BL使って私的且つ割りと政治的な活動してますんで大目に見やがれコンチクショー。

いい加減、以前頂いた(のに何故か届いてない…ごめんなさい)TBにレスポンスしたいのだけど、今のモチベーションでテキトーに書きたくないので保留させていただきます…。でも必ず書きます。
ちょっと長文になるからハイクじゃなくこっちで書く。

最近ある友達にBLを貸しまくってる(腐教)。一度に1〜30冊は貸してるので本当に大量なのだ。が、最近あまりに本があふれた自室の悲惨っぷりに絶望して掃除&本整理をしたのだけど、そのせいでもはや本を詰めるスペースがなくなってしまい、「これ以上本が増えたらどうしようか」と迷ってるところで以前貸した本の返却分がご帰還なさったのでもうどうしろと、て感じになった。
それはそれとして。その友達にBLしこたま貸してそのしこたま量を返されたときに、感想を求めたの。次回の貸し出しも気に入ってもらえるように、何が面白くて何がツボなのかリサーチ!!(ちなみに彼女はヤマシタトモコが大のお気に入り。受けの好みは若干似てるのにやっぱり違いが出るな…。
で、その内の一冊に対する感想で彼女は「全体にリアリティがあって面白かったのだけど、その割りにノン気の攻めが同性愛に対して抵抗が薄くて、そこだけがリアリティに欠けてて浮いていた」と言っていた。

私はそこで「でも思うけど、世の中にはそういう人って案外多いんじゃないかな。異性愛中心主義でどうしても世間からは不可視化されるけど、BLはそういう隠蔽された異性愛者のホモセクシュアリティに触れている文化じゃないかな」と言っておいた。そこでは異性愛主義のみならず、モノセクシュアルの「男か女か」のこだわりにも話が及んで、性的対象が男女どちらかであるべきって規範についても色々語る機会をもてたんだけどね。
どこまで伝わったかは分からないけれど、彼女は私の話に真摯に耳を傾けてくれて、セクシュアリティにおける一部のイズムに関心をもってくれたようだ。

でもね?それ以前に、私が具体的に批判していなかったにもかかわらず、彼女が私の前で「男同士に抵抗ないBLは最低だー」的なことを言わなかったことが、今思うとちょっとうれしかったかも。いや、上での言葉はソレに近いものがあるけれどさ?ともあれ(所謂「ボーダレス」なセックス観を否定することで同性愛や非モノセクシュアルをも否定するような)ダイレクトな否定的言説はしなかったのですよ。
なんと言うのか。異性愛規範による「男同士であることの葛藤*1を描いた物語」を嗜好する人は自由にしてくれればいいと思うのだけど(無批判に受け入れはしないけどね)、よりにもよって私の前で私の友達が「男同士の葛藤があるBLって素晴らしいよねー」とか「男同士なんだからそこには葛藤があって然るべき」とかは言わないでほしいのよ、さすがに。
無意識なんだろうけど恥ずかしげもなく私の欲望を目の前で否定する友達(?)っているのだけど、あのー、私の尊厳はどこにいくのー?みたいな。いや、そういうの他人に求めても無駄らしいから自分でなんとかするしいいんだけどさ。でも彼女はもしかしたらそこらへん(my尊厳)を気遣って「葛藤がないのはおかしい」ではなく「リアリティがない」という表現を選択したのかもしれない、と思ってさ。もちろんその言葉ですら嫌だったので「でもBLって…」と続けさせてもらったけどね。なんにせよ、少しは変化がありそうだと感じた。


私は以前「もはや友達に(自分の尊厳を守る手助けを)期待していない」と書いたけどさ、BLを通してカレ彼女らの異性愛主義に対する異議申し立てを少しだけやっていたりもする。変化があったらちょっとうれしいなーって。
↑という自己弁論で「だから私は自分で一切努力する前に一方的にすべてを諦めて嘆いてるだけの厨じゃないですよー」と言い訳して置きます。
って、別に自分の環境かえる努力もしないで投げ出してウジウジしてもいいじゃねーか。
何でか知らねーけど悲嘆に暮れたり一人で絶望したり壁をよじ登ろうとしない人を世間は叩きたがるんだよなー(ジコセキニン論者とか含めて)。だってそうする方が自分にとって(無駄になるかもしれない努力するよりも)合理的なんだから仕方ないじゃん。ウザいんだよ、自分が頑張れるからって他人にまで努力を押し付けるなよ。努力の結果幸せになれる人は「良かったね」とは思うけど、それはあくまでひとつのケースに過ぎないわけで、それを理由にオーディエンス(に回った人々)が努力をしない奴を叩くのって、どうしても納得がいかない。つーか私は根暗なんだよ、悪いか。文句がある奴はせめて私が努力をしないほうが合理的である構造を批判してから来やがれ。そしたら話だけは聞いてやるよ。

*1:って「葛藤」じゃなくて、単なるホモフォビア異性愛主義じゃねーのか?って前から思ってるのだけど、どうよ?

十代目、Buon Compleanno!

10代目ぇえ!!

