派遣村で聞こえてきた声と、「まじめで善良でまともな我等」が席巻する此処。

派遣切りされたりホームレスで貧困に陥ってる人がいる。その人たちは「年を越せない」と叫ばされるまでに追い詰められていた。ああ、私は恵まれている。暖かなベッドで寝れる。タバコ・・・は吸わないけどタバコくらいの値段のお菓子やガチャポンを買える。お風呂に入れる。帰る家がある。それくらいに甘えさせてもらってる。この日本で、それらの享受は当たり前ではなく、いわば特権階級の恵みなんだと思う。もしかしたら私も、家庭がものすごい差別的な所だったら自分のマイノリティ性を理由に似た状況に陥ってたかもしれないし、二重の意味で恵まれている。そして、恵まれていることは、きっと恥ではないのだとも、思う。思いたい。

そしてそれ以外にあたしが恵まれているのは、ーーーたとえ努力をしていなくてもーーーたかがタバコの一つや二つを(買ったにしろ貰ったにしろ拾ったにしろ)吸ってるくらいで「タバコ買うくらいなら貯めて自活しろ!」とはやし立てられずに済むところだよね。あるいは行政・企業に対して声を上げたりデモなどをしただけで「そんなのしてる間に職を探せ!」とか言われなくて済むよね。あれって当然の権利なのに、派遣村に集った人や、彼らのような境遇にある者は、「権利行使よりもまず自己努力」を求められているように感じる・・・。
しかしながら、少なくとも、労働以外の収入がある人や現在労働している人は、ホームレス・派遣村の人たちのように「少しの時間も惜しまず労働せよ、お前らにタバコや新聞を消費する暇はないはずだ」とは言われないだろう。お金がないとこんなにも惨めだ。

なんなの?仕事がなくなった等の失敗(?)をしてしまった人間には、そんな些細な<恵み>を受けるくらいの資格もなくて、それゆえに一切の余裕と贅沢を捨て去り、労働者としてのみ存在し、ただひたすらに節制と労働に自身を費やさなければならないって訳?(ところで勤労の義務って国家による強制労働のことじゃないし、労働しなければーー国家に対する請求権であるーー社会権すら認められない的な性質でもないと思うよ?あ、あと税金も同じに。)


ネオリベ自己責任論でぐちゃぐちゃ言ってる人たちは、どうも上から目線で(「善良な市民の我等が施しをしてあげる」的)、何より困窮してる者にこそ厳しい(「本来働かせていただいてる身だろ」的)。
「職を失っただけで即路頭に迷うなんて今まで怠けていたのか」「派遣村に集まった人たちはハローワークがないと職も探せないのか」「派遣村に集まってるのはまじめに働く気のない人(≠ホームレスが想定されてる?)もいるのではないか」「雇用も用意してあげてるのになぜ人が埋まらないのか」

色んな声があるが、それらの批判的な声が、結局は
「貧困者は自己責任でそうなった(はずな)のだから、(たとえ就職後の離職率や待遇や適応が良くなくても)職業を選り好みせず馬車馬のごとく働き、(我等努力者の払った税金を一切使わずに)自分の力だけで生活するべき」
という主張を構築し、是認してゆくのではないかなと危機感を持っている。


しかも、なぜか不真面目な人間は保障されず死んでもやむなしといった前提すら感じられるが、一体どんな社会観を持っておられるのか。


血税が怠け者に」と嘆く人がいる。果たして個人の金がどれだけ使われてるのかは知らないけど、たとえ極度の怠け者であろうとまじめに働いてきた者であろうと最低限の生を認められるべきではないのか。そして、やはり非難の声には想像力の欠如がありそう。いや、ここで言う想像力というのは、「なぜ家元に帰らないのか」という声に「家元に帰れないような人が今困っているとは考えられないのか」という想像力が欠けている、という話ばかりではない。
もっと基本的なこと。そう、誰だってなるべくは良い待遇の職に就きたいし、良い家に住みたいし、贅沢したいし、そもそも働く気力を失う(奪われる)こともある。当たり前じゃない。だから、馬車馬のように働くべき、と言われても、「それって誰の話?自分がそう言われ続けて何も不満はないの?そしてその不満はそんなに叱責されるほど身勝手なものなの?」と思ってしまう。


また、近年不況ゆえに問題が可視化した雇用問題だが、おそらく他の層(女性など)は昔から過酷な状況を強いられてきたのだろう。それを思うと、今頃になってやっと問題が可視化したのは、なにを意味するのだろうか。健常者男性という社会的マジョリティの主体すらも雇用が保証されなくなってやっと社会が問題化した、ということなのか。そして、不況ゆえに起こった問題のように論じだすことで、まるで「今まで何も問題がなかった」かのように振舞わってはいないだろうか・・・など考えることは多い。

気持ち悪いのは、いつだって「善良な市民のためにある社会」「国家のためにある国民」と言った考えだ。そういう考えは、雇用問題以外にもクィアの問題でもありえたと思う。小児性愛者や同性愛者は監視されるべきだ、次世代の生産性にコミットできない上にストレートにとって迷惑な存在だから、と。


