間たんも似た事を言ってるのですが、きっと草間たんのことですから、単純に横暴な要求をしてるのではなく、何か奥深い含蓄があるのでしょう。それはともかく。

初恋の人からの手紙・・・w

初恋の人からの手紙:新感覚で無料の恋愛診断ハニホー
最後の「浮気されて泣いてる女性がいます、あなたはどの意見に共感できますか?」質問は思い当たる事がなくて「泣くのは意味がない」にレ点を打ったのです。しかも、男性を選択して。そしたら↓

野田、ひさしぶり。
今でも気功でスカートをめくる練習を続けていますか?野田が真剣な顔をしてその理論を説明していたことをなつかしく思います。

わりとモテた私に嫉妬して野田が「おまえの男好きが許せない」と言いお別れすることになったあの日から、もう8年が経ったのですね。月日が流れるのは早いものです。

あ、そうそう、お手紙を書いたのは何か理由があるわけではないんです。ひさびさに友達に会ったときに野田の話題になってなつかしかったので、思いつくままに手紙でも書こうかなって。

今から考えると、二人の付き合いはめちゃくちゃでしたね(苦笑)。男友達と話すたびに野田は怒っていたし、私は「あんな女たらしのどこがいいんだ!」「おれが嫌ならあの女たらしと付き合えばいいだろ!」などと言われて、なんだか心苦しかったのを覚えています(本当にその彼とも同時に付き合っていただけに…)。もう少し気持ちを分かってあげられればなぁと今では反省しています。

そういえば野田にとっては私が初恋の相手なんですよね?最初のころの野田はやけに自信がなくて「おれって元カレたちと同じようにいろいろしていいのかな?」なんて私に聞いていたのを覚えています。いろいろって(笑)。それは正直引きました。

まだ二人がラブラブだったころ、野田は「絶対に結婚しような」と言ってくれましたよね。今思えば完全に詐欺だったのですが、あのころの私は(少しおかしくて)信じていたし嬉しかったものです。少し忘れたい気持ちはあります。

野田との恋愛から得たものが何なのかなぁと振り返ると、たくさんのものがあることに気付かされます。警戒すべき男性の見分け方などは、野田のおかげで実践的に身に付いたのだと、日々実感しているところです。どうもありがとう。

いろいろ書きましたが、私は野田が大好きでした。これからも野田らしさを大切に、あと当時本気でやっていたパントマイムの練習は続けて(笑)、いつか幸せになってください。

またいつか会いましょう。では。

P.S. 野田が誕生日にくれた日本人形、だいぶ髪が伸びました。


その後、最後の質問に回答せず素直な気持ちで書いたバージョン、男の場合。↓

野田、ひさしぶり。
もう女性専用車両に乗る夢は叶えましたか?毎日のように願望を話していた野田をなつかしく思います。

泣きじゃくって「別れないで済むなら何でもするから」と言った野田にうんざりして見切りをつけたあの日から、もう8年が経ったのですね。月日が流れるのは早いものです。

あ、そうそう、お手紙を書いたのには特に理由はないんです。ただ部屋の掃除をしていたら野田からの昔の手紙が出てきたから、なつかしくなって。びっくりさせてごめんなさい。

別れてから気がついたのですが、野田は私がひどいことをしても黙って我慢するタイプだったから、私はあまり気に留めず振り回しすぎましたよね。あのとき、私よりも野田のほうがだいたい気持ちが重かったから、私は面倒くさがって「頼りない男は面倒くさいよ」なんて言い放って傷つけたと思います。頼りないのは事実だけど、もう少し他に言い方がなかったものかなぁと反省しています。

そういえば野田にとっては私が初恋の相手なんですよね?だからか、野田は最初のころ、とてもかわいかった印象があります。確か手をつなぐのでさえ「なんかごめんね。ごめんね」なんて言っていたから、少し気持ち悪いけど、緊張しているんだなぁと思ったものです。

付き合ったばかりのころの野田を思い出すと、「おまえがいなくなったらおれは死ぬ」なんて言ってくれていましたよね。重苦しかったけど、でも少し嬉しかった記憶があります。今は健やかに過ごしていますでしょうか?

恋愛を総合的に考えれば、私は野田と付き合えてよかったなぁと思います。当時は少し恥ずかしかったし疲れたけれど、私が男性のように強くなれたのも、野田がどこか頼りなかったおかげだと思っています。

いろいろ書きましたが、私はそんな野田のことが好きでした。これからは、もう当時のように少女を追いかけるのはやめて(笑)、それなりの年齢の女性を真っ当に幸せにしてあげてください。

またいつか会いましょう。では。

P.S. お笑いについて知ったようなこと言うクセはもうなくなりましたか?

総合的に見て、男の方が毒舌且つ悪し様に書かれることが多いみたいです!で、私は「相手に自分をオススメできますか?」の質問に、出来ないと回答していたので、おそらくそこらへんが頼りないという評価に繋がっていたと思います。こちらの手紙には、それぞれ末尾に「あなたがどう分析されたか」を別に見ることが出来ます。上の回答における分析で

嫉妬や束縛をしやすくネガティブな考えになりやすい。癒しを求めているわりに女性を癒したりはあまりしない。
【あなたの恋愛事情を考察】
野田さんは基本的に、周囲(相手)に合わせることがクセになっていて、自分らしさを見失う傾向にあるようです。振る舞いにブレがあり、芯がしっかりしている印象に欠けるので、女性からすると頼りがいはあまり感じないかもしれません。

なんて書かれるくらいですからw
男性の場合だと、私のような回答者はとりわけ異性愛関係において女性から「頼りない」と評価されるだろう、と書かれたわけ^^
まあ、確かに守られたくても守りたいとは思わないもんなぁ。でも、自己中としてブレはないつもりなんだが・・・。

ちなみに、最後に無回答で、女として回答してみたらこんな感じ。

野田、ひさしぶり。
もう女友達のファッションチェックをするクセは治りましたか?いちいち「何そのブラウス!」などと辛口批評をしていた野田をなつかしく思います。

泣きじゃくる野田が「これ以上振り回されたくないから別れる」と言って自分から連絡を断ったあの日から、もう8年が経ったんだね。月日が流れるのは早いものです。

あ、そうそう、手紙を書いたのには特に理由はないんだ。ただ部屋の掃除をしていたら野田からの昔の手紙が出てきたから、なつかしくなって。びっくりさせたかな。

思い返してみると、あのころは二人とも子供っぽかったなぁという印象があります。野田は毎晩のように電話しては文句を言ったり泣いたりしていたし、「大丈夫だよ。好きだよ」といくら言ってもなかなか聞いてくれませんでしたね。どう言えばよかったのか今でもよく分かりません…(苦笑)。

そういえば野田にとって、おれが最初の彼氏でしたね。だからか、最初のころの野田は、かなり猫をかぶっていたように思います。最初のころは、少なくとも「ねぇねぇ、のどぼとけ触らせて♪」などと言えなかったはず。今では勝手に触るぐらいになっているんでしょうね。

付き合ったばかりのころの野田を思い出すと、不安だったのか「別れたら罰金10万円ってことにしよう。だって別れないでしょ?」などと言っていましたね。プレッシャーに負けて「うん」と言ってしまったのを覚えています。10万円どこに振り込めばいいですか?