今日も終わりかけですが・・・、10/14はツナたんのお誕生日です。おめでとうございまーす。(^0^)♪
あ、あと、リボーンとザンザスも遅ればせながらおめでとーーぅ…。(ごめ・・・

これからも右腕の獄寺さんを何卒よろしくお願いします。どうぞあの子を幸せにしてやってください!あの子を幸せに出来るのは・・・っと。未来でもがんばってください!皆応援しとりますゼ☆(>▽<b

一応27ロウソク用意しておきましたのです。↓今回は獄誕のように、私の見苦しいお菓子ではなく、ちゃんとお店で買ってきたケーキでお祝いです(笑)



と、ところでコレ・・・。っかかかかか可ぁ愛い過ぐる。

おめでとーございます。

コメレスと、腐ったクィアの私にとって等価値な「腐趣味とクィア政治」について。

私信とぬえっくと腐フォビア+クィアフォビアの関連性。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない
関係ないけど、コレ↑、ものすごいへんてこな記事だよな、今思ったら。誤字だし、そもそも動画はチキさんがコメントしてる奴でよくね?
とか色々突っ込む所はあるのだけど風邪引きだったことでご愛嬌。
ともあれ。
えーと、前エントリに付いたコメントのレスをしようと思ったら、ものすごく長くなったのでいっそエントリ立てちゃいます。甘栗剥いちゃいます。
以下レス↓

コメレス。


どうもコメントありがとうございます。遅くなりましたがレスですー。

同性愛者のために真剣に取り組む腐女子はあまりバッシングの対象にならないと思います

 おそらく今回頂きましたこのコメントは、「クィア*1よりも腐女子の方が叩かれやすい」という私の論点に対して「なぜ腐女子が叩かれるのか」の背景を考察してくださったのだと思います。そして更に、腐女子が叩かれる背景に対して「正当か不当か」の評価・判断をなさっているのだと思います*2
そのように理解したうえでお答えさせてもらうならば、私は『腐女子バッシングは差別ではなく正当な評価で反論できない』という条件設定自体を採用いたしません。たとえばそれが“非難”ではなく“批判”であった場合でも、「反論できない或いは仕方がないかどうか」の判断は状況によって異なります。

バッシングの対象になるのはやおいやBLをただの娯楽(もっというと「萌え」や「ポルノ」)として消費してる腐女子達だと思います。

再度申し上げますが、私は腐女子叩きへの合理性を議論していないし、正当であるか否かも、ここでは結論できません(それは個々のケースを細かく公平に見て考えるべき事項です)。そして、正直、さほど調査もしてないので腐女子のどういった層が叩かれているのか、あまり存じ上げないのです。残念ながら私としては何も語ることがないので申し訳ないです。しかし、何れにせよ私も、現在の腐女子バッシングは理性的なものとは言い難いと思います。そしてそのようなバッシングとは、自ずと「ためにする批判*3」に流れると推察します。つまり一つ一つの出来事に論理的公平な批評を行うのではなく、一人の目立った腐女子言動を捕まえて、嫌悪的に腐女子全体を叩くような、非建設的且つ狡猾なバッシングを行っているのが現状かと*4


ただ同人を見て分かるように、一般に女性は美形の男や女の絵を描くのが非常に盛んです。そのため原作改変のやおい同人絵がネット上ですぐに目に入ってしまうらしいです。そして絵なので文字よりかなり伝播力・破壊力は大きいです。これがクイアより腐女子が男側に感情的反感を持たれる理由です。

私も、二次創作が「オタク」的行為として今や社会的に無視できない活動になっている状況下で、その表現内容が目立つ形式であることが非常に腐女子の立場を悪くしている可能性はあると思っています。が、クィアクィアリーディングというもので酷く「原作改変」を行うものでして・・・*5。しかし、それについては不問なのに(スルー)、腐女子の腐表現はスルーされないという、非対称的な状況なのだと思います。実は今回、この意味でも、日本のクィアへのフォビア・攻撃性はLGB当事者ではなく腐女子に流れてしまっている現状が少なからずアルのかも、と愚考してたんですね。
それはともかく、男側、というかある特定の「男性」が腐女子に反発するのは、すなわち「目立つから」なのかどうか・・・? そもそも反発の根底にあるのはミソジニーホモフォビアだと考えるのですが、いかがでしょう。要するに、腐女子が目立つ前から、彼らには元より腐のようなクィアのような特性を叩く動機があるわけで(たぶん)、その攻撃性が腐のオタク的コミュニティーの隆盛を期に(?)、流動的に噴出しているだけなのかもしれません(もちろん、もっと前から否定的な声はあったでしょうが)。

仮にそう考えられた場合、彼らにとっちゃ、腐女子が実際にどんな人たちであるとか、一枚岩でなく「同性愛を真剣に考えてる」or「考えてない」という多様性があるとかは、はじめから問題じゃないのではないか、と思います。彼らが本当に理性的でないバッシングを続けるているのならば、たった一人の腐女子でも、どこかで目立つ・若しくは外聞の悪いことをしていればソレを捕まえて、腐女子の非がナイ所など気にも留めずに十把一絡げに「だから腐女子はダメなんだ」と全否定的なバッシングをしてもおかしくないでしょう(あるいは同性愛が不道徳であると断定したり、二次創作を違法だと断定するなどして、全体を叩く理由を見つけてくるのでしょう)。つまり、彼らの叩く動機には腐女子が同性愛をどう考えてるかどうかなんて、根本的には関係がない、と私個人は感じているのです。ちょっと印象論ですが。(何かイイ例が見つかったら追記しようかな)

しかし腐女子のかなり多くが同性愛を自分に影響の及ばない、ただの娯楽・萌えとして消費しているのではないでしょうか。そういう層はバッシングを受けても「差別だ」と反論はできないはずです。

うーん、確かに趣味として同性愛に触れておきながらやおいBLにおける同性愛表象が社会的にどんな意味をもたらすのか、あるいはどんな暴力になり得るのかを考えないのは困るのですが・・・。しかし、だからと言って腐女子の全てが不当な扱いを受けている現状を正当だとは思えませんし、そう言う<考えない層>が「考えないから」って、「腐女子は原作をホモにして汚している迷惑な連中(<なんてホモフォビア)」「隠れていろ(<何様)」「侮辱されても仕方がない(<なんだそりゃ)」などと言われる筋合いはありませんよね。そして注意すべきは、それは個々の批判(w)ではなく、単なる腐女子“全体”への不当な抑圧であるかもしれない訳ですね。