今回に限らずだけど。まるで人は国家のために生きる存在で、善良かつ「まとも」な人にこそ価値がある、そうでない者は社会的に承認される価値もない、我等の様になれなかった事の自己責任だから仕方がない。
いつだってどこだってそういう声が響いてくる事が、なんだか末恐ろしいのだ。


追記:
というか、派遣村に訪れた人たちって「(派遣ではない)ホームレス」「元派遣」としてしか見えないわけだが、もしかしたら元々社会的弱者層が多いのではないか、というのは当然思いつく問題です。それこそ障害者や国籍のない人やクィアやその他も含め、それぞれの属性が重なった人たちがいるかもしれません。健常者でストレートで日本国籍で非部落出身で男性で・・・といった人ばかり、ではないかもしれないんですよね。
そう考えると、より踏み込んだ社会的見地も必要になってくるように思います。

ぶろぐー。


ブログ変えたいなー。でもどんなのがあるのかとか良く分からないし、使ってみないと分からないよねみたいな。
あと、雑記用にミニブログ欲しいのよね。日記じゃなく。でもね、ついったーやハイクみたいにフォロー?replyして欲しいわけでもないようなあるような。
ただ最近はてなだけで凝り固まってるのが嫌でさ。
とはいえ、何がいいのか、機能とか扱いきれない自信があるし、レビューの方のはてなは割とテンプレが気に入ってるので使っていきたいのよね。まああれはミラーブログっつーのかな?あれしてはてな以外でもコミュニケーション出来ると思うし。
あ、そうそう。あっちのブログに拍手付けてみた。登録に性別欄あってそれだけでウザかったんだけど、どうやら未選択ってのもアリらしいので登録。あいかわらずテンプレいじるのとかよく分からなくてちょっと綺麗に配置できんかったが。まああ、スターと違って拍手ははてなーでなくても使えるので、もし良かったら押してくれ。無駄に。
つーか本当にあのブログって需要あるのかっつーくらい閑静とした僻地な果てななんだが。反応ないとやる気失せてすごいよ?てな訳で付けた。


それ以前に最近更新してなくて申し訳。そうそう、二つほど書かねばならなかった記事も結局年を挟んでしまった。。。。
もう本当に。だめぽ。
少しずつ少しづつ、書…けるのか自分。まあこの年始は恐ろしく時間が出来るので書ける筈なんだが。うぅ。




とりあえず、何かおすすめのサービスあったらこっそりコメントでもしてください。どうなるかはわからないけど。

吉本たいまつさん個人誌『腐男子にきく。』の告知。

http://taimatsu.cocolog-nifty.com/1yaoi/2008/12/post-628f.html

遅くなりましたが、西と22b「みるく☆きゃらめる」様にて頒布される『腐男子にきく。』の告知です。


XQOさんのエントリ孫引きですが、以下に内容紹介。

腐男子にきく。」 64頁 頒布価格500円

吉本たいまつ:編 表紙:依田沙江美

実態がまだよく分からない腐男子のことを、

腐男子と自認する人々に直接聞いて、

明らかにしようと試みる


mixi内アンケート ← 大まかな傾向を知る為に。


インタビュー
・葡萄瓜XQO(ショタやおい雑記、腐女子言端の内と外 他)

・ちーけん(ネクラで眼鏡でキモオタな優等生は“受け”るとイイよ!)

・しろいぬ(通りすがりの腐男子

・aya-me(ゲイ&腐男子のBL読書ブログ)



腐男子の履歴書」
・いもむし(いもむし)

・のだだ(のだだがBL読んだ。/腐男子じゃないけど、ゲイじゃない)

・flage(腐男子の書斎から)

・コジ(隠れ腐男子「コジ」の日常日記)

氷雨腐男子日記)

+インタビュー回答者4名


コメント:つくも号(19号)

今回残念ながらインタビューの方は参加できませんでしたが、『腐男子の履歴書』という、「プロフィール」&「ハマった経緯」等の質問回答を書かせていただきました。内容については私も詳しくないのですが、色々読み応えがありそうです。興味があれば是非。


しかし、…依田さんが表紙を描かれていたなんて知らなかったぞ!私だいっすきなんです、ヨリサエ!

わっほほい。



それにしても、↑で書かれているように、のっけから「腐男子を自認」してない私が参加して良かったのか…という不安が過ぎりますが、一応腐男子と呼ばれうる者のひとりなので、<内部>からの自発的な声を集める試みとして参加させていただいた次第です。

こうした試みが如何にハッテンするか、私も考えてゆきたいです。

バラバラ殺人事件のだだ周辺。

レス出来てないんだけどー、てかコメントしに其方に伺えてないんだけどー、なんかちょっとアレーって感じで。



 
私は男性です。まぎれもなく。ソレを認めたくないだけで。で、私は男性ではないと言う事で女性に何を言っても許されるのだという特権を得てるのかもしれないです。さて、それなら私はせめてブログの中で男性を名乗るべきなのでは?一部のゲイのように、同性愛者と書いててレズビアンを忘却させる文章を書いたりするくらいなら、男性を名乗って堂々と叩かれる場に躍り出たらいい。
しかし、それはクィアを名乗っても出来ること。出来ていないことをしないだけ。
そして、その怠慢をあるレズビアンブロガーさんにお咎め受けないのをいいことにイイ人の不利をしてるだけ。私は彼女を利用してる、のではないヵ。

ところで、女性を語る上で私は強者であり、ゆえに私は女性個々人が「女性」として受けている抑圧に目を向けなきゃいけないわけよね。
その方法論が私にはよく分からなくって。どの程度「語らなかったことの暴力」を考えていかねばならないのか分からない。
どの程度の責任がそこにあるの?対処法は?