恋愛を総合的に考えれば、おれは野田と付き合えてよかったなぁと思います。いつも不安げで泣き虫な野田と付き合うことで、自分が強くなるということを学べたように思えます。

いろいろ書いたけど、おれはそんな野田のことが好きでした。これからも野田らしさを失わないよう、あと、そろそろ顔だけで男を選ぶのはやめて(笑)、誰かと幸せになってください。

またいつか会いましょう。では。

P.S. うちに黒魔術の本を忘れていったよね?そのまま持っているので返します。

wwwwwww
こっちの方がまだ納得いく結果なんだけど(笑)、女性になると男性としての頼りなさの評価が違ってくる辺りが香ばしいw

ていうか、どうして私が嫉妬深いと思われるんだ?浮気の質問にもジャッジしてないし、他の質問でどう束縛・嫉妬深さが測れるのか疑問。
何にせよ私には合わないサービスだった。

  

メディアマーカーってこういう使い方でいいのかな?

始めてみたよん。
http://mediamarker.net/u/nodada/

基本ネタバレ全開なのでよろしく。隠すつもりなんてないんだから!
ちょっとブログでのレビューは気力が必要なので、メディアで気ままにメモするつもり。まあ、良ければ読んでみてくだしあ。


あと、書かなきゃいけない事が一杯なのに、かけません。理由は普通に自分の都合です。

私のあの頃にきっと関係ある話。


10代レズビアンは同年代異性愛女性より妊娠のリスクが高いんだそうですよ - みやきち日記
これについて、みやきちさんの掲示板で交わされた会話内容が↓

>カモフラージュもありますが、まだ自分のセクを自認できないとき、あるいは否定したくて無我夢中なときって、
>「わざわざ」異性と性交渉を持とうと試みる気がします。
>「ヤってみれば、異性愛に目覚めるかも」みたいな。

これは絶対あると思いますね。
もちろん非ヘテロが全員そうだというわけではありませんが、自分のヘテロ性をぜんぜん信用できない分だけ、男女セックスを「性的指向リトマス試験紙」または「『あなたは異性愛者です』という証明書」代わりにしようとしてしまう、ってことはけっこうあるんじゃないでしょうか。

>見た目アウティングしているようなレズビアンとか、ナマイキなレズビアンとか、はぐれモノになっちゃってるレズビアンとかの場合、それを快く思わない不良男子などからレイプされちゃう、ということもあるのではないかという気もします。

ボーイズ・ドント・クライ』のブランドン・ティーナのパターンですね。恐ろしいことに、あれ、実話ですもんね。
ブランドンに限らず「オトコを必要としないオンナ」っていうのはマッチョ主義のヘテロセクシュアル男子からは憎悪の対象になりやすそうですし、そういうかたちの性暴力もやっぱりあるんじゃないかなー、と思います。

あと、今日の日記を書きながら思ったのが、「自己評価の低さも関係しているのではないか」ってことです。
異性愛者女子でも、自己評価が低いがゆえに性的逸脱にのめり込むケースっていうのがありますが、それと似たような現象が非ヘテロ女子にも起こりうるのではないかと。
ヘテロだと、それだけで「お前はダメだ」「異常だ」「幸せになれない」っていう有形無形のメッセージを受け続けるわけですからね。欠落した自尊心を「異性に欲望される自分」像で埋め合わせようとする子がいても、何ら不思議ではないと思います。
 

http://6404.teacup.com/miyakichi/bbs/2457

 

この内容はメモ¶(..)

ところで記事の論旨に疑問を持つ人もいる。確かに紹介された研究の信頼性というものは、常にどこかで議論すべきだけど(当たり前)、それはともかく、この情報から

自分の性的指向を否定するため、あるいは隠すために、過剰なまでに異性愛的な性行動をとってみせないとならない、ってことがあるんじゃないか

という可能性を考えるのは、とてもとても重要かつ必要です。というか、こうした思案は(割と性的熟成が早かったために異性とセックスしようとまでは考えなかったとは言え)私自身かなり頷けるし、上記問題の可能性をわざわざ否定する人もいないと思う。で、こういう社会的要請が主体の行動に影響を及ぼしている可能性は、2008-10-15(体型と身体イメージが性行動に与える影響: 同性愛男性編)みたいに一つ一つ調査して欲しいと思っている。そして、考えられる問題性があるなら、何らかの可能性を示唆することはあってよいと思う。むろん、その語り(示唆すること)がどのように信憑性を持ち利用されるかも危惧しなければならないけどね。でも、そこらへんは皆慎重になりつつ、考えを深めていけたらいいと思う。

前置きが長くなった。


で、みやきちさんとそのブログビューワーさんの意見について。

まず、↑の話は、特に掲示板の話は、あくまでクィア女性の話なのだけど、これは「男性」として生まれクィアとして生きてきた自分にも非常に通じる点があるように感じられた。以下、その部分を重ねあわして書いてみる。
私は確か幼稚園児の頃から男性スキーだったけど、それにもかかわらず、なぜか小学校低学年から4,5年生までの間、過剰な異性愛男性性を振舞っていた。それは、

調査では、ゲイ・バイセクシュアル男性が、同年代の異性愛男性より、妊娠をさせるリスクが高いことも明らかになった。

http://gayjapannews.com/news2009/news4.htm

みたいな、妊娠させる、というケースではなく、極めて幼稚なものだった。それゆえに、自分にとって「些細なこと」として忘却されていたのだが(むろん彼女たちにとって些細ではなかったかもしれないけどね)、その行動にも、何か社会的な背景があったのではないか?