・・・えーっと、多分ですけど。おそらくアナタが仰っているのは、ゲイが腐女子やおいBL表現を「差別的である」と指摘するケースを想定なさっているのかもしれません。ですが、本当に表現が差別的であるかどうかはともかく(私は全部のやおいBL表現が差別的であるとは思えないし、メタ的に見てそれが差別的であるとか、差別を助長していると言えるのか、よく分かりません・・・)、それを理由に↑のような腐女子への差別(不当なバッシング)を正当化出来るとは思えないんです。
確かにゲイと腐女子の関係性には複雑なものがありますが、その事実と腐女子の受けている現状は、別々に考える必要があるのではないでしょうか。

そしてやおいは同性愛という社会問題を考える作品でなく、むしろ女性向けポルノの色彩が強いです。(ウィキぺディアをみてください) BLは若干違うそうですが男性側からはそういった区別は分かりません。

まあ同性愛は別にいつもいつも社会問題として扱われるべきじゃあないのですが(たとえば異性間DVがあるからって全ての異性愛が社会問題として扱われるべきとは言えない)、「男性」側から見えないにもかかわらず、区別などされずに、偶然見つけた<同性愛者からの腐女子に対する抗議>を理由に、ストレート男性が「ほら見ろ、腐女子は迷惑だ」とか言うんでしょうかね。(そう言ったその口で「同性愛なんて生物として間違っている、そんなものを好む腐女子は最低だ」とか言いやがる奴がいて、とんだ茶番なのですが)

現在の理性的と思えない感情的な腐女子叩きは、腐女子が男性社会の中に強力に存在するホモフェイビアというコンプレックスを表面化させた結果でもあります。

そういう一面があると同意します。であるならば尚の事、腐女子へのバッシングが「特定の層が問題行為をしているのだから仕方がない」とはいえないと思うんです。根本の問題がそう言う類とは言い切れないのですから。

それが真剣に身を挺して同性愛に取り組むというより、(もしそうなら百合レズ物も同等レベルでやる必要が出てきます。)遊び感覚の要素が強かったため(いわゆるドリームや「萌え〜」)に、男社会からの感情的な反応に火を注ぐことになり、場合によっては「腐女子=気に入らない女オタ全員」にまで拡大してしまってるのだと思います。

はい、私はソレを不当且つ議論の混乱を招いているのだと思っています。というか、腐であろうと、いろんな人がいるのに、一まとめにしちゃいけませんよね。
まあなんと言いますか、私も腐業界があるおかげで「遊び感覚」で同性愛を楽しめているわけですよね。そして、同性愛を真剣に考えるなら百合なども含むレズビアン表象についても取り組むべき、というのは正論です。
とは言えコミットメントの動機と言うのも有限であると言いますか、BLやおい(男性同士の恋愛)である故に話す内容が「男性同性愛か女性同性愛か」という偏りが出るのはある意味不思議はないのですが*6、しかし、BLやおいを考える上で女性同性愛についても無視できない面は必ず出てくるはずです。むしろ、出てきたときに無視しないで済むように、注意深く気をつけるべきですよね。そういう注意点はとても同感です。ただ、私にもソレは言えることなので、考えないといけないなーと思います(なにこの小学生の作文)。そして、それらの注意点がある中で、“不当な抑圧を受けずに遊べる自由を手に入れたい”とも思っています。腐女子にしろ、私にしろ、その権利はあるはずですから。



さてはて、腐女子(あるいは腐男子にだって)にも色々と問題はあるでしょうが、その問題とどう向き合うのか、ということと、腐の文化をどう維持し楽しめるか、ということは、腐でありクィアである私には等価値に重要なことなんですよ。
そんな訳で、色々考える必要があるわけで、その機会を下さるコメントを頂けてよかったです。ありがとうでしたー^^
それでは長文失礼しました。

*1:と言うより今回はLGBかしら

*2:私は今回そのような論点で話していなかったので、最初ちょっと文脈がつかめなかったのですが、もし間違ってたらすいません

*3:<当人たちは非難ではなく批判と思っているのでしょう

*4:と言っても、「バッシング」とは往々にしてそういうモノなんでしょうね;

*5:聖書なんかでも行なわれてるので、スゴイ破壊性だなぁと思っています。って他人事カイ。

*6:たとえばレズビアンとゲイの性差を考える場合にも、そういう話になりそうですよね。

私信とぬえっくと腐フォビア+クィアフォビアの関連性。

実は少し前から風邪引きのゴーシュです。ゴホゴホ、ゴッホ。メールはもう少し待ってくださいねー。ていうか、前エントリも結構前から書いてたのを風邪引いてからチョコチョコ直してupしたものなんですよね。だから少し文章変かもと心配だったのだけど、どうだった?え、もともと文章力ないって?あはは、ソレを言っちゃあお代官さんも弁慶の泣き所がスネスネでございますよ。

と、それだけでは何ですので、少しゆえっくで行われたワークショップ「パッケージ化への抵抗−コミュニケーション空間におけるクィアな可能性をめぐって」の動画について触れておきます。

ここでtummygirlさんが2点目のコメントで仰っている内容ですが。確かに言われてみればクィアがweb上で叩かれるということは、比較的少ないのかもしれません。ただ、私としては、このchikiさんの指摘は驚いたんですよね。え、少ないんだ!?と。で、よくよく考えれば、「ウホ」「あっー!」などの『笑い』形式でフォビックな反応を生産されることはよく見かけますが、もしかしたら「ゲイ」「レズビアン」といった名称をずばり攻撃の対象にしている内容は比較すれば少ないのかも、と思いました。もちろんこの比較的に少なさが一体どういう意味を持つのかは慎重に考えなければなりませんが、ただ一つ腐のクィアとして思うことが一つあります。それは、ゲイと腐女子のどちらも男性同性愛を欲望しているにもかかわらず、腐女子のほうがより攻撃の対象として設定されているということです。そして、この腐女子への攻撃性が、「男性同性愛」という正に欲望の共通項へと流れ、ホモフォビアとして立ち現れる現状がままあるということ。
腐女子キモい→そもそも同性愛なんて生物として不自然→男として嫌悪する→腐女子迷惑(…ホモへのタブー視が強化される)」といった形式で、婉曲に間接的にクィアへの叩きになりやすく、しかもこれが(近年の「腐女子=オタク女性全般」という解釈が広がる中で)百合にまで叩きが発展し、同性愛というより広い共通項を通してレズビアンへの叩きにも変移し得るという特徴があるかと。
えてして腐女子叩きがゲイバッシングのかっこうの口実になる、というのはあることで、確かロジワール別館でも指摘されていたような…。今は元気がないのでここら辺で。