そこであたしは批判されるべきところを批判してもらった方が良いのだが、もちろん批判されて気持ちいいのは、「お前は人間としての価値がない」とマッチョな男から罵られるときだけで、ていうかそれって批判て言うより非難なんだけど。

頭ごなしにすごい勢いで非難されると「何でそこまで言われなきゃなのー」て思うのね。すぐね、思うのね。相手が何に傷ついてるのか知らないのに。神経質やなーって。

そしたら私、同じことしてるのね。友達とかにもね。きっとあの人らからしたら「は?」ねんけど。


私が神経質にたらたらら言うのは、相手に私の怒りを知って欲しいから。相手にも私が怒りを持たなきゃいけない事情の加担者であるから、ソレをつながりに考えていって欲しいの。無視しないで欲しいの。


そのためならみっともなく自分は哀れでござい被差別者でござい、って顔も余裕で出来るの私は。姑息だといわれても痛くも痒くもないの。素敵でしょ?

でそれで相手の無関心が消えるとは思えないの。理性ではわかってても。
感情的になる。


でも、私が怒ってても、「異性愛者として」向き合ってくれない友達を見ると、私の怒りなんておほほのほ。そしたら相手への気持ちも薄らぐじゃない?わたし、人の事モノとしてしか見ないんだけど。それって、私のせいか、相手のせいか。私が物のように扱ってきたから、相手もどこか私の感情に虚ろなのか。
でも無関心ってそりゃあ拭えないよね。みんな、他人なんて二の次だし、二の次じゃない人とか怖いし、ストーカー?聖職者?期待しないでね私飴ちゃんとかしか上げられないから、多くを求められても何もお返しできないので好きにならないでね。愛さないでね。そういうのうっとおしいから。まあこんなの本気で好きになるアホも早々いないか。いたら藁ってあげますわよ。まあいたようないないような感じだけどきっと勘違いイヤホント。

無関心って難しい。私だって色々無関心だ。そういうのにいちいちリアクションもとめられても、何?あんた正義の使者?あっちで遊んでてねってかんじ。
でもそういう人たちの中でいると、時どきひとが嫌いになる。まあ好きという感情がそもそもあるのか疑問だが。


思うんだけど、ゲィを名乗る人って、どこかしら芸に夢や希望を託してるのよ。私無理だったのかなって思う。ゲイって名乗っても良かったかもしれない。でも、なぜだか名乗ってなかった。クィアだった。クィアじゃないくせに。

その頃あたしが見てたゲイが、はたして夢に満ちていたかというと、ね?
そんなものなのってどうなれるの?どうなれっていうの。ていういか、私には納得できる同士なんていなかったでしょ、子供の頃。


ていうかさ、よく「心と体が一致しないでバラバラになる」というじゃん。でもさ、そうやってアイデンティティと自我が一致するっていう感覚自体私にはなかったので、そういうの共感出来ない。
だってさ、自我は私だけで支えるものでさ、自分の感情で自分を説明するしかないわけで。自分しかいないわけで。

もともとバラバラなひとに「自分はバラバラ」って感覚はないょねそりゃあ。漢字読む能力ない人に漢字読めないってどういう感覚?って聞いても漢字読める感覚ってそもそもどんなだよ、て。

私には私は最初からひとつだったよ。もしかしたら。バラバラだったのかもしれないけど。

コメントレスについて補足。

Zさんの趣旨は差別構造を一部のものばかりに焦点化させること、その批判であったと思う。
今回書いたレスは、実はZさんの議論と言うよりも、某所で行われているお話に関する私なりの思考にシフトしてしまった難があります。
それをZさんへの批判のように書いてしまい、申し訳ありません。取り急ぎそれだけ。

「ゲイだからじゃない、お前だから好きなんだ」をクィアしたいのですが、どうすればいいでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/m-abo/20081122/1227366828

 ただ、「表象暴力論」者の端くれ(笑)としては、コラム「TOPIC1 表現って暴力?」には少し疑問が残りました。「ホモだからじゃない、おまえだから好きなんだ」という、やおい・BLにおけるゲイ差別性の象徴のようになったセリフについて、無記名の筆者は、それはホモフォビアではなく、性愛全般への嫌悪が言わせるものだ、と指摘しています。やおい・BLの中で、ゲイ男性が、一種セックスモンスター的な、男なら誰でもいい、というような人物像で描かれたとしても、それは、ヘテロ男性を含む男性の性愛全般をそのようなものとして女性が嫌悪していること(「男って、女(男)なら誰でもいいの!?」みたいな感じ?)の現われなのだ、と。