恥ずかしい話だけど、仲間内の男子たちに言われて女子のスカートめくりを楽しそうにしたりね。(でもあんまり楽しくはなかったかもしれない)
あと、自分でも「なぜ僕はこんなことをしてるんだろう?」と思いつつも、友達の女子に気があるような言葉を観衆の前で言ってのけたり。
また、少しでも気になる女子がいると、「きっと僕は彼女の事が好きなんだ恋なんだ」と思うこともあった。・・・けれど、その気持ちはどうも足の浮くような違和感がしたのね。もちろん、その時から私は非モノセクシュアルだったのかもしれないし、彼女への好意を恋と名づける事もおかしくはなかったかもしれない。だから、どこかで「恋だ」と思い切れなかったのは、単純に彼女への気持ちがさして強くなかっただけかもしれない。
それでも、なんだか“今の”私の中で、あれらの行動は自己一貫性のないものに感じられた。
・・・ともあれ、今さらこんなことを言ったって、過去を無理やり現在の思考で捻じ曲げてしまいかねない。たとえば、自分を「本当はゲイだったのに、勘違いしただけの人」と恣意的に位置づけるだけではないのか。それはそれで、何か妙だと思う。
よく物語にもあるような、「自覚のないゲイ→第二次成長期を迎えて『本当の』自分を発見する→だから今までの異性愛的経験はただのカモフラージュでしかなく、まやかしである→ゲイは生まれつきゲイでしかなく、他のセクでも同様。そこに揺らぎはない」という、ある種ストレートな成長物語は、本質主義的できっと多くの人から共感を得るだろう。しかし、そう意味づける事は果たして正しいのだろうか?
私自身も、今している自分語りでこのストレートな物語を自分に向けて表象してしまっているかもしれない。そういう表象が、私の中から大切なものを取りこぼさせている危険もあると言うのに・・・。
だからこそ、一つ一つの性的経験が何を意味し、自己でどのような位置を占めているかは、慎重になるべきだ。

・・・けれど、↑のような話を読むと、「やっぱり私は異性愛社会の要請にしたがい、頑張ってガチな異性愛者の振りをしたのではないか?」とか、「男として生まれたのだから女好きに決まっている、と思い込まされていただけではないか?」、とか考えてしまう。
そして、実際そういう側面も、なくはなかった。<あくまで私自身の実感だけどね。

で、更に思い当たるのが、やはり「欠落した自尊心を『異性に欲望される自分』像で埋め合わせようとする」・・・という箇所。
いや、私の場合対象が異性ではなく「同性」(?)だったのだけど、たとえば「妊娠機能を持った一部の『女』ではないために、何したって妊娠しないから男にとって都合のいい便所になるんじゃないか」みたいな考えを、小さい頃から持っていた節が自分にはあって。実際周囲からもそういう言葉を聞いたので、「搾取されるための利便性を持てば自分も性的に欲望されて、(何かを)埋め合す事が出来るのではないか」、という観念に捕らわれていたように思う。たぶんね。
もちろんそれは自分以外のクィアを見知る前の話だし、かれかのじょらと出会う事で今は違う見方を持つようになった。

でもたまにBLでも当時の私のようなキャラクタがいて、セックスにおいて自虐する受けを見かけると、ちょっと薄暗い感情に包まれる。そして、そういう受けを切に求めている自分も、未だにいる。

まあ、何を言いたいかというと、だ。私はこの社会の中で確実に「社会的要請」を受けながら自己の性を培ってきた。そういう自覚があるってことだ。

批評の正当性を認めるということ、何をどう語り対話してゆくべきかの模索。

まだ続くみたいですけど先にお返事。

http://blog.livedoor.jp/karpfen32/archives/77054.html

本題に入る前に少しだけ。結局首突っ込んじゃってすいません。とりあえず、あくまで私の関心にそって書いてみます。

早速レス。

「たとえ他者を律することになっても表象(暴力)を語ることの正当性は疑いようもない」というお言葉ですが、「律する」ってどういう意味でしょうか。「利する」ならまだわかるのですが。

利するの誤りです。

私はモラルの次元ではなく、腐女子との対話の糸口が欲しいなら従来のノンケホモフォビック男性による腐女子叩きの言説に回収されそうなPCチェックは「戦略」としていかがなものか、と言っただけなので正当性については否定しておりません。PCチェック、やりたきゃやればいいし(受けるかどうかは別)。

とゆんゆんさんは仰っています。あなたのこの主張は、Ry0TAさんのコメント欄で幾度も繰り返されています。それを改めて読んでみましょう。

やおい/BLをよくご存じないままPCチェックに励まれるうち、いつの間にか異性愛男性の「腐女子は自重しろ」「腐女子は巣に帰れ」(=女は同性愛表現、男性に対する性欲の表現を自粛しろ)という声に唱和して、家父長的なヘテロセクシズムに加担することになっていなければいいのですが。

http://d.hatena.ne.jp/Ry0TA/20080202/1201956488#c

つまり、やおい/BLはヘテロセクシズムよりも家父長制の産物であり、故あって男子禁制である場に、ゲイであろうとそうでなかろうと男性が立ち入るならその辺を踏まえないと、男性であるというだけで言論の弾圧になりかねないということです。
〔中略〕
ある対象を批評するとき、何を中心的トピックとするかは本人の自由です。ただ、Ry0TAさんは、もしかして異性愛中心主義者VS同性愛主義者の対立に拘泥するあまり、家父長制による男女の非対称性をお忘れになってはいませんか。異性愛中心主義と家父長制はコインの裏表のようにして女性を抑圧してきた、その産物がやおい/BLなのに、「異性愛規範に基づいた同性愛表象が生産されることへの批判」を、何の断りもなく本来の問題と言ってしまうのはあまりにも片手落ちにすぎませんか。

率直に言えば、家父長制批判を不十分にしか踏まえていない「やおい/BLの同性愛的表象には問題がある」という批評は、「男性同性愛表象のようなわけわからんものを愛好する腐女子キモい」というレトリックで腐女子を叩いてきた異性愛男性に新たに「正当性」という言い分を与えることで利用されてしまう気がします。
本気でゲイとして腐女子と対話したいなら、そういう差別的な異性愛男性を利するような戦略は賢くないと思うのですが、どうでしょうか。

ですがこれらの批判はRy0TAさんと佐藤雅樹氏のエッセイに対して不当なものです。

ではまず、私の論旨を再度説明してみたいと思います。*1
私は先のエントリでm-aboさんに「外せないケースもあるがそれ以外なら必ずしも触れなければならない、とまでは言えないのでは」的なことを書きました。また、その例として「たとえばBLがゲイを差別しているという根拠で存在や表現を否定されている場合は、やはりゲイ差別性を踏まえた上で肯定方法を考えるべきだろう」と書きました。なぜなら、そこでゲイへの差別性に触れずに存在を肯定してしまうと、(数ある男性同性愛表象の中でBLとて差別に加担している側面もあるのに、)差別の問題と向き合わない隠蔽行為となるからですね。その肯定方法は肯定ではなく欺瞞だし、それ自体が差別に加担しうるレトリックなので、問題です。
そのような文脈と言うか経緯があるのなら、当然向き合うべき課題は(差別だけに限らず)多々あるはず。