要請された沈黙は何を促し、何を承認したのか。腐のコミュニケーション問題について。

少し前まで商業BLオンリーだった私が、ニコ動で二次創作を観るようになってもう半年近く経ったのかな。思えばそれは獄ツナや和準から始まり、今年になってニコ動を含む二次創作同人に本格的にはまったのだけど、そんな中で私は、じょじょに著作権などの複雑なレイヤーをわずかながらも意識せざるを得なくなり、当事者として腐の抱える問題を感じるようになった、、、ような気がする。それに続いて、またいくつかの問題が見えてきた。それは、腐(と外部社会と)のコミュニケーション空間が抱える問題だ。
以前私はこれは興味深い「注BLです」。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃないで「棲み分け」問題に触れ、腐当事者がコンテンツや腐コメを、「マナー」として自制・抑制することで(たとえ当人が意図しなくても)ヘテロノーマティブな要請に従うことになり、腐が名づけたホモエロチシズムがクローズドされてしまう問題を指摘した。(まあ、長いから本文は読まなくてもいいんだけど。というか、今から書くエントリのほうが無駄に長いのだけど。)
ここで私は、実際に現場にコミットする腐当事者(MADを作る人等)の視点はあえて語らなかった。なぜならあのエントリでは、「腐向けMAD」という現場において「棲み分け」が推進されている現状が“ホモエロチシズムの生存”にどんな影響をもたらすかを批評的に論じることが目的だったから。だから、当事者が「BL注意です」のように腐表現*1を自制・抑制せざるを得ない背景については触れなかったのね。
しかし、このエントリを書いたのをきっかけに、私は腐当事者の視点にも関心を向ける機会が出来たのね(というか当事者って私もなんだけどさw)。その中で「腐が異常に疎まれたり、性表現及び著作権など難しい問題を抱えている現状では、なかなか自由に立ち回れないだろうなぁ」と思いいたる。腐表現が外部にまで表出してくると、どうしても腐や同性愛に対して対立・抑圧的な社会や、著作権・性表現問題との衝突が起きてしまい、腐当事者並びにコミュニティ・マーケットが立ち行きづらくなり、腐文化が(多少なりとも)衰退しちゃう可能性があるかもしれない。「面倒くさい。やめちゃおう」とか「制限があるからあんまり活動的に出来ない」とかね。そう考えると、私自身もやっぱり「棲み分け」などの自制を考えてしまう。四面楚歌じゃないけど、結構問題孕みなのだ、この業界。
そういう当事者の問題を語らずにただ「棲み分けが『ホモ』を日陰にしまい込んでいる!」と訴えても片手落ちだったかもしれない。
では、どう語ればいいか。
しかし、皆さんもお分かりのようにこの問題は一筋縄ではいきません。私自身としては、「著作権もなぁ、もうちょっと合法的に二次創作出来る土台がほしいよなぁ」と思ってるし、「ホモフォビックな反応があまりにも“一般的な常識”“まっとうな倫理”としてまかり通っている上に、なんかよく分からん女性文化への攻撃があるみたいで、外部からの抑圧がどうもフェアじゃないよなぁ」と感じている。けれど、具体的な「こういう対応をしてゆくべき」ってビジョンがありません。だから、せいぜい出来るのは、不当な抑圧に対して「それってどうなんよ、フェアちゃうやん、もっと違うコミュニケーションのやり方が模索されてもええんとちゃうのん?」と発言していけたらいいな、と思う。では、実際にソレを行ってみようと思う。


http://d.hatena.ne.jp/gossi/20080914


まあ、私なんかは「不特定多数の他人になら、むしろ嫌われていたほうが居心地よさそうねぇ」とか思っちゃうほうだから、この方の論旨は私には元より縁遠いものに映るんだけれど、ソレはともかく。語る前におさらいするが、そもそも私が「棲み分け」などの『自制・抑制』に関して問題だと思うのは、それが「荒らし対策・自文化の自衛」というお題目から行われているのではなく、「マナー」として行われているのが根本的な問題だと捉えている。なぜか。ソレはこういう理由だ。

そんな訳で似た字面でありながら異なる行為性の「注意書き」なのですが、私は「ホモ」を日陰にしまい込むような、そんな前時代的な行為に共感はしないのです。誤解して欲しくないのだが、私は「棲み分け」そのものじゃなく、「それが公序良俗に反する」という理由から無闇に内側にしまい込むことに何かしらの問題性を感じるのだ((ていうか、私だってタグで腐向けを作ってもらってた方が検索に便利だし「棲み分け」を否定している訳ではないのよ。利便性のための「棲み分け」と特定の欲望のクローズドを良しとする「棲み分け」では、行為として性質が異なる。))。
これは興味深い「注BLです」。 - 腐男子じゃないけど、ゲイじゃない