 その筋道自体は、個人的にはうなずけるものです。しかしまず、おおかたの読み手・書き手の意識せざる共通了解が仮にそうだったとしても、現れた表現がホモフォビックに読まれてしまい、同性愛嫌悪を再生産しかねないことまでもは、否定できない。そして何より、上記のような正当化は、腐女子がひとり残らずそうだ(=そのように読む者にかぎり「腐女子」と見なす?)、とでも主張するのでない限り、正当化からこぼれ落ちる誰かを、必然的に生み出してしまうはずです。ひとりの受け手が、自分の読みとして語るかぎりでは誠実なものだとしても、「いい腐女子」と「悪い腐女子」の線引きを、意図せず行うことにならないでしょうか。腐女子の「多様性」を受けとめようとするこの本の作り手たちの立場を、それは裏切ってしまうように思います。

 自分の主張に沿わない読み方をする腐女子がいたとして、そのような読みを可能にした作品、そしてそのような作品を可能にしたジャンルをその時どう語ろうとするのか……とだけ問いかけてもいくらなんでも抽象的すぎますが、具体的な作品なり読みに直面した際、きっと問い返されることになるはずです。

ブコメでも書きましたが、そもそも「ゲイだからじゃない、お前だから好き」をホモフォビアだと批判する向きは、必ずしも担い手(読み手作り手)の深層心理など問題にしてなかったのでは?と思いました。“表現の”差別性ではなく、担い手の差別的心理を批判根拠にするとか、主張として弱いというかちょっと危ういですし。

というわけで、(今回の論理がどういった文脈かは知りませんが)正当化するにしてもこれは応答の方向がおかしいかな、と。まあ、仮に性愛全般への嫌悪がそこにあるからって、ソレを理由に、主体からホモフォビア存在の可能性を否定出来る訳ではないのですが、それはともかく・・・「ともかく」?

この手の言説は批判対応という文脈においては(m-aboさんが仰るような)内部抑圧に転じたり、あるいは抑圧自体を隠蔽するレトリックとしてしか有用ではないと思います。しかし、だからと言って分析する事自体を無駄だとは思いません。匿名の書き手さん↑とは別の方向性ですが、BLを読解したい私としては、男が男を愛することの理由に「お前だから好き」と言わざるを得なかった背景、キャラクタの深層心理を勝手に想像したい感じです。


そうそう、「ゲイだから好きなんじゃない、お前だから好きなんだ」の例とは別だったかもしれませんが、以前佐藤雅樹氏の論考をりょうたさんが取り上げていました。
ここでりょうたさんは佐藤氏言う「ホモフォビア」の批評性をより広い意味に解釈して、「『普通』ではないから、異端者扱いもやむなし」「露骨に嫌悪さえしなければ差別は無い」などと抑圧構造に加担し被差別者を周縁化する異性愛規範主義へのクィア批評、として解釈なさっている。すなわち、我々が内面化する異性愛規範の無自覚さを政治問題化する営である、と。

佐藤雅樹「少女マンガとホモフォビア」 - に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident
以下は、現在論文が手元に無いので、孫引きです。

pp. 166-167.

 表現に置ける差別を考えるのは難しい。

 作品とは、発表されたときから一人歩きをしてしまうものだからだ。作者に差別的な意図があろうとなかろうと、結果的に誰かをおとしめる価値観に加担してしまうことはある。表現とは,大なり小なり社会的な影響力をもつものだからである。

 (異性愛者の)男が買うポルノグラフィが女性差別表現になってしまうのは、(異性愛者の)男と女の間に社会的な不均衡があるからだ。性の商品化自体が悪いのではなく、社会的な弱者(「男対女」という図式においては「女」)に性の商品化を押しつけてしまうからである。社会的に対等な者同士間で、相手の性を商品化しあうことが差別なのではないはずだ。
【中略】
 そんな中で、それが同性愛を描いたものだろうがそうでなかろうが、男同士が恋愛しセックスする表現物は、あきらかな混同を生む。「男同士」という型を使ったときからすでに「現実の同性愛者」と切り離しては考えられないのだ。「同性愛」という型を使いながら、「そんなつもりはなかった」などと言うのは、あまりにも愚かで無自覚な話である。

 「『純粋な欲望』としてのセックスではない」という言説もヘンだ。だから性差別なんかではない、と言いたいのだろうが、男と女の欲情のメカニズムが違うのは当たり前だ。ことはポルノかお芸術かの話ではない。「愛」だの「関係性」だのという口実があれば許されるという問題ではないのだ。自分より弱い立場の存在に、ステレオタイプを押しつけることが「差別」なのである。もう一度,自分たちが「男社会」から強制され続けてきたことを思い出したらいい。そして、女たちがポルノを批判してきた言説をふりかえってみればいいのだ。
【中略】
 「いい」作品とはなんだろう。それは、安直な「現実逃避をうながすもの」ではなく、「現実を生きやすくする作品」なのだと思う。

まあ女性に一方的な性の意味づけを行ってきたのは異性愛男性にとどまらないと思うけど(クィア男性も自分達クィアの空間で同じようなことして来たでしょ)、佐藤氏の議論は表現の差別性を考える上で示唆に富んでいると思う。