たとえ話をしましょう。

雑誌対談でも床屋談義でも何でも構わないのですが、どこかの誰かに「BLは文学やマンガとしての質が低い」と否定されたとします。これには「その“質”とやらは一体誰が決めるのか、腐を恣意的に排除した視点のみで、文化を序列化しているだけではないのか」などと批判し得る。けれどそこで「BLはゲイにとって差別的だ」とする観点を盛り込む必要性は、おそらく考えられない。あと、「BLの市場増大とゲイ受容の関連性」といった議論等を加えるなら非常にややこしくなりますが、それこそ要研究な分野ですね。・・・ちなみにこれらの議論は、表現(表象)批評というよりは、存在の是非論にすらなるなる議論なので、ちょっと佐藤氏やRy0TAさんの議論対象とは異なりますけれどね。

他にもより表現に近い議論として、「BLは心理描写に長けている」「BLの表紙って何故か男二人が抱き合ってこちらに視線を向けてるものが多いけど、なんで?」という話にゲイの差別性が関与しているかどうかは、実際研究してみないと分かりませんよね(↑この場合おそらく関与はナイでしょう)。だから、最初からゲイ差別性に触れるべきという課題が成り立つとは限らない。
単純な話ですが、そういうことです。

もちろん、中にはゲイ差別性の関与が考えられるケースもあります。たとえば「BLのメインストリームでは未だにイカホモと呼ばれるよな男性身体はあまり描かれない」といった議論では、おそらく男性身体嫌悪やホモフォビアも関わっている可能性は十分に考えられる。ですから、「BLで描かれる男性身体表象」を議論する際には、そこらへんを加味しないといけない場面も少なからず出てくるはずでしょう。

また、佐藤氏のエッセイでもゲイ差別性に触れるべき(少なくとも問題を不可視化させるべきではない)ケースが指摘されていましたね。

 かつて女たちをある呪縛から解き放つ役割をなした表現物が、いまでは別の誰かを封じ込めるものに変貌している。

ここで言われる少年愛を描いた「少女漫画」が、性描写の非タブー化をもたらしたことの功罪は、女性解放を肯定する上で触れる必要が何かしらあるはずです。ソレを差し引いたばかりの肯定言説だけでは見落とされるものもある、というのはご理解いただけますよね。
これが「文脈によって外せないケース」の例です。・・・まあ、正直どこまで「触れるべき」と言えるかは若干疑問ですが、肯定言説が問題を不可視化させないように、語り手は配慮すべきではないでしょうか。それが研究者によるユリイカなど影響力のある媒体で行われた発言なら、尚の事。


以上がm-aboさんに書いたレスの説明です。


この上で、ゆんゆんさんの「ミソジニー加担の可能性」という議論を考えてみましょう。

私はコレに対して「同じ疾患ではないから異なる処方箋が用意されるべき」と書きました。次にこれの詳細を書きます。
あっと。その前にまずお聞きしますが、表象や表象暴力を批評する事と 言説が及ぼす社会的影響(受け手の政治的行為)はあくまで別ですよね?別であると言う事は、責任の所在も別々であるということです。
確かに、何かゲイがBLのことを批判的に書くと(まるで腐女子だけがゲイに対して差別主義者であるかのように)「自分も叩いていいんだ」とバッシングが湧いてくることは十分にあり得るし、実際あったと思います。ですが、それって批評者が悪いんですか?それ、批評者の取るべき責任ですか?
もちろん、表象ではなく腐女子やBLの存在意義を対象にした批評ですと話は変わってきますが、今回の場合は「ホモフォビアを指摘」などの表象暴力系を扱った話ですね。であるのに、指摘した内容以上の責任を負うべきなのでしょうか?

もしかして、別に女性文化を攻撃する内容を発信してなくても、男性であれば常に「この批評は腐バッシングを是とするものではありません、あしからず」といちいち申し添えなければならないとお考えですか?しかし、たとえBLの男性同性愛表象の差別性を指摘したからと言って、BLやBLを消費している人たちをバッシングしていいなんて理由は一つもないんですよ。で、私の場合は、何か問題がある表現は消されるべきか、というとそうでもないと思ってます。先にも申し上げましたが「問題ごとBLを肯定する」のが私の出発点です。*2
そして、(本当に存在自体を否定して死ねとか言う人もいるかもしれませんが)この場合の批評者はBLの表象を問題化したのであって、「だから皆も叩いていいんですよ」とは言ってないんですね。なのに「当事者であるゲイもBLを批判したんだから」といった理由で、何をしても許されると思い込むような輩が阿呆なんですよ。そういう輩は自分の振る舞いを批判されるべきだし、自分の振る舞いに責任を持つべきです。*3
実際にそんな勘違いが噴出しやすい状況があったとしても、そのために批評という行為が阻害されてはならないと私は考えます。(無論ミスリーディングへの配慮は欠かせませんが。)
だからこそ、責任は阿呆に取らせるべきなのですね。批評者が背負うべきものではありません。そこで批評者にその責任を負わすと、批評者は自由に批評する、という行為を萎縮させてしまうかもしれません。(現状ではあまりなさそうな話ですが、責任を負わされるのであれば、という仮定の話です)

もっとも、ゆんゆんさんは、ゲイが男性であるために何の「配慮」もせずに女性文化に「踏み込む」ことは、女性への「言論弾圧」になりかねないと仰るかもしれません。
これもあくまで男性としての、もしくはポジショナリティに関わりなく誰もが持つべき倫理性であって、批評者としての責任ではありません。
が、これについて私なりに解決法を書かせてください。
実際にBLへの言及が叩く口実に利用されるなど、もしそこに女性文化への攻撃が見られたなら、批評行為以前にそれらを一つ一つ指摘して行って「表象系の問題を語る事と、女性文化への是非は分けて考えよう」とか「問題があるからって全否定と言うのは出発点として間違っている」とか訴えつつ、女性文化への配慮をしていけば良い、と思います。

しかし、勿論批評とて社会に生きる人間のやることですから、諸々問題が生じる場合もあるでしょう。その場合は当然、批評者としての責任を持つべきですね。具体的にはたとえば、テキストの表象を批評してるのに「だから女が書くものは駄目なんだ」などと言って批評行為と自分のミソジニーを混同させない事。もしくはその批評の内容自体がミソジニー的観点に立脚したものでないか、男性としての権威を利用して印象操作などしていないかなど、自ら細心の注意を払う事。その他はまあ常識の範疇ですね。
それらの問題点がない場合は、批評という行為自体は正当なのですから、“いかなる理由があっても”批判される謂れはありません。正当性を認める、と言うのはそういうことです。