この、「マナーとして」抑制することと、「荒らし対策*2として」自制することの違いに注目してほしい。前者はそれを規範として位置づけるので、逸脱した際の制裁が待っているという、ある種オブセッションな機能を持つ。かわって後者は、前者に同じく表現に一定の制限を設けるが、まず目的が違うので、逸脱して制裁を受けたときに制裁を自らが正当化するとは限らない立場であろう。この立場であれば「仕方なく自衛として腐コメ自重や検索避けをしたけれど、だからってそれが正しいとは思わないし、意見の違う人にまで強制・要請はしない。」と言っても、言論と行動に矛盾はないはず。
ここらへんが先のエントリで私が書かなかったことです。どちらも当人の意図に関せずヘテロノーマティブな規範に従うことになるけれども、しかしながら前者と後者ではロジックとして全然立場が違うのだ。本題に移る前に、このことを忘れないでほしい。


前置きが長くなったが、では、TB先の文章を見ていこう。

「一般の人」に嫌われないために

腐な話題を腐の集まるコミュニティ以外でするのはやめましょう
人前で、という言い方を避けたのはむしろ腐った話どんとこい、大歓迎!な人たちもいるからです。

ただ、いくらそういう人たちが集まっていたとしても第三者に自分達の会話が筒抜けになってしまうような場所ではやはり会話は控えるべきではないかと思います。嫌がられたくないなら。

このように、gossiさんは明白に「嫌われたくないなら、腐コミュ以外で腐表現は控えるべし」と主張する方だ。同時に、「腐な話題どんとこいな人」と「一般人」の間には距離があるようです。*3一つ一つ意見の内容を見ていこう。

特に興味ない人、苦手な人に無理やり話題をふるとか間違いなく嫌われます。

たまーに「腐だって立派な趣味なのになんで話してはいけないの?」と言う人がいます。

違います。立派な趣味だと貴方が思っているならば、だからこそ軽々しく人前で話すべきではないのです。

そもそも腐コミュ以外で腐の話題を振るにしても、「苦手な人」に「無理やり話す」といった不条理な方法以外にもやり方は色々と考えられそうだけど、「立派な趣味は軽々しく人前で話してはいけない」という意見は、…ちょっと聞かない。

そもそも趣味の内容にかかわらず、きちんとコミュニケーションしたいなら相手の興味の無い話題や今の話と全く関係ない話題を降るべきではありません。
映画について楽しく会話していたところに突然別の人がやってきて宇宙の膨張の話をされたって迷惑なだけでしょう。

無関係な(興味の無い)話題でそれまでの楽しい会話を遮られたり、いわゆるKYなことを言われたりされたら嬉しくないでしょう。

そもそも人と興味のある話しかしない事が「きちんとしたコミュニケーション」だとは思え無いのだけれどそれはともかく、ここらへんを読む限り、どうも一般論としてのコミュニケーションスキルが議題だと読める。(にしても例えがいささか極端では。

たまに自分が腐った話をしたからダメだったんだと勘違いする人がいますが、根本はそこではありません。空気の読めない話を突然会話にねじこんだから嫌がられたのです。

もちろん、興味のある話題で遮られたか苦手な話題で遮られたかで相手の反応が変わってくることはあると思います。が、それが「まっとうな趣味」であっても、嫌いな話題だったりKYだったら嫌がられるのは同じこと。

オタクがウザがられるというよりはオタクが興味のない話をおしつけてくるからウザがられる、なのと同じです。
【黒字部分引用者による】

とあるように、gossiさんは腐が嫌われる背景を差別的な嫌悪感によるものではないと勝手に解釈し、断言している。曰く、「腐だから差別されたわけじゃなく、話題の振り方がまずいのだ」ということらしい。でも、それだと“基礎的なコミュニケーションスキルの問題”な訳ですから、「KY」バッシングの理由にはなれど、「腐コミュ以外で腐の話題を振るべきではない」ことの根拠にはならないんですが、そこら辺どうお考えなのでしょう?しかし、根拠不明のまま議論の正当性を補強する次の話が提示されます。以下に引用。

公共の場所での会話がNGなのは、それらに加えて意外と他人の声は聞こえてくるものだからです。

電車の中で、本人達は楽しくおしゃべりしている「だけ」のつもりでも周囲にまるぎこえ、うるさくて眠れたもんじゃない、仕事の打ち合わせもできない、迷惑な集団ってたまにいます。

内容もさることながら、「公共の場所ででかい声で話す」のが迷惑なのです。

これも何だかおかしい。それなら、腐のコミュニケーションなんか最初から議題にあげなくても「人前で大きな声を出すな!」で済むじゃないですか。しかも「内容もさることながら」って、「やっぱり腐の話題だと叩かれやすい」って認めてるんじゃないのか。それならなぜ、腐だけが過剰に迷惑な主体であると決め付けられなきゃいけないのか。

ファミレスでBLの話するなよ、ウザい、という意見をたまに見かけますが。

それってつまりBLの話をしていると分かるくらいのでかい声で話していたってことです。

根本はそこなのです。どんなに真面目な内容でもそんな大声で話されたら周囲の迷惑です。

じゃあ、静かにしゃべればいいじゃん。

なら静かに話せばいいじゃん、と思う人もいるかもしれませんが静かに話しているつもりでもテンション上がって声が大きくなったり、人が少なければその分声の通りがよくなったりします。特にオタクは興奮したら声がでかくなる傾向が強いです。