それでは、私が読み取る無自覚な差別性とは何だっただろう。
私が読むと「ゲイだからじゃない、お前だから好き」が伝えがちなニュアンスとは、なぜか「ゲイであること」が「彼を好きなこと」と矛盾もしくは齟齬を生む事実であるとするものだ。と同時に、当人達にゲイ・アイデンティファイする機会を捨て去らせてしまってるように、見える。*1

男同士で愛し合うけれどゲイではないとするキャラクターには、(私自身もゲイにアイデンティファイ出来なかったので)共感できるものはある。性的指向概念は必ずしも自己認識を正確に捉えるものではない。が、ソレを差し引いても、ゲイという名づけが彼らの恋愛・人生を“生きやすくする救い”として機能する道を初めから排除しているような感はあった。


「ゲイじゃないお!」のような表現が生まれた中で、なぜ彼らが「齟齬はあっても、あえてゲイを名乗ることで(共同体とコミットしたり、自分の不安定な存在を社会に配置出来て)生きやすくなった」という物語を、用意できなかったのか。
(無論、アイデンティティが問題化する社会自体が問題だが、)ソレを考える意義はあると思う。



そして、担い手が「なぜこのような表現が産まれたのか」を考えることで、差別性発見のみならず表現の希望・クィア性を見つけ出すこともありうると思います。


たとえば、前から私は「ゲイじゃない、お前がすきなんだ」を『未だ名前の与えられない関係・性愛』(あるいは「与えられているけど名前の認知度が低く、当事者がアイデンティファイできない関係・性愛」)として積極的に誤読(?)しています。ゲイレズビアンバイヘテロといった既存枠から重複しつつも逸脱した関係・性愛として読むことで、異性愛/同性愛が二項対立的ではないことに気付くテキストだと評価する。*2しかして同時に、それを非政治的意味合いの「純愛」「究極の愛」へと安易に昇華させず、あくまで「セクシュアリティジェンダー」という政治的土台に引っ張り出し、キャラクター(攻め・受け)を「自分達の関係・性愛を説明するための名前を社会から奪われた主体」としてまなざす。また同時に「彼らは一体どんな名づけの不可能性に追いやられているのか」という根本を読解すると面白いんじゃないか、と思います*3
もちろんそれは、今回の言説同様ホモフォビアとして読めるテキストの暴力性を看過しやすいでしょうが、それを最小限に食い留め、(究極愛だとか表象される)彼らの関係性をクィアすることが出来たら多少は有益かと思います。
今はその方法論を具体的に知りたい私です。

*1:ところで、「ゲイじゃない」の理由に「自分は、カジュアルセックスが出来て誰でもいいゲイではないから」みたいなキャラクタもいたみたいだけど、若手である私はあまりそういう作品を知らない。むしろ、「ゲイでいいじゃん」みたいなキャラクタも見かけるし。まあ、確かに現在のBLでも、ゲイキャラクタにはセックスモンスター的なのが少なくない気はする。

*2:その評価対象には、「俺は異性愛者だ!」と表明していないキャラクタをあえて異性愛者だと決め付けることで、彼らの恋愛を“異性愛者の”ホモ・バイセクシュアリティとして解釈することも含まれる。…よく「俺は異性愛者だ!」と表明してもいないのに「このキャラクタは異性愛者だ」と思い込む傾向はあるのだが、ソレは単純に恣意的だ。だが、その読みをすることで、「世の中の異性愛者って『ストレート』っていうより揺らいでる感じだよね」と解釈することもあり得るので、ちょっと面白くもある。

*3:その意味で永久保陽子/著『やおい小説論―女性のためのエロス表現』は政治的にも見えたのだけど、「第四のセクシュアリティ」論は、バイセクシュアルやその他の、異性愛/同性愛の軸だけで構築されないセクシュアリティを不可視化させており問題(そもそも彼らの経験を「セクシュアリティ」に配置すべきか、という問題もあるだろうけど、セクシュアリティの意味は私達の名乗りによって積極的に歪められてもいいと思う)。また、BLの一部が表象した恋愛を、それらセクシュアリティと対等に配置していたかも疑問だ。そもそもあの論文自体が異性愛主義的だったように思うんだけどね。つーか、同性愛者であろうとなかろうと、セクシュアリティと恋愛関係の「構成要素」は誰しも単一ではないし、「○○達ならば単一、○○だけは単一でない」とするのは本質主義性的指向概念で規定しづらい経験やアイデンティティは、『フジミ』等BLだけの専売特許ではないのよ。

羅川真里茂の『ニューヨーク・ニューヨーク』は「やおいBL」か?【末尾に補足あり】

ごめん、今年中には書くからあと少しまってください。すいません。


ニューヨーク・ニューヨーク (1) (白泉社文庫)

ニューヨーク・ニューヨーク (1) (白泉社文庫)

ニューヨーク・ニューヨーク (第2巻) (白泉社文庫)

ニューヨーク・ニューヨーク (第2巻) (白泉社文庫)