あと、あなたはRy0TAさん並びに佐藤氏のエッセイを批判する理由として、女性文化の成り立ちや抑圧に配慮せずBLを問題化することに偏っている(「一面性において」)、と仰います。が、例の佐藤氏のエッセイにしても、BLの糾弾ではなく表現を批評していくことを論じた内容ですね。バッシングを扇動したわけじゃありません。
・・・確かに攻撃的で、私自身これはBLとそれを消費する者への偏見と予断ではないか、と感じる部分はありました。この部分への批判は妥当だと思います。ですが、彼の論旨はあくまで「少女マンガ」の表現を問題化し、何に向かい合うべきかを示した内容な訳です。それが批判される謂れを、私は思いつかない。Ry0TAさんにしても同じことです。そして、佐藤氏もけして「ホモフォビアで切る」といった一面的な視点だけで論じていたわけではないはず。

クィア・スタディーズ (’96)

クィア・スタディーズ (’96)

 竹宮恵子は、自作について次のように語っている。
「漫画には発表された時代とまったく無関係な作品と、そうでないものとあって、私の『風と木の詩』は後者。少女漫画界で、性描写がほとんどご法度だった頃に、自らに課している性の緊縛から、少女達を精神的に解放したくて、少年対少年という形に変えて緊縛の裏をかいた。だから、ゲイを表現したものとはおのずと違う」(『CREA』一九九一年三月号より)。
〔中略〕
 しかし、性の問題を少女マンガで扱うのは、とてもデリケートで難しかった。「少女」が主人公では、女の子である読者にとって生々しすぎるからだ。「少年」と違って、「少女」には性の欲望はないことにされてきた。ましてや、その価値基準に当の女の子たち自身が社会から完全包囲されているのだから、ストレートな表現方法では、読者からも、出版社からも拒絶されかねない。そんな事情から「少年」という性差のあいまいなもの同士の組み合わせとなったのだろう。
●「耽美ホモ」から「やおい」へ 
 ところが、作家の意図とは別のところで、「少年愛」は読者である女性たちにとって、きわめておいしい未知のデザートだった。〔中略〕彼らが演じるのは、世間からは決して認められず、それゆえにこそ激しい「禁断の恋」なのである。今どき「禁断の恋」なんて、そうそうお目にかかれはしない。しかも、女である自分は、当事者としてなんら脅かされることなく、あくまで傍観者として報われない恋の道行をながめていればいい。

 「同性愛表現」をゲームのようにお気楽にたのしめるようになったことで、女たちが性に対する能動性を獲得した、という解釈もある。 けれども、そのことに対する是非をこの場で言ったところでしかたがないので、ここでは、あくまでゲイにとって、この問題がどういうことなのかを考えてみよう。
 〔中略〕
 かつて女たちをある呪縛から解き放つ役割をなした表現物が、いまでは別の誰かを封じ込めるものに変貌している。

 「女性差別表現」という言葉がある。「女を欲望の対象としての描き、女の性を商品化する表現」、または「女を、男社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込める表現」であると理解している。
〔中略〕
 「女性差別表現」の区分でいくならば、「ヤオイ表現物」は「男性同性愛者の性を商品化している」と言うことができるだろうし、「男性同性愛者を、異性愛社会に隷属させるためのステレオタイプに押し込める表現」であるから、立派な「ゲイ差別表現」だ。
〔中略〕
 ここで、当事者以外が表現の担い手になるのはすべていけないのか、という疑問が残る。どうやったところで、表現物には作者が身を置く社会の価値観が反映されてしまう。
〔中略〕
 問題は「ホモフォビア(同性愛嫌悪)」なのである。

佐藤氏の論理精度に対する評価はさておき、佐藤氏は性描写の非タブー化を実践したなど少女漫画の内情を確認した上で、非対称的権力関係における性の商品化及び表象暴力を問題化していたように思えます。ゆんゆんさんは「一面性」を批判する、と言いますが、彼はそうした背景を加味した上で(それでも尚問題である)表象暴力と向き合ったのではなかったでしょうか。そして彼は最後に、「問題はホモフォビアである」と答えています。
私自身も「“どのような背景があっても”表象暴力に対しては何らかの批判的対応があるべきだ」と考えます。そうした目的の上で行われる批評にとって、“表現(表象)こそ”を問題化することの何が「片手落ち」で戦略過誤だと言うのでしょう。

不当な批判は、その者の行為を貶めます。これ以上謂れのない理由で佐藤氏のエッセイを批判するのはおやめください。


それから「腐女子との対話の糸口が欲しいなら・・・」と順序が逆さな事を仰ってますが、そもそもゆんゆんさんは表象暴力の問題前提を見誤っておられます。
私もさっきから「ゲイ差別性ゲイ差別性」ばかり言ってますが、BLによる男性同性愛表象に“呼ばれた”のは、他でもない、ゲイ以外も含む男性(と呼ばれうる)側です。更に言えば、BLが主に男性を描いたジャンルとは言え、同性間の愛を表象したものであるなら、その表象に呼ばれたのはレズビアンバイセクシュアル女性でもあったかもしれません。*4BLの男性同性愛表象は男性側やクィアを呼んだのであって、その場合表象の担い手は呼ばれた者からの応答に答える道義があるのではないでしょうか(表象暴力に対する批判であれば特に)。表象しておいて自分は関係がないなんて素振りは認められません。

そういう状況で男性同性愛表象になじみがあるという理由だけで、ゲイへの配慮を腐女子により多く求めるのは、腐女子に幻想を抱き過ぎだと思うのです

とありますが、これも経緯を見誤ってますね。腐女子にBLややおいのあらゆる表象の責任があるわけでは勿論ないですが、しかし、表象(特に暴力であった場合は!)を担う機会が多ければ多いだけ、応答を求められる機会も増すのが当然の帰結です*5
幻想を抱くとかの話ではなくて、人には各々の立場や自分の振る舞いによって、背負うべきものが事後的に生じてゆくということです。というか、この場合腐女子かどうかはどうでもいいですね。
誤解のないように言いますが、もちろんそれがBLに限らないあらゆる「同性愛」への話であるなら、それこそBLの表象に関わった人以外の者にも各々背負っているものがあります。表象の担い手は表象された者への応答責任が(少なくとも道義的には)ある、という話です。

応答を求める行為が女性の言論弾圧に変わる可能性ですか?それは先ほども申し上げたとおりです。

仮にそれが幻想ではなく、腐女子の方が例えばTDNネタなどを楽しむノンケ男より立場が弱いから俺たちの言うことに耳を貸さざるを得ないだろうとゲイ陣営が思っているとしたら、パワハラ親父の発想と何ら変わりはないですよね。パワハラ親父の所業と同じく消極的な抵抗にあうだけです。

