教科書的なトランスに関する文化批評の態度、とりまとめ。

ごめんなさい、以下にトランスに関して考える上で重要な取り組みを文章化するとしたら、どのようなものになるかを試したらくがきがあります。ですが、それは私の実際の正義ではなく思考実験の一つとして書いたものですので、その点勘違いしないで下さい。




トランスジェンダーに対する生活の保護や差別の反対を考えるとき、えてして「トランスジェンダーの人に対してどのような対応・措置が必要か」という論点に絞られるときがあるかもしれない。
もちろんそれも重要なのだけれど、実は私たちにはもっと身近に考えるべきことがある。それは私たちの消費・維持しているジェンダーに関した文化であり、すなわち美的基準だ。
たとえば私は日常的にレディスも着ているが、ジーンズとか比較的ユニセックスな格好しか着たことはない。そんな私だけれど、男装したいという欲求と同程度には女装をしていたい欲求がある。が、外見が男性な私がスカートとかを着たら、おそらく「変態」と罵られること必至。(まあ偶然私はスカートに魅力を感じないのだが)
そういう時、「あの人はトランスジェンダーなのだから変でも仕方がない」だとか「変でも罵ってはいけない、それは差別だ」と一見寛容な意見をしても大した意味はない。そもそも、この社会はなぜ「男性」的な人間が「女装」と言われる格好をすることに「変だ」と感じることが多いのだろう?あるいは、「女性」的な人間が「男装」と言われる格好をすることに「男になれない女の真似事」などと軽んじた評価をして「男装」として認めなかったりするのだろう。

特例を除いて、私たちは子供の頃からずっと異性装への否定的な見方を学んできたけれど、それはただ「男・女が女装・男装するのはいけないこと」と教えられたのではなく、「女には女装が似合う」などの美的基準も学んできている。つまり私たちは成長生活していくうえで、ジェンダーに関してストレートな基準を学び、それを手本に自らジェンダーの振る舞いを反復する(しなければ『普通』の逸脱として抑圧を受ける)という規範があったのだ。雑誌に出るような美しさの基準に倣って、それこそが正しいジェンダーの振る舞いなのだと。
この美しさの基準は、そこからはみ出るあらゆる人たちのジェンダーの振る舞いをあざ笑う。なにもモデルばりでなくても最低基準である(らしい)「男が男装を、女が女装を」という注意点を守れば、少なくとも「変態」と罵られることはそれほどないだろう。ただ、私たちの多くにはどうしようもなく「男が女装、女が男装」をしている様に「滑稽さ」を見出してしまう“癖”のようなものがある。その“癖”は男・女の正しい振る舞いを強要する。…あの侮蔑の視線ほど、「男性が女装をして外を出歩く」などを阻止するものはない。
そう、私たちの「男は男の服を」「女は女の服を」という規範からくる美的基準が、トランス的ジェンダーの振る舞いを滑稽だと見るのだ。なぜなら、男が男の服を、女が女の服を着ることこそが美しいのだから!


しかし、本当にそれは社体全体が共有する美的基準なのか、というと、実はそうではない。「変態」と罵られた格好そのものがとても素敵だ、自然だ、と感じる人がいる。そして、そういう人たちのコミュニティがある。「変態」であることに価値を感じる人は少なくはない。私は先ほどストレートな美的基準について語ったけれど、その基準は、常に公的・正統なものではなく、ただストレートなコミュニティや人による一個の基準に過ぎない。
ならば、ソレ(異性装)をイイと思う人たちはそれでいいではないか、という話になるかといえばそうではない。なぜなら、私たちはそのストレート社会に生きているのであり、日常的に基準に晒されているのだから。
たとえば、トランスジェンダーに特別性的魅力を感じる人がいるけれど、その誰もが異性装などのジェンダーの振る舞いを否定していないかというと、そうとも限らないだろう。「男が男の格好をすることが正統。なのに、目の前の人は非正統な格好をしている。」それに対して「禁断愛」よろしく異性装をタブー視した上で魅力を感じるのはあることだ。それもまた、ストレートな美的基準に従った規範的視線なのであり、トランス的なジェンダーの振る舞いへの否定侮蔑だ。「変態」を肯定しているのでは、ない。また、そういう(性的なものも含めた)視線のまったくない、届きもしないコミュニティなど現時点ではありえないだろう。他にも、本当は変だと思わない人でも、周りから「変だよな?」と同意を求められれば同調するしかないかもしれない。
この例に限らず、私たちのジェンダーに関するまなざしは複雑に絡み合っているのであり、肯定派・否定派が綺麗に分断されるのではない。それどころかストレートな基準が覇権的に私たちの生活を取り締まってさえいる。会社に通勤する上で異性装は認められるのか、認められなければ自分はどうやって生活していけばいいのか。そうした切迫した問題を抱える人は、今、ストレートな基準を持った社会に生きている。


では、私はソレに対してどのような主張をしてゆくべきだろう。あるいは、どのような主張が可能だろうか。
なかなか思い当たるものはないけれど、まず、私たちが持つ「これこそが美しい」と思う基準を問い直す機会を持とう、と呼びかけることがあるかもしれない。(ないかもしれない。
その問い直しにおいてはトランス的振る舞いに限らず、ガングロ女子は変だとか、欧米先進国の格好こそがオーソドックスだとか、そういった観念にも目を向けるべきかもしれない。一つ一つの美的基準が、「変態」を規定する基準を生みうるのかもしれないのだから。


こう言うと、思想統制だとかそういった印象を持つかもしれない。しかし、私は「トランス的振る舞いこそが美しい」という基準を作っていくべきだといってるのではない。それは私の主張とはまったく正反対だ。私は、正統な美しさを構築するそのプロセスと枠組みを批評したいのだ。その美しさが、どんな醜さを規定してゆくのか、その基準とどう向き合うべきなのか、そういうことを答えありきではなく発展的に考えようとおもうのだ。
そして、社会が持つ前提を問い直すことの価値は特定の人だけでなく多くの人にとってたくさんあるし、色んな批評というのは社会で認められるべきだ。(そうした行為を禁止することも統制である)

私が美しいと思うもの、それは一体何を基準に作られているのか、そして何を醜く映し出してゆくのか。そしてその思いをどのように受け止めるべきか、社会という文脈の中でどう批評していけるのか。そうした絶え間なく続くテーマへの思考を、私は行おう。