結構あちこちで聞いた気がする議論で「羅川真里茂ニューヨーク・ニューヨークはBLやおいかどうか」ってのがある。

でも、私としては、それは違うと言いたい。その理由は定義問題などではなく、私の政治的配慮として、BLレーベルと銘打っていないレーベルでの作品をBLやおいとするのは、問題があると考えるからだ。
この社会で、男性同性愛やソレに似たテーマ・モチーフを扱った物語は少ないけれど、あらゆるジャンルにおいて見られる物語だ。なのに、それらまでも(特定のジャンル名とされる)「やおいBL」であるとするならば、各業界内で生きるあらゆる男性同性愛表象を十把一絡げに「腐業界のみ存在するもの」と位置づけてしまうからだ。
ニューヨークニューヨークの場合、「少女漫画」界という業界内で生きている男性同性愛を「なかった」ことにしてしまうのだ。すなわち、少女漫画界に対する歴史修正主義である。(追記:ただ、NYNYは一度青年誌ジェッツコミックスとして出されてるんですよね。この点も加味してNYNYの表象を取り扱うべきだと私は考えます)
少女漫画界では少女漫画界の男性同性愛表象があり、青年マンガには青年マンガの以下略。それらをまるで「やおいBL」という独自性のみで語り尽くせると思い込むのは、各ジャンルへの植民地化で冒涜だと思うのだ。・・・たぶん、一部の少女漫画オタクなどは怒るんじゃないかな。  

ジャンルには、それぞれに固有の歴史と方向性があり、別々の文化として社会内に機能してる。それを同じ定規で一律に測れる道理はないし、また測るべきでもないと思う。

しかし、それでも「これは私にとって少女漫画ではなくやおいBLなのだ!」と言いたい人はいると思う。
その人はおそらく「ジャンルとしての」やおいBLを言っているのではなく、心の中で思う、「自分のやおいBLとは?」的観点で言っているのだと思う。  
それならそれで、解釈は個人の自由だし、「少女漫画でやおいする」といった批評行為として積極的に認められるべきだと思う。つまりその行為は「少女漫画をクィア批評する」と同義であり、“やおいBL的な(腐オタとしての)感性で少女漫画を批評する”ことを意味するのだろう。
それは文化の植民地化とは区別できると私は思う。各ジャンルには歴史などの固有性はあるけれど、テキストに対してどのような「読み」が出来るかは、正に読み手次第だ。それは単純に「作品が持つ意味とは一つだけではない」ことを指し示す。
しかし、だからと言ってそのジャンルたる所以を無視して、「これは○○のジャンルとして位置づけるのが正しいのだ」と一方的に語ることは、文化に対して横暴だ。

 
更に私の立場から言わせてもらえれば、その行為は、ゲイバイクィア男性などの当事者からあらゆる同性愛表象をかすめ取り、まるで我が物顔で自分達の文化内に占有するのと同じだ。私達当事者(の一部)が、腐業界だけでなく、あらゆる空間での生存を望んでいると理解するならば、「男性同性愛表象はあらゆる空間で存在してる」ことを認めるべきだ。もちろん、私は腐業界にも男性同性愛表象が生存していることを喜んでいる。が、もし私達の表象が、一部の空間でしか認められていないクローゼットに似た生存状態にあるのだとしたら、あるいはそのように位置づけられるのだとしたら、それは憂慮されるべきことだと思う。そしてこの現代、そのような位置づけ(言説の政治)は十分に可能だと実感する。特に、日本での「男性同性愛と言えばやおいBLのことだ」と言わんばかりの風潮を見れば、尚のこと実感する。


表象を独り占めするような言説の政治は、多方面から批判されるべきだと考える。
ともあれ、「やおいBL」という言葉がその発生からして混沌としていた経緯も考えるべきなのかもしれない。今回の私の議論が当初の歴史観などで爪の甘いものだとするなら、どうぞご指摘いただきたい。



補足とコメントのレス:

id:rossmannさん、大変レスが遅れて申し訳ありません。批判的なコメント本当に有難うございます。おかげで私自身も考えを深められたと思います。至らない部分もありましたので、補足としてもレスポンスさせて頂きます。以下にその点を。


まず2点確認しておきたいことがあります。
1.おそらく私とrossmannさんの議論はそれほど対立していないと思います。
2.私の議論はヤオイ・BLに特化したものであり一般論ではありません。

1点目ですが、私は『NYNY』にやおいネスを見出す読解を否定していません。「少女漫画をヤオイする」ことは植民地化と区別できる、と書きましたが、それはrossmannさんのように『LOVELESS』『NYNY』がやおいの潮流を汲んでいると判断することも肯定します(無論検証はどれにおいても必要ですが)。・・・ただ、留保が必要だと考えます。(後述)
2点目。ブクマでも「ラノベの越境論を思い出した」という感想がありました。…私は所謂「あ略」「ラノベ越境論」がどういった論争なのかは知りませんが、ラノベ論争と私の「やおい・BLの植民地化」議論は、同じような背景を持った議論なのでしょうか?もし違うのであれば、並置は不適切です。
まず私の前提としては、「やおい・BL」というタームが現在日本において男性同性愛を代表*1するまでに至っている…という認識があります(この時点で異論はあるかもしれません。ただ私見では、本当に腐業界以外の日常においても、現在「うわっホモかよ!」が「うわっ生BL!」にスライドしてると感じる今日この頃)。
このような背景において、『NYNY』を「やおい・BL」と位置づけることは、それだけで他の言説とは違う政治性を持つだろうと判断します。とは言え、文脈によって言説の政治は移ろいますので、最初から「それはやおいだ」「と言ったから」だけの理由で植民地化に寄与するとは限りませんでした。説明不足ですいません。
厳密に言えば、「NYNY(少女漫画)はやおい・BL」という言説は、ある意味その政治性により「植民地化」として機能する危険度が比較的高い、と言えるでしょう。では、どのような文脈ならば植民地化の暴力性が見られるのか?