それからこの度ゆんゆんさんにつきましては、あまりに相手の心理を邪推し過ぎていると思います。たとえばあるゲイが「女性なのに男性同性愛モノを描くのは許せない」と言ったとします。その主張自体はまったく賛同できないものですが、ここでのゲイさんはただ「女に男を語る資格はない」というミソジナスな心理だけを持っているかもしれません。しかしソレを言うなら、もしかしたら「これ以上当事者以外からの性的視線に耐えられない」という心理もあったかもしれない。他にも、可能性だけならいくらでも考えられるわけです。
こういうのを「内心の推定」と言うのでしょうか?実りがないですね。
とまれ、「相手にはこんな差別的感情があるのではないか」という恐怖自体はとても共感するし、私も日頃他人に対してこの思いは払拭し切れません。しかし、議論をする際はせめて相手に最低限の信用を置くべきだ、とも思います。信用と言っても別に相手の事を素晴らしい人間だとか差別感情の一切ない人だとか思う必要はなくて、ただ「相手の振る舞いから読み取れるもので判断する」であるとか「根拠もない場合は疑ってかからない」という基本的な姿勢が必要だと思います。そうした姿勢がなければ、まともに議論は出来ませんよね。


BLを批判する方々がどういった理由で行うのかは誰にもわかりません。分からないからこそ、無闇な邪推は控えるべきです。



 

*1:ところでここではゆんゆんさんや、佐藤氏言う「少女漫画」とか「やおい」「ヤオイ」を、「BL」で統一させますが、議論するための簡略化以外の意図はありません。

*2:ちなみに私のこの立場は「では、あなたはヘイトスピーチを肯定しますか」という問いに晒されますが、それもやはり色んな角度から他人の人権を侵害するほどの問題性があるか実証が必要だと答えます。

*3:てか、そういう輩に限って自分の加害性は華麗にスルーする奴だったり、BLにすべての差別責任をなすりつけたりするだけとか、本当にうんざりです。当たり前の話ですが、自分の嫌いなものを叩きたいだけ、という意図しか見出せない便乗など価値を貶めているだけであり、誰にとっても望ましくありません。

*4:たとえば「異性を愛さない人は変だ」という言説は、男女限らず非異性愛者に抑圧的であることは明らかですね。そして、この場合はたとえBLの議論だとしても、女性の存在を不可視化させるべきではない。<自戒を込めて。

*5:ここで私は、「実際に執筆する」だとか、「やおい論をする」だとか、あるいは「消費する事で文化を支えている」場合を、「担う」と表現しています。もちろん、それぞれに負うべきものや程度は異なります。

BLの「表象」を問題化する立場としてレスのレス、m-aboさんへ。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20090106/1231253753

m-aboさん、今回はご丁寧なレスをしてもらって恐縮です。

この度、m-aboさんには、こちらの「ゲイだからじゃない、お前だから好きなんだ」をクィアしたいのですが、どうすればいいでしょうか? - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃないにレスポンスを頂いたわけですが、元々m-aboさんのお書きになられた11月22日付け記事『腐女子の履歴書』に対して「でも別に担い手がどう思っていようと表象暴力はあるにはあるし、そもそもBL批判者だって担い手の心理など(必ずしも)問題にしてなかったよね」と言いたかっただけなんですよ。それをわざわざm-aboさんのコメント欄ではなく、雑感を足してTBにしただけなのに、正直レスポンスを頂けるとは考えてませんでした。
ですから、どうぞ年を越したことなどはお気になさらないでください。それを言うと私も未だにかけてない記事がありますからー・・・・。


では早速。

 いっぽうnodadaさんの目指す読みの方向に、僕が基本的に共感できるのは、「キャラクタの深層心理を勝手に想像したい」と書かれている、この「勝手に」の一語が負うているもののゆえ、だったりします。「積極的」な「誤読」とは、さまざまに読まれうることを逆手にとった読みの実践、と受け取ったのですが、どうでしょう?

えー、ここら辺は確かに言われてもみればそういう政治的意図を持ってる自覚はあったのですが・・・ただ、私は自分でも自分が分からなくなる時がアルので・・・Zさんにも「考えなしでした」と書きました。。。ここらへんは、あまり気にしないでください^^;


で、「表現されたものがさまざまに読まれうることがもたらす政治性」についてですが、ごめんなさい、そもそも表象暴力って「ある人からすると差別的に読めるから起こりうる問題」なのでしょうか・・・?根本的に表象暴力というものがどういったものかを押さえてないとよく分からないのですが、私も中途半端な理解だったようで、ちょっと混乱してます。

とりあえず、今回は置いておくとして、件のフレーズについて書かせてください。


・・・以下に議論経緯を把握なさってない読者様用に先の文章を再掲します。ご存知の方はどうぞ読み飛ばしてください。

 ただ、「表象暴力論」者の端くれ(笑)としては、コラム「TOPIC1 表現って暴力?」には少し疑問が残りました。「ホモだからじゃない、おまえだから好きなんだ」という、やおい・BLにおけるゲイ差別性の象徴のようになったセリフについて、無記名の筆者は、それはホモフォビアではなく、性愛全般への嫌悪が言わせるものだ、と指摘しています。やおい・BLの中で、ゲイ男性が、一種セックスモンスター的な、男なら誰でもいい、というような人物像で描かれたとしても、それは、ヘテロ男性を含む男性の性愛全般をそのようなものとして女性が嫌悪していること(「男って、女(男)なら誰でもいいの!?」みたいな感じ?)の現われなのだ、と。

 その筋道自体は、個人的にはうなずけるものです。しかしまず、おおかたの読み手・書き手の意識せざる共通了解が仮にそうだったとしても、現れた表現がホモフォビックに読まれてしまい、同性愛嫌悪を再生産しかねないことまでもは、否定できない。そして何より、上記のような正当化は、腐女子がひとり残らずそうだ(=そのように読む者にかぎり「腐女子」と見なす?)、とでも主張するのでない限り、正当化からこぼれ落ちる誰かを、必然的に生み出してしまうはずです。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20081122/1227366828

この記事に対して私はこう書きました。

この手の言説は批判対応という文脈においては(m-aboさんが仰るような)内部抑圧に転じたり、あるいは抑圧自体を隠蔽するレトリックとしてしか有用ではないと思います。しかし、だからと言って分析する事自体を無駄だとは思いません。匿名の書き手さん↑とは別の方向性ですが、BLを読解したい私としては、男が男を愛することの理由に「お前だから好き」と言わざるを得なかった背景、キャラクタの深層心理を勝手に想像したい感じです。