無意識のうちに迷惑をかけてしまう可能性がある限り、控えた方が無難なのは言うまでも無いでしょう。

えー、それはこじつけ過ぎでは。オタクじゃなくても口でしゃべる人なら大抵が興奮したら大きな声出しそうだ。


思うのですが、なぜ腐だけがこんなにも慎重にならなきゃいけないのでしょう。たとえば私が枯れ尾花のことが大好きで友達とファミレスで大声になり過ぎない程度の声量(ってどの程度ですか?)で話していたとする。「枯れ尾花マジパねーーーっ!」「あのしなり具合、ヤバくない!?」。そこで隣の人から「ファミレスで枯れ尾花の話題なんかしてんじゃねーよ!!」と言い出しでもしたら、私は「はあ?なんで私があんたの聞きたくない話題をわざわざ控えてやんなきゃなんないのよ、あんたが聴かなきゃいいだけの話でしょ、そんなに枯れ尾花の話題が嫌いなら、出て行けば?」と言うかも知れません。(嘘、私はもっともっと温厚です)
その場合、「迷惑」を被ったのは相手ではなく私。まあ好きじゃない話題を聞いて不快というなら気持ちは分かるけれど、なんで他人が聞きたくなかったら迷惑行為をしたことになるのか分かりません。それが迷惑行為だったら、大抵の人が迷惑行為をしてることになるのだから、腐だけがどうこう言われる筋合いはナイ。腐だけに「自重!」と言いたがる迷惑な集団ってたまにいます。

何れにせよ、それが腐った話題だとしても、大して性的でもない内容ならそれほど責められる謂われはないでしょう。もしかして「ジャムプの漫画って腐向けが多いよねー」くらいで「公序良俗に反する!」とかいちいち責め立てられるのかしら。その場合、私なんかは「下らない」と相手にもしませんが。


そしてgossiさんは『腐を「ひけらかす」のはやめましょう』と訴えかける。

話の流れで自然にカミングアウト、ならいいですが、自分から腐女子であることを無駄にアピールする必要はないでしょう。自己主張の強い奴だと嫌がられる可能性が高いです。

別に腐属性の話でなくても、無駄に自己主張が強いと嫌われることが多いです。

各所で嫌がられる「私腐女子だけど〜」が嫌がられるのもカミングアウトする必要がないのにわざわざ言っているから嫌がられている場合が多いのではないでしょうか。
【黒字部分引用者による】

ここらへんまで読むと当ブログの読者さんならデジャブを感じるかもしれません、特に黒字部分。はいそうです、これってオープンリーなクィアがストレートに言われがちな文句と同じなんです。
ストレートは、“自分たちのセクシュアリティを表明したり話題にする自由”を特権的に得ている事実を棚に上げて、クィアセクシュアリティの表明・表現は嫌います。「そんな話は個人の話だから公でするものじゃない」「その趣味が悪いとは言わないけど、わざわざ言う必要はない」、とね*4。そういう人は基本的に異性愛・生物学的性別を「標準で生物として当たり前に与えられた機能(公)」と捉えて、それ以外の性を「個人の趣味(私)」に位置づけ、クィアを私的な領域に閉じ込めたがる。…クィアがコミュニティの外に出るのを拒むんだ。そうして性的マジョリティに都合のいいシスジェンダー異性愛中心社会が出来る訳だけど、これってかなり不当な抑圧なんだ。そして、そんな不当な抑圧を強いているくせに「あなたのコミュニケーションが無作法だから」「世間体が悪いから」ともっともらしい欺瞞を語って、マイノリティの存在と居場所を奪っていく。そんな出来事がクィア周辺では(も)よく起こるんですね。*5


本来、腐った話題が一般の人に日常会話として受け入れられてもおかしくなさそうなものなのに(!)、何故か腐であるというだけで他よりも過剰に沈黙を求められ、それをしなければ「わざわざ言う必要の無いことをした」と見なされ、迷惑な主体として叩かれる。
で、このような現状があるにもかかわらず、gossiさんは一方だけが沈黙することを良しとしている。もちろん、「こうしたほうが無難だ」とアドバイスすることと、「沈黙しなければ制裁を受けても自業自得」と脅迫することの間には距離がある。けれど、マジョリティからの抑圧がある中でマジョリティの不当性には目をつぶり、マイノリティにだけ沈黙の要請を行うのは、それ自体が暴力的であり、どこか自業自得という論調に親和性があると私は感じるのです。
ここでtummygirlさんのイラン人青年の強制送還について書かれた文章を挙げてみたい。(:注意←は、命に関する切迫した問題なので、本来同列に置く事は不適切ですが、沈黙の要請と行為の是認という「後押し合いの構造」の点で少なからず似た問題性が伺えると思うのです。繰り返し書くけれど、しかしクィアの処刑拷問と腐バッシングの問題ではあまりにも切迫度に差が大きいので、二つを無闇に同列に捉えるべきではないことをここに明記します。)

それらの論調と「あからさまな同性愛行為は処刑に値する」という発言とを同じだと考えるとすれば、それは余りにも乱暴です。こっそりひっそりしていれば危険は避けられるよ、と論じることと、こっそりひっそりしてなければ処刑されても当然だ、ということとの間には、もちろん違いがあり、その違いに命がかけられている以上、それはとてつもなく重大な違いです。にもかかわらず、このようにして並べて見た時に、その二つの論調がその根底においてどこかでつながっていることもまた、明らかです。
前者の「発言」(ひっそりしてればどうにか生きていける)が後者の「行為」(拷問/処刑)を最終的には是認し、後者の「発言」(ひっそりしていなければ処刑=ひっそりしていれば処刑しない)が前者の「行為」(強制送還)を正当化する。そこにあるのは、互いの発言によって互いの行為を見逃しあい後押しし合う構造です。そして何よりも腹立たしくそして悲劇的なのは、その見逃し合いと後押し合いとが、特定の個人の生命や安全、あるいは基本的な安心に対する切実な脅威として集約され、具体化されているのだということです。
その発言がどのような行為となって誰を脅かすのか:イラン人青年強制送還をめぐって - FemTumYum


時折、「隠れてさえいれば問題はおきないのだから黙っているべきだ」という、「棲み分け」などの要請をされる腐。さらに、コミュニケーションスキルには予め腐表現の自制が盛り込まれているというこの現状。ここでは「隠れ腐女子」という名前が象徴的ですが、腐またはクィアな主体は、えてして自己表現の自制を求められ、クローゼットに入らなければ制裁が加えられるというリスクを負わねばならない。

gossiさんのエントリでは、↑のような要請とどこかしら繋がった、もしくは相互補強するロジックが見受けられます。

趣味の合わない人の前ではBLの話をしない、第三者が出入りするスペースでBLの話をしない。

結果、そのような趣味があると周りに気付かれない。それだけの話です。無理やり隠そうとせずとも、円滑なコミュニケーションを追求すればそうなります。「相手の嫌がることはしない」ものです。