rossmannさんはかかる言説が腐文化否定のカウンターだとした上で*2、こう仰います。

またここでの「それはやおいだ」という言明は、当該作品を少女漫画ジャンルが生み出したことを否定してはいないわけです。しかし、たとえそれが少女漫画系のメディアで発表されていたとしても、そのことはその作品がやおいジャンルの系譜に位置づけられることと矛盾しないはずです。

ここでは、発言者の動機が文化のジャックにあるのではなく、やおいフォビアに対抗する理由から始まっており、ゆえに少女漫画業界で発表されたこと自体は否定していない、そのため植民地化では無いとしています。

なるほど、少女漫画レーベルであること(あるいは青年誌コミックスであること訂正コメント欄で「ジェッツコミックス」は青年レーベルを指すものではないとご指摘いただきました。訂正します。)をきちんと評価するならば、私も植民地化ではないと判断できそうです。しかし、コレにも一定の留保が必要だと考えます。

植民地化とする理屈は簡単です。現在男同士の恋愛を主眼にしたジャンルは「やおい・BL」が最大級だと私は認識しますが。その現状で、稀に出た少女漫画内の男性同性愛を「少女漫画として」評価する声が仮に「やおい・BL」にかき消されて優先される様な事態があったらば、それは結果的に植民地化していることになる。という理屈です。


ここで私の思考を解説するために、rossmannさん言う「密接関連性」を便宜的に<潮流>と<正典>で分けてみたいです。(あんまり良くない分け方かもしれないが、便宜的に。)
私定義で言うなら、rossmannさんの「作品を貫く美学やジャンルの特性」から作品を「やおい・BLだ」とする行為は、「やおい・BLでしかない(唯一無二の正しい解釈=正典化)」と定義しない限り、作品が汲んだ一部の<潮流>を見出しただけと捉えられます。
しかしながら、「それはやおいだ」という証明に「<潮流>を汲んでいること」を根拠にする等の行為がより優先されるにつれ、いつしか<潮流>の意味をズラして行き、「少女漫画ではない」という捏造の<正典>を作り出してしまう政治性(リスク)こそが、私の言う植民地化なんですね*3
故に私は、少女漫画と銘打たれた『NYNY』の男性同性愛表象を、まずはきっぱりと「少女漫画」として正当に評価することから出発しなければならないと提言するのです。
これは仮に<正典>なるものが「在る」と考えるなら、の話ですが、往々にして<正典>の捏造は起こり得ます。(後述)

もちろんrossmannさんがここで『NYNY』の<正典>を「やおい・BL」として書き換えるつもりが無い事は、一連の趣旨からも伺えます。しかし、rossmannさんが肯定したカウンター言説であっても、「少女漫画から男性同性愛のテーマが出た」事実を軽視した場合、『NYNY』の男性同性愛を「少女漫画」から引き剥がしかねない、と私は危惧するんですね。
そしてそれは家系図の捏造に等しく、“作品の特性と作品が産まれる背景”に「やおい・BL」の<潮流>を見い出だす行為から逸脱する。すなわち“少女漫画だからこそ産まれた表象”を「やおい・BL」の影に覆い隠す言説が、いつしか聴衆と共に『NYNY』に対する「やおい・BL」の正典化を編み出すのではないか、と。(あくまで可能性の問題とも言えますが、看過してはいけない可能性だと私は判断します。)

これは腐側(及び業界に便乗した者達)によって男性同性愛表象を当事者から奪い取れる「やおい・BL」というタームだからこそ起こるリスクだと考えます。更にもうひとつ。(「少女漫画」等にもそういう部分はあると思いますが、)元より、「やおい・BL」はそれ自体がJUNE・耽美・少年愛・ショタなどと分かち難い形でプロデュースされてきたような気がします(…たぶん)。いわば、「やおい・BL(特に「やおい」)」自体が混沌とした名称ですよね。その曖昧模糊ゆえに各ジャンルを不規則に横断し得る厄介さがあるかと。(コバルトもその一例かな?)
そこにも、<正典>を作って表象を自分側に取り込む可能性が含まれると私は思っていますが、いかがでしょう?*4

確かに一般論で言えば定義など常に便宜的ではあります。しかし、にもかかわらずこのタームには、まるであらゆる男性同性愛の表象が「やおい・BL」に還元出来ると錯覚させる行為性すら、ある。男性同性愛について、常に「やおい・BL」を参照しなくても良さそうなものなのに、です。