【中略】

そして、担い手が「なぜこのような表現が産まれたのか」を考えることで、差別性発見のみならず表現の希望・クィア性を見つけ出すこともありうると思います。



たとえば、前から私は「ゲイじゃない、お前がすきなんだ」を『未だ名前の与えられない関係・性愛』(あるいは「与えられているけど名前の認知度が低く、当事者がアイデンティファイできない関係・性愛」)として積極的に誤読(?)しています。ゲイレズビアンバイヘテロといった既存枠から重複しつつも逸脱した関係・性愛として読むことで、異性愛/同性愛が二項対立的ではないことに気付くテキストだと評価する。*2しかして同時に、それを非政治的意味合いの「純愛」「究極の愛」へと安易に昇華させず、あくまで「セクシュアリティジェンダー」という政治的土台に引っ張り出し、キャラクター(攻め・受け)を「自分達の関係・性愛を説明するための名前を社会から奪われた主体」としてまなざす。また同時に「彼らは一体どんな名づけの不可能性に追いやられているのか」という根本を読解すると面白いんじゃないか、と思います*3。

もちろんそれは、今回の言説同様ホモフォビアとして読めるテキストの暴力性を看過しやすいでしょうが、それを最小限に食い留め、(究極愛だとか表象される)彼らの関係性をクィアすることが出来たら多少は有益かと思います。

http://d.hatena.ne.jp/nodada/20081211/p1

そしてm-aboさんからは

「ゲイだからじゃない云々」のセリフが例として取り上げられがちなのは、やおい・BLにおけるゲイ差別的な一面についてピンとこない人にも分かりやすい例だから、にすぎなかったんじゃないでしょうか(自分の場合はそうです)。なにも、このセリフを逐一取り上げてモグラ叩きをする必要はない(笑)*3。このセリフが、具体的な作品の細部を欠いたまま、表象暴力に関する問題提起とBLバッシングとを結びつけるシンボルとして利用されるとしたら、そのことには反対しますし、nodadaさんの言われる「誤読」の方向性というのも、その手の安易なバッシングに対する解毒剤のひとつになるんじゃないかな、と感じます。

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20090106/1231253753

というレスポンスを頂けました。ありがとうございます。


さてさて。これについて私が今思った雑感を書いてみたいです。

「ゲイだからじゃない云々」のセリフが例として取り上げられがちなのは、やおい・BLにおけるゲイ差別的な一面についてピンとこない人にも分かりやすい例だから、にすぎなかったんじゃないでしょうか(自分の場合はそうです)

というのは、仰るとおり個々の実践において偽りなき意図だと思いますが、今まで、あるいは当時、このフレーズが批判されてきた意図には「分かりやすいから」以外のものもあった気もしますよね。とりわけ、BL表現におけるアイデンティティーポリティクスを読み解く立場としては、正にゲイアイデンティティの受容・遺棄こそが主な課題だったでしょう。

たとえば先のコメント欄で私が上げた『お金がない』シリーズには、オカマキャラに対して「オカマの人権は認めない」と豪語するキャラクタ(狩納たん)がいて*1、そのキャラクタが一人の同性(綾瀬たん)を好きなことを「俺はホモじゃない、お前は特別!」と発言します。このケースは、正しく差別感情が顕著で「皆にも分かりやすい一例」なのですが、同時に「男に恋している自分」と「ゲイではない自分」と「男を愛するゲイ」の間で引き裂かれる自我の一例でもあります。
このマッチョな狩納たんと、二人のゲイネスが感じられない恋愛において、明らかにゲイアイデンティティは拒否られているのであり、にもかかあらず「ゲイではない、ゆえに特別であること」に喜ぶ綾瀬たんがいて、そこで二人の恋愛に幸福が見出されている。
「ゲイじゃない男性が自分を特別な性愛の対象だと思ってくれる」。彼らの男性同性間恋愛において、“ゲイアイデンティティの遺棄”は逆に感動要素として機能しうるのに、「ゲイであること」は二人の恋愛幸福に寄与しないかのように示されている。しかもご丁寧なことに、オカマに人権はないらしいのでホモフォビアへの批判性があるとは解釈できないし、一貫して同性愛の尊厳は奪われたままです。
これは、私のようなゲイアイデンティティを受け入れられず、しかし完全に距離を置く事も出来なかったBL読みのクィアとしては、重大な問題でした。たとえ『お金がない』シリーズのような表現がBL内で主流でなかったとしても・・・です。

・・・いえ、m-aboさんの「取り上げられがちな背景」に対する考察が間違いであるとかないとかでなく、このフレーズに対して特別な問題意識を持つ者もいる/いたはずだと言うことです。
そしてその事は私などに言われるまでもなくm-aboさんもお分かりでしょうし、このフレーズだけがあまりにシンボリックに批判されることで、一本の木だけに視線が集まり林全体を見渡せなくなるのは問題です。その点私もm-aboさんに強く同感。したいのはシンボル叩きじゃないんだ。ただ、個々に批評の動機がある。


その上で書くのですが、私はあえてこのフレーズを「逐一取り上げて」、まるで「もぐら叩き」のごとく、このフレーズが 今/この作品において/どのように/なにを意味(表象)したのか、・・・探り続ける営みを肯定します。しかも割合積極的に。

私は、ゲイじゃないお!諸君を「未だ名前の与えられない関係・性愛(この場合は“主体”かな)」として批評したいと言いましたが、それは良くも悪くもシンボリックに認識された特定のフレーズをシツコク考え続けることをも意味します。
ですから、あたしの誤読方向性が「解毒」どころかシンボル叩きに同調する恐れすらあります。

さて、ここら辺から難しい課題です。

「表象暴力」「ゲイへの差別性」の問題提起そのものは、たんなる事実の指摘、ないしただの正論にすぎないと個人的には思っています。べつに批判とは言えないだろう、そんなの当たり前じゃなかったの、と(June誌が「ゲイへの配慮を」といったニュアンスを記事中で匂わせ始めた当時からの読者の中にさえ、「何をいまさら」的な醒めた感覚があったというのですから…)。批判にしろ反批判にしろ、具体的な作品なり事象が例に挙げられてはじめて成り立つのであって、ジャンルとして語るかぎり、そういう側面があるよ、という以上のことは言えない。
 その意味で、具体的に語る段階だ、という指摘にも芯から同感しますし、にもかかわらず、未だ具体論の手前で「そういう側面がある」ということも、しつこく呟くしかない、とも思います*2

「具体的作品例を挙げず、ジャンルとして言うのであればそういう側面もあるとしかいえない」「同時にそういう側面があることも呟き続ける必要がある」というのは、本・・・・っ当にその通りですね。