とあるように、自己の腐ネスを自由に表明・表現すると、ただそれだけで問答無用に「相手の嫌がること」をしたと見なされるのが、腐の現状でしょう。しかも一方だけ沈黙する事が「円滑なコミュニケーション」とまで言われかねないのだ。*6


gossiさんは腐女子が自分の趣味を公に語ることを「無駄だ」と言うけれど、規範的でない属性を語ることを一方的に「無駄だ」と断じてしまう事は、「なぜ公に語ることが難しいのか」という問題を不問にするし、抑圧的だと思う。
実際、ファミレスで話してるだけでも何故か疎まれがちな腐表現ですが、どうして嫌われるのかを考えれば、やはりそこには腐への差別的な嫌悪がある可能性は否定できません。だって、コミュニティ内でしか好きな話題が出来ないって、考えてみれば異常じゃないですか?


また、gossiさんは検索避けに関しても意見を主張されていますが、

例えば 検索避けを入れよう のバナーなど、強制ではない、としておきながら「全てのサイトに」「気持ちよくネットができるように」といった文面を使って「検索避けがないと気持ちよくネットが出来ない」と誤認させるような言い回しをするのは不適切ではないかと思います。

という言説が、そのままご自分に返ってくる危険にお気づきではないのでしょうか。あなたは一見して隠れることがマナー(規範)ではなく「穏やかにすごすための提案」と言うけれど、「必要が無ければしゃべるべきではない」、それなのに「隠れずにいたら無意識の内に迷惑をかける可能性が高い」と根拠も無しに決め付けるのは、普通に読んだら脅迫的に感じますよね?
この意味においてあなたがおっしゃってる内容は、「初対面の人間に理不尽な命令を」しているのとそう大差ないのではありませんか。

最初から、腐への嫌悪感を「差別ではない、腐が悪かったのだ」と断定しつつ、隠れていなければ無闇やたらに腐のコミュニケーションスキルを疑ってかかる。*7
それから私見なのですが、「話の流れならカミングアウトしてもいい」とおっしゃるけれど、その基準を決めるのも「一般人」になってしまうのではないでしょうか。昔からクィアよりストレートの好悪の方が優先されてしまうように。

…そもそも、なぜ腐女子が「必要が無ければ」自分の趣味を語っちゃけないのか、分かりません。嫌われるから、と言いますが、ではなぜそれくらいでいちいち嫌われなくてはならないのでしょう。そうした語りづらい現状こそが、現在腐女子(というか腐当事者)が受けている“不当な抑圧”ではないでしょうか
あなたはもっともらしいシチュエーションだけを想定しますが、枯れ尾花の例のように、一般人から謂われ無き自制を迫られる状況をなぜ想定しないのですか?

クローゼット大いに結構ですけれど、コミュニティ以外では語りづらいといった不当な抑圧を巧妙なレトリックで隠蔽・正当化しながら「隠れないなら制裁が待っている(「嫌われる」)」と語るのはやはり同意できません。あなたは「むしろ腐嫌いは多いので」と認めながらも(!)、「ひけらかすのはやめましょう」と言う。今回のロジックの問題点は、(不当かもしれない、にもかかわらず)抑圧に対抗するのを一方的に否定しながら(<1)沈黙だけを肯定する(<2)と言う二段構えにあります。


マイノリティとマジョリティ間のコミュニケーションでまず大事なのは、どういう状況でどういう表現が認められるのかを、公平な視点から考えていくことではないでしょうか。また、認められないならなぜソレが認められないのか、きちんと考えるべきでしょう。一辺倒にマイノリティだけに沈黙を強いるような言説では、そうした建設的な議論は出来ないように愚考します。



最後に再び私が書いた先のエントリから。

ともあれ、どの「ホモ」がどこに棲むことを良しとされるのか?そして、実際にどの主体が棲み分けを行っているのか?という問いかけがあることに変わりは無い。この二つの注意書きや、ゲイアイデンティティによる「ホモ」などは、これからも在り処を問われつづけるはずだろう。

http://d.hatena.ne.jp/nodada/20080401/p1

この世には「在るべきではない」とされる存在が居ます。何がどのように在るべきか、ただそれだけの事柄すらも重要な議題となっているのだと実感します。それでも沈黙すると言うのなら、もう一度立ち止まって、存在の生存可能性を問い直してからでもよいはずです。

*1:ま、ここでは広く見て、「二人は恋愛だ」などと読むまなざしや、あるいは作品発表にいたるまでを「腐表現」と言い表しています。以下も似たようなニュアンスで論じていきますのでご注意。

*2:というか、よく言われる「自衛」全般のことね。

*3:ところで突然わたくしゴトなのだけど、私のある友人はちっとも腐趣味を持っていないけれど、私の話に興味を持って聞いてくれたりします。

*4:言わないと勝手にシスジェンダー異性愛者だと決め付けるくせに、ですよ?