というか、最近堺市図書館問題で、部外者からすれば少女小説もBL小説も同じだと思われかねない現状が確認されました。あの事件は「やおい」定義の問題性をよくよく表していると思います。(これは、文化の歴史背景を顧みなかった私達腐当事者とソレに便乗した者の責任ですね)

また、

やおい業界には「リアルな」アメリカの「ゲイ」の文化を輸入するような仕事をした人たちもいたわけです

といった背景にも注視すべきと同意いたします。が、このような翻訳文化ですら十把一絡げに「やおい(時にBLも)」とする言語体系(が有るんですよね?)訂正:rossmannさんのコメント*5を参照されたい)は、あまりに混沌としていて、様々な弊害を及ぼしたと思わざるを得ません。このタームが持つ汎用性には一定の注意が必要ではないかな、と…。

<潮流>が「密接な関係」として時に<正典>を作り出すのに加担し、<正典>が<潮流>の意味をズラして証拠だけを引用していく。そのような行為性が、とりわけ「やおい・BL」タームにあると考えることは、それほど愚かじゃないと私は考えています。


…さて、rossmannさんは、「レーベルによる区別とかは、企業がとりあえずやってみたというにすぎない」と仰いますが、果たして一個のジャンルの看板である「レーベル」を看過してよいのでしょうか?
男同士の恋愛をプロデュースする最大級の市場が有ったのに、あくまで『NYNY』がBLレーベルではなく「花とゆめ」「ジェッツコミックス」から出版された歴史的事実を考えるならば、まず一番に確認すべきはレーベルだと私は判断します。
また、現在『NYNY』と対称に位置づけられるようなBLレーベル作品はあまり挙げられておりません(私が知らないだけであるかもしれませんが)。…実際『NYNY』にはBLレーベル内でそれほど多く描かれなかった部分もあって(ひとつのカップルの一生を描くこともBLレーベルではあまり無いし、扱うテーマが多岐にわたることもあまり無い)、少女漫画と通底する部分と同様に、差異も確かに存在します。ゆえにレーベルの差異を虚構としては捉え難いはずでしょう。
ここを看過するのであれば、正しく私言う<正典>としての「それはやおいだ」言説に加担するリスクが生じてくる。このように判断いたします。(無論正典など無いとする立場もありえますし、それが妥当とも思います)

それでもなお、前提として少女漫画とやおい漫画ジャンルの区別さえ定かでないのに、さらにこうした歴史的な様々な連関を無視して純粋少女漫画として『ニューヨーク・ニューヨーク』を位置づけたい少女漫画読者がいたら、私は「そんなバカな」というしかないですよ。

はい、『NYNY』が「やおい・BL」の潮流を汲んでいる事実について私も認識を疎かにしていて申し訳なかったです。これもある意味正典化のひとつだと反省して、趣旨に同意します。

ソレと同時に、rossmannさんには是非とも「それはやおい(もしくはBLも)だ」とする言説のリスクに同意して頂きたい所存です。峻別が難しいとしても、そこにある差異を明らかにする作業が意義を持つ場面もあるはずです。事実として「やおい・BL」は<正典>を作り出す行為性を持ち合わせております。このことに留保して、件の言説を注意深く観察する必要がある、と考えます。あるいはやおいネスを読み取る場合もそうですが、少女漫画レーベルから出された背景を看過しないと同時に、「低通する、潮流を汲んでいる」といったニュアンスが正典を作り出さないよう配慮が重要になるかと。(もっとも、留保の文脈を読まれない場合は、発言者でなく聞き手に問題があると思いますが)
この点は私自身自戒を込めて。。。


あと。

nodadaさんの想定している問題の言明とはズレがある気もするのであれですが

はい、そこらへんは拙文が至らなくて、rossmannさんのお立場を不用意に植民地化の立場にしてしまったこと、お詫びいたします。


……長くなりました。かえって混乱させてしまっていたら申し訳ありません。とりあえず私もここらで退散します。
それでは、コメント有難うございました。

*1:<あ、「表象」には代理代表といった意味がありますが、ここでの「代表」のニュアンスは、単純に「男性同性愛を語る上で現在席巻している語彙」という程度の意味です。

*2:←ちなみに私も、一部でカウンターとして出されたこと自体は一応存じ上げております。そこに配慮して、上記本文では腐文化に男性同性愛表象があることに喜びを示しています。

*3:たとえば「少女漫画なのにBL・ヤオイ要素が強い」みたいな評価もソレに該当します。男性同性愛自体が「=やおい・BL」ではないのだから、少女漫画から男性同性愛が描かれたなら、まずは「少女漫画内の男性同性愛である」と認識するのが本来のはず。更に、その認識が「やおい・BLである」事よりも優先されない理由が、考えられない。

*4:また、カウンターとしての発言者が青年マンガに同じ言説を繰り返さないとしても、現在男性同性愛表象を脊髄反射的に「やおい・BL」と名付ける風潮は、青年マンガ業界とて必ずしも無関係ではないと憂慮するのです。

*5:http://d.hatena.ne.jp/nodada/20081201#c1228612068