やおい・BLが何はともあれ「男同士の恋愛」を描くものである以上、やおい・BLを考えようとするなら、ゲイ差別性について考えることは避けられない、としか僕には思えません*4。

 やおいやBLが、今はさておき初期においては、もっぱら男に表象される側であった女性がはじめて客体化しうる「男(=主体)」の表象でありながら、同時に、異性愛社会では周縁として表象される側であり続ける男性同性愛者にかかわる表象でもあるならなおのこと…。



 僕がいわゆる「やおい論者」を自任する人々に期待していた(いや、むろん、今もしていますが)のは、そういった「当たり前」をどう位置づけるか…根本の差別性をどう引き受けるか、その問題をふまえた上で、やおい・BLを肯定していく筋道でした。逆に言えば、差別性をどの程度に見積もるかはさておき、その問題に触れないということは思いもしませんでした。

 ですから、例の『腐女子マンガ体系』が、二、三の論者をのぞいてその問題をスルーしていた時の肩透かし感たるや(笑)。

そして、・・・ここらへんすごく難しくって、私も戸惑い気味なのですが少しだけ。
まず、BLに限らず表象には暴力性・差別性が切り離せない、という前提でしたら、勿論全面的に同意いたします。とまれ、作品によって表象する主体が違うので、「ゲイ差別性」か「女性差別性」か「肥満差別性」かはテキストによるけれど。その上で、個々のテキストにどういった形で表象暴力が現れているかを読解しつつ、テキストに意味と価値を与えることで批評とか批判が成り立つのだと思います。
ですから、確かに「表象には暴力性がある」というメタな議論そのものは批判ではなく事実と言えます。批判とか批評はそれが「どういったもので、どういった意味を持ちうるのか」の掘り下げ作業のことでしょうね、きっと。

で、m-aboさんの議論を乱暴に要約させていただくと、「BLが男同士の恋愛をテーマに扱っている以上ゲイ差別性を考えるのは避けられない、ゆえにBLを肯定するならそこに触れないのは考えられないことだった」というご指摘だったと解釈しています。
・・・しかし、これについて私は、「文脈によって外せない事は当然あるけれど、それを除けばBLを肯定するにあたってどこまでゲイ差別性(というか男性同士の性愛表象)を考えるべきかは、場合による」と思ってしまいます。案件によってはソレを「考えること」はベストでなくベターかな、という酷い結論です。*3


以前に「やおい・BLが女性抑圧に対抗する手段であった経緯を語らずにBLの男性同性愛表象を問題化するのは、世間に跋扈する腐女子バッシングを律する利する行為であまり賢くないのでは」といった意見がありました。佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
これについて私は、「たとえ他者を律することになっても表象(暴力)を語ることの正当性は疑いようもないし、弊害(というのも語弊があるけれど)については別の『処方箋』を用意すべき」と考えます。だって同じ『疾患』ではないから。
で、BL(そのものというよりBLの表現ですね)を肯定するにあたって、何かエンカレッジな側面もあると指摘する際にたとえばゲイ差別性等をどう語るべきか、というのは、本当に個々のケースによってあるべき指標が異なると思います。
たとえば、あるBLがポリガマスな恋愛をモノガマスな恋愛と対等に描いていたとします。この場合、「BLにはゲイ差別の側面があ」ったとしても評価に値する側面が消えるとは限らない。けれど、ポリガマスな恋愛を肯定しているけれど、実は「ポリガマスなのはいいけどゲイなのは良くないよね」という「ヘテロならいいけどレズビアンバイゲイは良くないよね」と同じ“性愛の序列化”を行う内容であれば、勿論ポリガミー側面の評価と同時にゲイ差別性を問題にして、性愛の序列化などを問題化(語る)すべきと思います。*4
つまり、どの表現がゲイ差別性と関わるのかを、個別に見なければ難しいかな、と。・・・ここら辺詰めが甘かったら指摘してください。


ちなみに、表現でなく「BL」そのものとしては、問題性の有無にかかかわらず無条件で肯定する、というのが私の出発点です。
しかし、m-aboさんが『腐女子マンガ体系』に抱いた膝カックンを私が理解できていないのかもしれません。
もし、「BLが表現・文化として差別されている、しかもゲイ差別性を根拠に否定されている」という文脈でしたら、私も少し意見が違ってきます。それにはやはり、戦略的に言っても道義性から言っても、ゲイ差別性に触れるべきだと思います。
「それでもBLはあっても良い。そして私はBLの抱える問題性も丸ごとBLを掘り下げ認めてゆくのだ」という姿勢。それこそが“無条件のBL肯定”だからです。
たとえば「でも、こんな良い側面もあるんだよ、だから悪いところばかりじゃないよ(悪いところばかりの文化は否定されても仕方がないけどね!私たちは違うから見逃してね)」みたいな、「差別」という問題を隠蔽した肯定など、欺瞞と卑下に他ならないですし。

そういえばあの本、もうどんな内容だったか忘れてしまったなぁ。


それから。

 やおい・BL作品にクィア性を見いだしていく作業は、当然、そのすべての読者に対しても作品をクィア的に読み開くことにつながる。ある性的な表現に触れるとき、受け手のセクシャリティがまったくそれに影響されない、と決めつける理由はないはずです…nodadaさんに今さら念を押すようなことではないですが(笑)。セクシャリティの可塑性に対して自分を閉じないでいる受け手にとって、見いだされたクィア性は、自身のセクシャリティにおいて読みの広がりを受けとめるきっかけに、もしかしたら、なるのかもしれない…とは思っています。

という点ですが、これは念を押すご指摘感謝いたします〜♪こうやって言語化されることでクリアになる視点もあり、「あ、やっぱり受け手のセクシュアリティも関わってくるよね」って自信も付きます。だから、m-aboさんにご教授頂けて嬉しかったです。


それでは!
 

 

*1:オカマはゲイだとは限らないし、件のオカマ・染谷さんもどっちか言うとTGなんだけど、それでもオカマに対する差別にはホモフォビアも当然ある。

*2:ちなみにm-aboさんの触れた「具体的に語る段階という指摘」は、http://d.hatena.ne.jp/nodada/20081211#c1229252027こちらの私の発言を指しています。

*3:あと、本筋ではないですが、それがゲイ差別性なのかバイ差別性なのかetc、という点も問題を複雑にさせますね。クリティカルにゲイ差別である場合もあるけれど。

*4:私ならそんなテキストは「恣意的に新たな価値基準を作り、性愛に優劣を付けることに変わりない差別的な表現で、それは性愛規範を強化するという意味で、クィアではなくむしろストレートな表現だ」と評価します。