*5:とは言え、クィアと腐の背景には大きな違いがあります(いや、腐もクィアなのではないか、という議論はありますけれど、とりあえず便宜的に分けますね。ってそれも不当だわね、ごめんなさい。)。腐は別に「自分が腐だ」って明かさなくても深刻な不利益を被るってことがナイ。クィアの中でも、「言わなければ平和に暮らせるのだから」と考えて、カミングアウトなどコミュニティ外で語ることを自制する人もいる。けれど、彼彼女らの場合、言わなきゃ望まぬ結婚を勧められたり、恋人が危篤状態だろうが何だろうが友人の振りをしなきゃいけなかったりする(<たぶん、言っても何も改善されなかったりするけど)。それが大きな違いだ。だけども重要なことに、腐もクィアも、何のかんのと言い訳をされて、差別的な状況を正当化されやすい共通性がある。

*6:というか、叩きたがる連中になると、どうせ隠れてたって文句言うじゃんねー?そうそう、今日ニコ動見てたら驚いたんだけど。腐向けって表記されてるMADでも「腐女子自重しろよ、ウザい」ってコメがいくつか付いてたんだよねw腐コミュで腐コメするのも嫌って主張できる神経はすごい…。

*7:もっとも、「趣味の押し付けが無ければ、理解のある人なら人格だけでも認めてくれるだろう」と一応の保留をつけていますが、しかしなぜ腐だけが“理解を得るべき主体”扱いされなければならないのです。「一般人」が(沈黙を)「押し付け」ているかもしれないのに。そこまで“腐表現は迷惑行為足りうる”という前提を誇示する理由が私には見つかりません。

正しい「読み」があると思うほうが幻想だと思う。

思えばクィアとは、自分たちの求める物語の供給が不足しているためか、ダブルミーニングの表現・解釈を好んだり、一見して抑圧的に映る聖書を自分たちがエンカレッジされるようなテキストに読み替えるなどして、<存在>の拠り所、<欲望>の居場所を見つけてきたのだよなぁ。そういう営みを否定することは、人生の模索を否定することにつながりかねないのかもしれない。とりわけ、<欲望>の生存可能性の否定という文脈で。クィアリーディングも、また腐のやおい読みもしかり、なのだろうか…。


本日、掲示板などネットをうろうろしていたら、「勝手に〜〜と〜〜をカップリングするなよ、他の人らが誤解するだろうが。原作者も恋愛とは違う友情だと言っているのに」という台詞を百合界隈で聞いたのだけれど、えー、作者が読者の読み方に何か注文つけることなんて原理的に不可能なんだから、「原作者が〜って言ってた」なんてのは本当どうでもいいことじゃないか。
確かに荒唐無稽って感じの読み方はあるよ。一般的に賛同されない「読み」ってのは自己解釈がほとんどで、立証的ではない。けれど、だからってその「読み」をしてはいけないルールなんてないし、そこに自分の欲望を見出したこと自体に意味があるのよ。だって、そういう欲望による「読み」が、テキストの価値を深めていくのだもの。テキストはただ受動態ではなく、読者との相互関係で積み上げられる意味の集合体なのでは、と私は感じている。

やおい読みだってそうだよ。別に原作者の意向に沿って読まなきゃいけないなんて糞ったれなルールはないんだし、誰と誰をカップリングにして読もうがそれは読者の解釈であって誰のものでもない*1
ていうか、誰かと共有できる「読み」なんて、おそらくは表面的なものでしかあり得ないと思う。もちろん、自分とは違う読みや似た読みを知って自分の読み方を変えたり深めたりすることはありうるけれどね。でもそれは「どの読み方こそが正しいのか」っていう下らない本質論じゃあ、ないはずだ。
だから、本来「読み」に誤解も糞もないのだ。で、その「読み」が違うと思うなら自分が信じる「読み」を提示すればいいでしょ。「お前らはおかしい、そんな解釈はしてはいけない間違いだ」なんて大上段ではなく、一個の意見として、「読み」を深めていけばいいじゃないよ*2
いや、彼らもある意味「読み」を提示しているんだ。「お前の恋愛という読み方は間違ってる本当は友情だ」とね。でも、そういう一般的で世間的に賛同されやすい読み方してるからって、自分の「読み」だけが“正当/正統”だと思うのはおこがましいよ。あんたは全能なる神様か?あんたが正しい読み方を決めるのか?どうやって?そんなこと可能だとでも?そもそも何でそんな決め付けされなきゃなんないのよ。
・・・思うんだけどさ、それぞれ「読み」が違うのは当然でしょ。まったく何をうろたえてるのよ、今更。
そういう奴に限って「勝手にホモにするな、それは腐女子の勝手な幻想(「妄想」)だ」みたいに異性愛中心主義で(女性による男性の)同性愛を「ないことにする」んだよ。本当何様。
て言うか何?あんたのは「読み」は幻想じゃないとでも思ってるの?って思う。前から言ってることだけど、「読み」はどれも恣意的よ。自分が体制派だからって他の「読み」を迫害する権利なんてないわ。


そんな訳だから、私は「百合オタ・腐オタの勝手な解釈はイタい。妄想を巻き散らかして迷惑かけるな」といった言説よりも、「周りから正しいと思われなくても、萌えるから物語を捏造してるんだ」といった言説のほうが共感できます。
ま、どちらも「読み方には正しいのと間違ってるものとがある」って前提に立つ場合があるんだけれど、フリーダム度が高いって意味で私は腐がするやおい「読み」を支持するな。

ちなみに私はネタで妄想してるんじゃなくて、ガチだけどね。

*1:だから私は読者に注文をつける作家は自分の作品価値を狭めてるという点で不快だし、付き合う義理もないから無視する。

*2:みたいなこと言ってカプ論争になったら目も当てられないけれど、彼女らは↑の連中とは違って、自分の読みに「原作者の意向」やヘテロセクシズムの権威を盾にして正当/正統性を訴えるマネはしないんじゃないかしら…。自分たちが「正当/正統な読み」の持ち主として立たないことを自覚しているから

教科書的なトランスに関する文化批評の態度、とりまとめ。

ごめんなさい、以下にトランスに関して考える上で重要な取り組みを文章化するとしたら、どのようなものになるかを試したらくがきがあります。ですが、それは私の実際の正義ではなく思考実験の一つとして書いたものですので、その点勘違いしないで下さい。

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